殺伐とした世の中においても、どこにでも必ず良心的な人というのはいるものです。そういう人たちを見ると、何だか心を暖かくさせられる思いがするのです。
もう随分昔のことですが、バスで帰宅途中のことでした。バリッとしたスーツを着込んだいかにも紳士に見える中年の男性が、立っている自分の前の座席が空いたときに、隣にいたラフな服装の若者にどうぞとその席を譲っているのです。
その姿がびっくりするほどの低姿勢で、あれほど礼儀正しく席を譲られたら誰でも驚いてしまうと思うのですが、その若者もびっくりして、自分は座らないからという意思表示をするのがやっとのことでした。
それでは座らせていただきますというような挨拶をして、その紳士はようやくその席にすわったのです。その一連のやりとりを見ていて、思わず「すごい!」と感心してしまいました。
まだ若かった自分も、できたらその人のような中年になれたらいいなと思ったものです。その一方で、会社の中で野心的な人というのはどうも、そのような良心的な人とは違うと感じていました。
野心があるというのは決して悪いことではないと思うのですが、自分がこの人は良心的な人だと感じる人の中には野心的な人が少ないというのが本音だったのです。
今は超大企業になってしまったマイクロソフトは、その昔かなりあくどいやり方でライバルの会社を買収したり、倒産に追い込んだりということがありました。
法律に触れるぎりぎりのやり方で、野心的にどんどん発展していったさまを見てきた記憶があるのです。つまり、野心的な企業が良心的な企業だと感じたこともなかったと思うのです。
そういう意味では人と同じだなと。例えば、政治家になる人は元々野心的な人が多いのでしょうけれど、その中でも特に野心的な人物というのは、私からみると良心的な感じがしない場合が多かったと思います。
なぜ、野心的なことと、良心的なこととは両立するのが難しいのかなと思うのです。それはきっと、両立する条件というのが、私心を手放すことだからではないかと。
自分の利益のための野心とは、けっして良心的にはなれないということかもしれません。誰かのため、公のために私心を手放した上での野心的な振る舞いこそが、良心的な心と一つになれるということなのでしょうね。