疑いの心を挟まずに祈る

今から13年ほど前のことですが、会社を辞めて、心の癒しについて深くのめり込んでいったころのことです。やれ、催眠療法だとか、ヒーリングだとか、うまくできるようになるのかどうかとか、未熟なことを考えていたころです。

同じクラスの仲間の一人と親しくなったのですが、その人が身体の病気のことでかなり苦しんでいたのです。なんとか良くなって欲しいという気持ちをいつも感じていたのです。

ある晩のこと、床について寝る直前に、「私利私欲はまったくないので、その病気についてどうしたら一番いいのか、どうか教えて欲しい」と見えない何物かに祈ったことがあったのです。

無我夢中で祈ったのかもしれません。そうしたら、自分としては幻聴かもしれないと思うのですが、ものすごい早口で、「離婚が済んでからね」という言葉がはっきり聞こえたのです。

勿論、一体何のことを意味しているのかさっぱり分からなかったのですが、そのことを本人に伝えてみたところ、離婚しようと思っているということを初めて聞かされたのです。

今思うと、その言葉どおりに、友人はその後離婚したのですが、それから少しずつ病気は快復に向かっていきました。数年後に再会したときには、驚くほど病気がよくなっていました。

私の祈りは、別に何の役にも立ってはいないのですが、熱心に祈ることで私みたいな何の特別な能力も持っていないものでも、そうした情報をもらうことができるということですね。

その後、何度かは誰かのために祈ったことがあったのですが、あの早口の声が聞こえたことは一度もありませんし、自分でも分かるのですがあの時ほどの無心にはなっていなかったと思うのです。

「この人生、祈ったところでどうもならないよ」という疑念のようなものが少しでも心にやってくると、その祈りは中途半端なものになってしまうのかもしれません。

どんな疑いの心も挟むことなく、ただただ祈ることができたなら、それは真理がやってくる場所を提供したことになるのだろうと思うのです。

その時こそは、真理の特性である絶対的な善が姿を現してくれるのだろうと思うのです。みなさんは、どう思われますか?純粋な祈りとは、神のことだと思うのです。