無防備になる その3

無防備になるということが、どれだけ人生を幸せなものにするのに大切な事なのか昨日のブログで分かっていただけたかと思います。今日は、もう一つ、無防備になることの代表的なものである、「言い分を手放す」についてお話させていただきます。

言い分というのは、程度の差を考慮しなければ、文句、愚痴、言い訳、などと同じものなのです。それでは、言うべきことをきちっと言うという場合、それは言い分になるのかどうか、ここを考える必要があります。

簡単に言ってしまうと、言うべきことをきちっと言う場合に、防衛しようとする気持ちの部分が含まれているかどうかで、それが言い分になるかならないかが決まります。例えば、先生に答えを要求された時に、自分が分かっている答えをしっかり発言するのは言い分ではないはずです。

一方、答えが間違っていた時に、さっきの説明を聞いていたら分かるはずなのに、と先生に叱れたとき、説明が分かり辛かったので、と言ったとしたらこれは言い分になりますね。これは言っても言わなくても、自分が答えを間違ったという事実は変わらないからです。ここには防衛の匂いがすると思います。

この5月から日本でも裁判員制度が始まりますね。法廷で無防備な人を見ることはなかなか難しいのでしょうね。なぜなら、裁判というのは、国が定めた規則にのっとって、互いの言い分を言い合う場であるからです。

ここで無防備になって、言い分を言わないということは、被告で言えば、自分を弁護する言葉をいっさい言わずにおくということですから、相当に無理がありますね。また、原告で言えば、言い分を言わないということは、訴えを退けるということになってしまいます。

もしも、被告として自分がしたことをすべて認めているという場合には、無防備になって判決を待つという人も中にはいるかもしれません。そのような場合には、誰よりもその人の心は平安に保たれているはずです。

最後に、無防備な人は攻撃などしないですよね。攻撃してしまったら、無防備が云々というレベルではなくなってしまいます。だから、どんな理由があるにせよ、攻撃を正当化することは絶対にできないということです。

無防備でいられる人は、相手を攻撃しないし、否定もしない。何の言い分も持たず、裁くこともしないし、結果として相手に攻撃させないので相手を加害者にすることもありません。 いつもお伝えしている、本当の幸せである永続的な心の平安は無防備でいることに違いないのではないかと思います。

無防備になる その2

他にも無防備になる方法はいくらでもあります。例えば、自分が苦手なことを逃げずにやるなどです。あがり症で人前で話しをするのが怖いという人は、人前で失敗を怖れていて極度の緊張をしてしまうため、余計にうまく話しができなくなってしまうのです。

この失敗を怖れるというのは、自分への評価が下がることを怖れているのであって、つまり自分を防衛しようとしているということです。無防備になるとは、失敗してもいいやと腹を据えるということです。

そうすると、結果として緊張が解けて失敗することが減ってくることになり、平常心で人前でお話しができるように少しずつなっていくのです。

出来る限り無防備になって生きることのメリットは計り知れません。無防備でいられる人はカリカリせずに穏やかな心でいられます。無防備でいられる人は、不安な気持ちの虜になったりせずに、この瞬間をただ楽しむことができます。

無防備でいられる人は、未来のことを思い憂うことをしません。自分の心を予期不安から離していることができるからです。結果として、リスク回避に今日生きるエネルギーを費やすことをしなくなります。

無防備でいられる人は、攻撃されることがなくなってきます。攻撃されないと分かれば誰だって無防備になれるよと思いますよね。つまり、攻撃されないという原因に対して、無防備になるという結果がついてくると通常考えているのです。

しかし、これが実は逆なのです。無防備でいるという原因に対して、攻撃を受けないという結果がついてくるのです。なぜそんなことが言えるのか、説明をしたいと思います。

説明するに当たって、二つの言葉を使います。一つは、エゴ、もう一つは投影です。
エゴというのは、日本語では自我のことです。でも自我というと、我々が教育を受けてきた先入観が入りやすくなってしまうので、エゴという言葉の方を用いることにします。

エゴは自分を守る役目をしている心の部分です。幼少の頃に、心の成長と共に自分の身は自分で守ろうという小さな意識が芽生えます。これがエゴの誕生だと思えばいいです。生まれたばかりのエゴはまだ充分には自分を守ることはできませんが、心の成長に伴って、エゴの部分も大人になっていきます。

その結果、精神的な自立によって一国一城の主にまで成長していくわけです。それを支えてくれるのがエゴですね。エゴは頼もしい味方と思えるかもしれません。立派な自分を作っていくためには欠かせないものですから。

自分を守るために生まれたエゴは、成長するに従い、エゴの防衛システムなるものを構築していくのです。相手に責められてもナニクソと反撃したり、逆に相手をぎゃふんと言わせるだけの力を身につけたり、こうしたものは全部エゴの防衛システムのおかげなのです。

しかし、エゴの立場になって考えてみると、自分を守るのが目的で生きているわけですから、もしも守る必要がなくなってしまったら、自分の存在理由が消滅してしまうのです。これは、かなり困った事態だと類推できませんか?

その時エゴはどうすると思いますか?投影を使うのです。エゴは自分の身を守らねばならないような現実を投影として作り出すという作戦をとるのです。つまり、防衛し続けるために攻撃を受けるという事態を引き起こすのです。

だから、無防備になる、つまりエゴの防衛システムを使わないようにしてしまえば、エゴも投影することができなくなり、攻撃されるという事態がなくなっていくというわけです。エゴのやってきたことは、ウルトラマンを活躍させ続けるために、裏で手を回して毎週怖そうな怪獣を送りこませているようなことなのです。

ウルトラマンのあの英雄的姿も、怪獣が一匹もいなくなってしまったら、もう見ることもできなくなってしまうのです。こういうのを本末転倒というのですね。だから、攻撃されたくないのであれば、無防備を心がけることです。

無防備になる

昨年あたりから、自分の一つのテーマとして、この無防備になるというのがあります。平たく言えば、自分を守らない、自分をなるべく守ろうとしない、ということです。これはまさしく、幸せになるための絶対条件と言ってもいいものです。

人は自立して、一国一城の主として、日々頑張っているわけですが、無防備になるということは、このお城を守ることをやめよう!ということなのです。せっかく建てた立派なお城を誰かに明け渡してしまおうということです。

そう言われても、なかなか納得できないことだと感じるのは当然かもしれません。なぜ、無防備がそれほど大切なことなのか、少しじっくり説明して行こうと思います。

セッションの時に、よく出てくる話として、いい人でいることを止めて下さい、というのがあります。それは、いい人を演じているので、その演技を止めて下さいという意味なのです。簡単に言ってしまえば、いい人の仮面をかぶっているのを脱ぎ捨てて下さいということです。

いい人としての仮面、あるいは鎧は他人からの評価をなるべく良くするための作戦ですね。つまり、悪い評価をされないための防衛策であるわけです。そういう意味で、いい人を止めるということは、防衛しない、つまり無防備になるということを意味します。

心の中で本音はこうなんだけど、防衛のためにいい人でいようとすると、本音とは違う言動をしなければならなくなったりするわけです。これが、その人の心を蝕んでいくのです。繰り返せばそれだけ、自己犠牲を蓄積していってしまうことになります。

具体的には、いつも必要以上にニコニコしていたり、「ノー」と断ることがなかなかできなくて、結局イエスマンになってしまうといったことですね。このいい人でいることによって防衛しようとする作戦は、実に様々な弊害をもたらすことになります。

すぐに想像がつくのは、人間関係が億劫になってしまうでしょうね。本音で語り合えないわけですから。寂しいから人といたいんだけど、ずっと一緒だとすごく疲れてしまうなどはこれが理由かもしれません。

大好きな彼とデートは楽しいのだけれど、どういうわけか、帰宅するとぐったりしてしまうということを経験している人は意外と多いものです。特に、付き合いだした頃というのは、自分のいい部分ばかりを見せようと防衛してしまうため、疲れてしまうのです。

セラピーのとき、人を優先するのではなくて、自分の気持ちをしっかり見つめて、それを無視せずに自己表現して下さい、と多くのクライアントさんに訴えてきました。時として、それって、単なる自己中心なワガママな奴になってしまうような気がするんですけど、といわれます。

しかし、自己中な生き方なのではなくて、自分の本音を隠さないで率直に表現することでできるだけ、無防備になって下さいという意味だったのです。自己中心とは、自分の考えを無理に押し付けて相手を否定することであって、それは無防備になることではなく、その逆の防衛することになるのです。

つづく

使うと増えるもの

我々が暮らしているこの物質世界においては、使えば使っただけ減るというのが常識となっています。バッテリーにしても、トイレットペーパーにしても、ガソリン、シャーペンの芯、消しゴム、何でもそうです。

使っても使っても一見減りそうにないものでも、長い間には少しずつ減少していくものです。私が今叩いているキーボードだって、何年もの間私の指で押され続けているのに変化してないように見えますが、よく見ると若干表面が摺れて減ってきているのが分かります。

しかし、使ったら使っただけ増えていくものがあるのです。それは勿論今挙げたような物質ではありません。それは一体どんなものだと思いますか?しばし、自分の胸の中で想像してみて下さい。

トンチ問題のようにも思えますが、実は心に関連したもの、気持ちとか思いとか、思考など、そういったものは使うほどに増えるものなのです。例えば、ある事柄を心配し出したら、それが益々心の中で広がっていって、その心配が胸いっぱいに膨れてしまったという経験はないですか?

これは、心配するという心のモードを繰り返し使うことで、その心配が何倍にも増えていってしまうということを意味しています。私たちは人生の中で、エゴを使いたいだけ使って生きてきてしまったおかげで、馬鹿でかい立派なエゴが作り上げられてしまいました。まさにマイナスのスパイラルですね。

逆にプラスのスパイラルがあってもいいですよね。それがあるんです。愛を育むという言葉がありますね。あれは、愛を繰り返し使うことによって、自分の中の愛が増えて大きくなっていくということを指しているのです。であれば、愛を使わない手はないでしょう。

自分の心の中を愛で満たすことができたら、どんなにすばらしいことでしょう。そのやり方はたった一つしかありません。愛を使うことを続けていくことです。愛を使うとは愛を与えると言い換えてもいいです。もしくは、もっとシンプルに愛するということです。

愛するターゲットは何でも構いません。パートナーでも家族でも、友人でも、動植物でも、この地球でも、ただ愛を与えることさえ続ければいいのです。ただしエゴを使いすぎて、それが増殖してしまっていると、愛を使うのが難しく感じるかもしれませんね。でもめげずに、身近なところから愛を使っていきましょう。

投影の続きその4

その他の投影のパターンとしては、様々なものがあります。例えば、自分の身体への直接の投影だったり、その全く逆に、自分が直接かかわってはいないような遠いところで起きてる事柄だったりと、本当に千差万別です。

自分の身体への投影としては、病気を始めとした具合の悪さや苦痛、それと怪我です。これはどういった心の闇を投影したものかというと、周りの人を悪者にして、あなたのおかげで可愛そうな自分はこんな悲惨な状態になっているんだということを知らしめたい気持ちなのです。

その気持ちが強く、切実であればあるほど、重い病気になるでしょうし、怪我であれば重傷を負うという形となって表出してしまうのです。だから、どこにも悪いやつなどいない、自分は被害者ではないということに気づけば、病気や怪我は自ずと治ってしまいます。

そして最後に、自分と全く縁もゆかりもないような事象を投影する場合ですが、これはなかなかなるほどと実感することは難しいでしょう。ここから先はある種のファンタジーだと思っていただいても結構なのですが、世の中で起きている悲惨な事件や、地震や水害などの天災など、こういったことも実は自分のうちにある何かの投影として起こるのです。

そう考えると、それでは投影ではないものって一体どんなものがあるというのでしょうか?残念ながら、実は投影でないものは何もないのです。さんさんと照り輝くあの太陽にしても、夜空に煌く星々など、この宇宙をひっくるめて全部自分の内奥にあるものの投影なんです。

でもこれをいきなり真実だと思う必要はありません。大切なのは、投影のメカニズムを忘れることなく、日々の生活にいかして隠された自分の本当の姿を見出す作業を繰り返していくことです。

投影によって闇の中に隠されていた何百、何千という自分の断片に光を当てて、一つひとつを認めてあげるとそれは溶けてなくなってしまうものもあれば、単に間違いだったとして訂正して終わるものもあります。

そうやって、全くぼやけていて何だか分からなかった自分というものの全体像が次第にはっきりしてきて、最終的には完全な自分というものを理解するに至るはずです。それが、癒しというものですし、そこにこそ真の幸せが待っていると思います。

投影の続きその3

投影の二つ目のパターンとして、周りに起きている事象そのものとして投影するという場合について説明します。

例えば、幼い頃から我慢ばかりさせられるような境遇で生きてきて、悔しくても、憎んでもそれを怒りとして表現することができずに、ずっと耐えて自分を抑えてきたような場合。そのようなケースでは度重なる自己犠牲によって、膨大な怒りが内面に溜まってしまうと考えられます。

そうすると、その怒りがはちきれそうな限界を迎えると、それを何とかして外部へ向かって開放しようとします。その時に、開放するためのきっかけとなるものを投影として外側に作り出すのです。 作り出すというよりは起こすと表現したほうがいいかもしれません。

本人にとって一番腹が立つような現実を投影として引き起こすのです。例えば、認められたい一心で人一倍頑張って仕事の成果をあげたはずなのに、どういうわけか上司には全く評価されないことが起きたり、あるいは最愛のパートナーに裏切られたりといったことです。

溜め込んだ怒りがそれほど大きなものでない場合でも、様々な投影による腹立たしい出来事が起こってきます。それこそ、店員さんの態度が悪かったり、理不尽な思いをするようなあらゆる出来事も、投影によって文句を言える状態にするための作戦なのです。

このような場合に、ただむかつく事態に遭遇してしまったとして、怒りを表現して相手を責めることばかりを続けていても何も解決しないのは当然ですね。自分の中の怒りが原因となって、それを投影することで腹立たしい事象が結果として表れているだけなのですから。

何でこんなことばかりに自分は巻き込まれてしまうのだろうとか、どこの職場に行っても似たようなことで辛くなるとか、自分の人生に共通するパターンが見つかったら、それは紛れもない投影の結果ですし、それを直視することで自分の内奥に潜む問題点が浮かび上がってきます。

その他の投影のパターンについてはまた続きとして書くことにします。

投影の続きその2

投影をざっくりといくつかのパターンに分けることができます。まず、一つ目は、周りにいる人そのもの及びその人との人間関係として投影する場合です。そして、二つ目は、周りに起きている事象そのものとして投影する場合です。そして、三つ目は、その他もろもろの投影の場合です。

一つ目のパターンはとても分かりやすいです。都合の悪い自分の部分を抑圧し、それをそのまま周りの人のいやな部分として投影するものです。例えば、自分が人を見下すという行為をしていて、そんな自分を酷く自己嫌悪するような場合、それを深く抑圧したうえで、周りに人を見下してばかりいるような人を出現させるのです。

自分は見下しなどという下劣な行為など全くしない、無関係だと思っているのですから、その人のことを自分とは違う最低のやつだと思うことでしょうね。自分はそんなひどいやつとは違う、とにかくいけ好かないやつがいたもんだと思うのです。

しかし、自分の内面に少しも人のことを見下す部分がないのであれば、見下す人をみても無反応でいられるはずなのです。いやだなと反応すること自体、自分にもそういった面があるという証拠だと気づく必要があるということです。

その上で、見下す人を見ているときに一体なんでそれが鼻に付くのかということを見つめてみることです。そうすると、自分がひた隠しにしてきたダメな自分の姿というものが浮かび上がってきます。

見下すというのは、自分を周りの人たちより高いところに置いて、安心しようとする作戦なのです。そしてそんな作戦が必要だということは、そのままの自分は弱くて、情けなくて、存在する価値もないなどと錯覚してしまっているからです。

そこを見たくない、思い出したくもない、という想いから心の奥に隠蔽してしまい、そういったどうしようもない自分を守るために見下しをしているということを本当は知っているために、見下しをしている人をみると、そのことを奥で思い出させられていやだなと感じてしまうということです。

そして最後は、なぜ自分のことを弱くて、情けなくて、存在する価値もないなどという錯覚を抱いてしまったのかというところを見にいくのです。ここから先は一人でできなければ、催眠療法などを利用するといいかもしれません。

癒しを進めて行って、そういった心の奥の自分に対する理不尽な錯覚を手放していくことができれば、周りにいる見下すタイプの人のことが気にならなくなってくるし、そういった人自体が少なくなってきたりすることになります。

投影の二つ目のパターンについてはまた書きます。

投影の続き

なぜ投影するのかということについては分かったけれど、それをいつでも認められるかというとそうはいかないものです。それどころか、元々認めたくない自分の部分を外側に見せているのですから、それが自分だとは断じて思いたくないというのが本音でしょう。

自分の周りには実に様々な人たちが沢山います。苦手な人、嫌いな人、うまが合わない人、生理的に受け付けない人、憎たらしい人、面倒な人、理不尽な人、怖い人、こういう人が自分のそばにいたら、大抵の人は遠ざかろうとします。

しかし現実の世界では、いやだからといって簡単に離れられない事情の人達もいますね。毎日顔を合わす学生の時の同じクラスや同じ部活の友人、あるいは同じ職場の同僚、先輩、上司、勿論家族にしてもそうですね。そういう場合は毎日が我慢やイライラの連続になってしまうかもしれません。

そして、その人さえ自分の周りから消えてくれたら、その人がもっとこうなってくれたなら、自分は随分と楽になれるのにと思うものです。そのような人たちのことを思うとき、それも全部自分の投影なんだと思えるかどうかです。

通常は投影だとは思えないし、思いたくもないはずです。だから、いがみ合うことにもなるでしょうし、相手を憎んで、自分のそばに居られないようにしてやりたいと思ってしまうかもしれません。それが出来ない人はただただ我慢の日々を過ごすだけかもしれません。

怒りの感情に任せて、相手を攻撃してしまいがちなのが我々人間の常ですが、ここでこの人は自分のなんらかの投影の結果なんだということを思い出して見ることです。最初は思い出すだけでもかまいません。

そこから人生の進む方向が大きく違ってくるのですから。相手を攻撃したくなったり、実際に怒りを向けてしまったり、相手の言動を許せないなど、そういう自分を責める必要は全くありません。

逆にそういう素直な自分の反応をまずしっかりと受け止めてあげることが大切なんです。出来る限り自己嫌悪を使わないように注意しながら。その上で、あの人のあんないやな面が自分の内面のどこかに潜んでいるのかとなと思ってみるのです。

そこから癒しが開始されるのです。投影にもいくつかのパターンがあり、それによりどう対処していくことが癒しにつながるかが決まってきます。この続きはまた書いていきます。

なぜ投影するのか

昨日のブログでは、人は自分の心の奥のものを外側に向かって投影し、それを周りの人として見ているため、自分が作る人との関係性やその相手自身を正面から見つめることによって、本当の自分というものを知ることができる、それこそが真の学びだというお話をしました。

今日はなぜ人は投影などというものをしているのか、ここに的を当てて見てみることにしたいと思います。例えば、こんなことを考えてみてください。自分が誰かを憎んでいるとします。でも人を憎むなんて、そんな自分であって欲しくないという気持ちが非常に強い場合、その誰かを憎んでいる自分の部分を心の奥に隠してしまうという荒業をすることがあるのです。

つまりトータルな自分の中で、都合の悪い自分の部分だけを自分からも見えないくらいに深い場所にしまって、自分は人を憎むような悪いやつではない、善良な人なのだという状態を確保するわけです。表面的な自分の心は、これでほっと胸をなでおろすことができるわけです。

しかし、これだけでは飽き足らず、もっと安心するためには、自分が隠した誰かを憎む心と同じものを持っている人を身近に居させることで、ああ、自分はあの人とは違うというようにするのです。これが投影の一つの大きな目的なのです。

まとめると、都合の悪い自分の部分をそれは自分ではないと隠すと同時に、同じものを持っている人を出現させて、自分はあんなじゃないとして安心しようとする、これが投影の目的だということです。

この作戦は二重に自分を騙しているので、なかなかたちが悪いですね。ですが、この投影によって出現した周りの人をよくよく見てあげることで、自分が隠し持っている本当の自分の姿をうかがい知ることができるわけです。

そして、実はこの世界は投影だらけなんです。もし、あなたの周りに怒りをいっぱい抱えた人がいるとしたら、それはあなたの心の中に怒りが沢山隠されているということを示していることになりますね。

もしも、あなたのお子さんが不登校になったとしたら、あなたの心の奥底に何かを訴えたいという強い思いが隠されていると思って間違いありません。だからこそ、人は自分の鏡だと言うのです。

あなたのご主人がお酒に溺れて迷惑を被っているとしたら、あなたの心の中に言うに言えない辛い思いが隠されているということかもしれません。投影のメカニズムは常に働いていますので、周りの人を見ることで隠された自分を知ることができるというわけです。

人間関係から学ぶ

人は生きている間に様々なことを学んで成長していきます。学業としての学びもあるし、仕事を通して学ぶこともできるでしょう。でもなんと言っても一番多くを学べるのは人と人との関わりあいの中でなのです。

それはなぜかと言うと、自分の心の深層にある潜在意識や無意識といった、通常自分では意識できない部分を他人に投影して見ているからです。人の心は一枚岩ではなく、自分では伺い知れない部分を沢山持っています。

他人はその未知なる自分自身の部分のことを教えてくれる何とも貴重な存在なのです。だから、他人との関係を通して、自分自身をより深く知っていくことができるということです。それが本当の学びというものです。

それなのに、人間関係に何らかの悩みを抱えてセラピーに来られる方々が大勢いらっしゃるのも事実です。もっと言うと、人間関係に全く何の問題も感じないという人を探すほうが難しいくらいではないでしょうか。

つまりそれは、自分自身の心の中で分裂が起きていて、その中で互いにうまくやっていけてない関係の意識たちが沢山いるということなのです。ものすごく修行を積んだ仙人のような人であれば、独りで山篭りして自分の内面を深く見つめることでたった一人でも多くを学ぶこともできるかもしれません。

ですが、私たちにはそれは難しいでしょう。だから、そんな難行苦行をする代わりに他人との関わりを見つめることで、仙人と同様に自分を知ることができる可能性があります。可能性があると言ったのは、そのつもりで逃げずに人と向き合うことがどうしても必要であり、それを避けていると学びは少なくなってしまうからです。

ちょっと受け入れがたいかもしれませんが、自分の周りにいるどんな人も、それに対応する部分を自分の内面に持っているということです。つまり、他人は自分ということですね。先ほどは投影という言葉を使いましたが、まさに心の中のある部分を映写して、自分の外側に映し出しているのが他人だと思えばいいのです。

これは、比喩ととらえていただいてもいいし、現実にそうなのだと思っていただいても構いません。どちらにしても、我々は人を通して自分を見つめることしかできないのですから。

なぜ投影などということを知らず知らずにやっているのかという話は次回にします。