心を見る立場になる

昨日のブログで、「癒しとは、自分を改善していこうとすることではなくて、心を全的に見つめてそれを否定することなく受け入れることなのです。」と書きました。

これはとても大切なことですので、もう少しこのことについて補足してみようと思います。まず初めに、私たちの心は一枚岩でできているのではなくて、たくさんの断片からできているということを認める必要があります。

聖人君子のような清く正しい部分もあれば、ぐうたらなダメダメ人間のような部分だってあるのです。怒りに満ちている部分もあれば、穏やかで静かな部分もあります。

その時々にそれらの中のどれが最も力を持って自分を乗っ取るかによって、その人はいろいろな心の状態になるわけです。だから、殺人を犯した罪人がそのすぐ後で、小さな虫を踏まないように気遣ったりもできるのです。

話しを簡単にするために、一つの心に良心と悪心があるとしてください。そして、私たちは自分をよりよくしようとして、良心を伸ばし、悪心を亡き者にしようと努めるのです。

これがエゴの特徴であり、エゴの世界に私たちを封じ込めておくための作戦でもあるのです。ばい菌を目の敵にして、何から何まで除菌しようとする気持ちに似ていますね。

こうした思いの奥にあるものは、恐れなのです。自分の身が犯されて傷つけられたくないという思いです。自分の気に入らない部分、ダメな部分、そういった否定的にしか見ることのできない部分を必至でなくそうと努力するのです。

けれども、それは人間であることを否定して、天使にでもなろうとするようなものなのです。そんなことは、今日を限りに潔く、きっぱりと忘れてしまって下さい。

その代わりに、心の中にピンからキリまで多彩な部分を取りそろえていることを楽しむことです。それが人間の多面的な魅力でもあるからです。

そして、心の中にあるどんな断片であろうとも、それを否定せずに正面から見ることです。それは、思考を使わずに心を見る立場になるということなのです。

その視点を忘れずに、どんな自分も抱きしめていることができるなら、苦しみがあなたを占領することはなくなっていくはずです。