本質の自己は何も必要としない

ヒーリング・ミュージックという音楽のジャンルがありますね。それほどは詳しくないのですが、以前自分がヒーリングをするときにクライアントさんにリラックスしていただこうとしてかけていたことがありました。

自分自身も落ち着くことができるし、何だかふわっとしたいい気持ちになれるので、とても重宝していたのを覚えています。今でもとても気に入っている曲があり、それを聞くと心の中で誰かが感動したり泣いたりしてる感じがします。

勿論、人を感動させる音楽というのは、他にもたくさんの種類があることも知っています。どんな音楽であろうと、聞く人が心でどんな反応をするかですべてが決まるのですから、これが一番という普遍的な音楽はありません。

そんな素晴らしい音楽なのですが、実は私は自分の本質に意識を向けるとき、そういったものが一切不要であることに気づいています。たとえば、瞑想するときに瞑想用の音楽はいりません。

自分に境界がなく、全体性であると気づくとき、すばらしい音楽であろうと何であろうとどんなものも必要とはしないということです。それほど、本質というのはシンプルでなおかつ自分に近いものです。

美しい音楽を必要としているのは、やっぱりこの人物としての私なのですね。美しい風景や自然も、あらゆる美しいものを欲しているのは、紛れもないこの私であって、本当の自己ではないのです。

純粋な気づきである本質の自己は、何かを欲するということも何かを意図するということも勿論ありません。だって、なにものでもないのですから。

広くて見晴しのいい部屋が欲しいな~、といっているのは間違いなく快適な暮らしを求めているこの私めです!

「平日の昼間からゴロゴロ、ゴロゴロ、あ~あ、空から宝くじの当たったやつが降ってきたりしないかなあ~。」

自分はなんなのか?に目を向ける

クライアントさんのお話しをさまざまにお聞きしていると、この方は一体どのようにして心をやりくりして生きて来られたのだろうかと、本当に大きなため息が出るほどのことがあります。

きっと自分だったら、絶望をとっくに越えてしまって、どうすることもできずに死んでしまうしかなかっただろうと思うのです。それでも、目の前にいらっしゃる方は笑みを浮かべて、ここに座っているんです。

そんな時、通常の心理療法における癒しの方法では、とてもじゃないけれど歯が立たないと感じるのです。いくら、セラピストの理屈を訴えたところで、そんなものは通用しません。

この仕事を始めた頃でしたら、それでも必至にその人の心を癒そうと正攻法でセッションを続けたのですが、それは当然それ以外に方法を知らなかったからです。

けれども、最近では別の方法を知ったので、そういうときにこそそれが生きてくるのです。それは、自分の本質を知るということです。そして、そのことはクライアントさんが絶望していればいるほど、ある意味効果があるのです。

人は、本当に困り果てたとき、自分がずっと培ってきた常識や信念、正しさなどを比較的簡単に手放して、新しい心理的なパラダイムを受け入れ易くなるのですね。

自己の本質とは、それまで当り前だと思っていた考え方や、事実だと思っていたことを一旦白紙に戻し、思考も知覚も使わなくしたところで、自然と気づくものです。

人は、ずっと身近にあった自分の本当の姿に気づくとき、びっくりすることもあるでしょうし、な~んだそれだったら以前から知っていたと感じるかもしれません。

だからといって、自分の人生がすぐに都合よく変化するということでもないのですが、ただ人生を物語のように見ることができるようになるはずです。そこでは、深刻さというものが消えてしまいます。

たとえ、深刻さや苦しみがやってきたとしても、それをいつまでも維持することができなくなるといった方が正確かもしれません。だから、自分はなんなのか?という根源的なことに目を向けて欲しいのです。

根拠のない自信

今朝早い時間に、7年後のオリンピックが東京で開催されることが決まりましたね。そのネタを使った今朝のスポーツクラブでの会話が次のようなものでした。

私:「オリンピックが東京に決まってよかったですね。ところで○○さんは、7年後のオリンピックに出場するんですよね?」

ご老齢の○○さん:「う~ん、そうだね。出ることは決まってるんだけど、まだ種目を何にしようか決めてないんだよ。まあ、生きてればの話しなんだけど…。」

勿論他愛のない毎度のジョークなのですが、もしもこれがいたって真面目に話されたら引かれしまうのは当然ですね。でも、実際に似たような経験を何度もしたことがあります。

以前の会社でセクレタリーをしていたある女性が、いたって真面目な感じで次のように話してくれたことを覚えています。

女性:「私、小説家になろうと思ってるんだあ。」

私:「へえ、そうなの?今までにどんなものを書いたことあるの?」

女性:「まだ、何も書いてないけど、なんかなるような気がするのよねえ。」

私:「…」

また、10年以上前に、ある若い男性のクライアントさんが言った言葉です。

男性:「大澤さん、来年僕 MIT に入学しようと思ってるんです。」

私:「え、MIT って、あのマサチューセッツ工科大学のこと?かなりの英語力がないと入れないって聞いてるけど大丈夫なの?」

男性:「今は定時制の高校もあまり行けてないけど、何だか合格できる気がするんですよ。」

私:「…・」

根拠のない自信というのは、実は私は大好きなのですが、それは上の事例のようなちょっと病的なケースと紙一重のようなところがあるのです。

いい意味での根拠のない自信とは、赤ちゃんのころの「万能感」から来ていると思っています。無防備で、怖いもの知らずの赤ちゃんのころの冒険心は本当に素晴らしいのです。

みなさんは、自分の心の中の「万能感」を意識したことがありますか?是非捜してみてください。リアルに見つけることができたら、誰になんと言われても我が道を貫く力が湧いてくると思います。

真理こそが、私たちの本質

スピリチュアルな教えの中で、よく聞く言葉としてあるのが、「今ここ」というものですね。「今ここ」における「今」とは時間はないということを指しています。また、「ここ」とは空間はないということです。

つまり、「今ここ」に意識を向けるということは、時空を超えた真実に意識を向けるということに他なりません。実際に、時間と空間というものは、思考が作り出したものです。

私たちはあるものの大きさというのをいつもイメージするし、それがどこにあるのかということも気にかけていますが、それが空間認識です。

けれども、空間を気にしているというのに、実は無限に広い空間を思考でとらえようとすると、それがうまくできないということに気づくことができます。

思考は、空間的な大きさや広さを捉えるときに、初めから有限であるということを前提としているのです。なぜなら、無限とは真理の一つの側面であるため、思考には届かないエリアだからです。

時間についても同じような思考のほころびを見ることができます。私たちは、時間の進行を肌で感じるくらいに身近なものとしているのに、無限に続く時間がどういうものかを把握することができないのです。

時間とは変化を意味しますが、真実とは永続性であって何一つ変化するものはありません。結局、思考では変化しないということを捉えられないために、変化を意味する時間を編み出したのです。

このように考えていくと、完全なる無である真実から流れ出てきたこの現象界を、私たちが思考によって捉えていることは、ごく自然のことだといえます。

その思考の中に、私たちは生きているのです。自分のことを一人の人間だと信じているのは、単なる思考に過ぎません。それはまったくの事実無根です。

心を静かにして、「今ここ」に委ねるとき、突然言葉では表現できない真理に引き合わせられる感覚になります。その真理こそが、私たちの本質なのですね。

心を見る立場になる

昨日のブログで、「癒しとは、自分を改善していこうとすることではなくて、心を全的に見つめてそれを否定することなく受け入れることなのです。」と書きました。

これはとても大切なことですので、もう少しこのことについて補足してみようと思います。まず初めに、私たちの心は一枚岩でできているのではなくて、たくさんの断片からできているということを認める必要があります。

聖人君子のような清く正しい部分もあれば、ぐうたらなダメダメ人間のような部分だってあるのです。怒りに満ちている部分もあれば、穏やかで静かな部分もあります。

その時々にそれらの中のどれが最も力を持って自分を乗っ取るかによって、その人はいろいろな心の状態になるわけです。だから、殺人を犯した罪人がそのすぐ後で、小さな虫を踏まないように気遣ったりもできるのです。

話しを簡単にするために、一つの心に良心と悪心があるとしてください。そして、私たちは自分をよりよくしようとして、良心を伸ばし、悪心を亡き者にしようと努めるのです。

これがエゴの特徴であり、エゴの世界に私たちを封じ込めておくための作戦でもあるのです。ばい菌を目の敵にして、何から何まで除菌しようとする気持ちに似ていますね。

こうした思いの奥にあるものは、恐れなのです。自分の身が犯されて傷つけられたくないという思いです。自分の気に入らない部分、ダメな部分、そういった否定的にしか見ることのできない部分を必至でなくそうと努力するのです。

けれども、それは人間であることを否定して、天使にでもなろうとするようなものなのです。そんなことは、今日を限りに潔く、きっぱりと忘れてしまって下さい。

その代わりに、心の中にピンからキリまで多彩な部分を取りそろえていることを楽しむことです。それが人間の多面的な魅力でもあるからです。

そして、心の中にあるどんな断片であろうとも、それを否定せずに正面から見ることです。それは、思考を使わずに心を見る立場になるということなのです。

その視点を忘れずに、どんな自分も抱きしめていることができるなら、苦しみがあなたを占領することはなくなっていくはずです。

心の成熟とは

クライアントさんが、「○○をしなければと思っているのに、どうもできない」といわれたら、セラピストの自分は、それはしたくないんだなと心の中で思いながら聞いています。

あるいは、「○○をしてはいけないと思っているのに、どうもしてしまう」と言われたら、それはしたいんだなと思うわけです。

何だか天邪鬼な意地悪爺さんのように思われてしまうかもしれませんが、それはセラピストの「さが」と言えるかもしれません。

自分を癒そうとしてもなかなか癒せないのは、心の中に癒したくないという強い気持ちがあるからに違いありません。

100%の気持ちで癒そうとしているのであれば、すぐに癒すことが可能なはずですね。つまり、心の中にはいつも自分が意識しているものと正反対の意志が隠されているのです。

相反する二つの気持ちに気づいている場合は、それを葛藤と呼びますが、一方私たちは、一般的に自分にとって都合の悪い感情や気持ちなどを見ようとせずに生きています。

そのために、なぜ自分が思うように行動することができないのか、疑問に思ってしまうのです。心の中にあるあらゆる意思、気持ち、感情から目を背けずに見てあげることができれば、なぜ?はかなり消滅するはずです。

癒しとは、自分を改善していこうとすることではなくて、心を全的に見つめてそれを否定することなく受け入れることなのです。

心の中にぎっしり詰まっている過去の気持ちをしっかり受け止めることができれば、今の自分はそれに乗っ取られることがなくなり、不自由さが小さくなっていくはずです。

そのためには、思考を脇へ置いて、ただ見ることです。それができるようになればなるほど、心が成熟していくということなのですね。

誰もがみな演技者

昔から、あこがれの芸能人のうちでも、特別な存在に感じていたのが俳優さん、あるいは女優さんの存在かもしれません。

それは、きっとすばらしい演技を見て、自分には到底素の自分以外の誰かになるなんて、とてもできないと感じていたからだと思うのです。

けれども、よくよく考えてみると、私たちは日々の生活の中で誰でもある程度の演技をしているのです。

テレビの街頭インタビューなどで、マイクを向けられた素人の人たちが、何かを答えた後笑ったりするのをみると、ああ無自覚に演技しているなと分かるのです。

「給料は上がらず、アベノミクスの効果がまったく感じられなくて、困っている」などと言った後、わざわざ笑ったりするのですから変な話しなのです。

若い頃に、自宅から徒歩で行ける会社に勤めていたことがあったのですが、新婚の自分は家を出てから歩きながら、少しずつサラリーマンの顔に変身していく自分を感じていました。

会社の近くまで来て、道で一緒になった会社の人とあって、おはようございます!と挨拶を交わした瞬間に、もう自宅でデレデレしていた自分はいなくなるのです。

会う相手や状況に応じて、それに相応しいと思われる自分を作っているのです。それも、ほぼ無自覚のうちにやってしまいます。

ある程度は仕方のないことなのですが、そうした演技、あるいは「フリ」が限度を超えてしまうと、私たちはひどく疲労するようになってしまいます。

そのことに注意をむけてみてあげてください。そして、一日のうち必ず数時間はできるだけ素に近い自分で誰かと過ごせるように心がけることです。

自分の中にある無邪気さと繋がる時間を大切にすることですね。

愛は存在です

by リチャード・ラング

他の人たちがただの他者ではなく、彼らはまた私自身でもあります。私がこの事実を真剣に受けとめれば受けとめるほど、私が「他の人たち」と関係するやり方に影響を与えます。

私はもはや、奥深いところで、自分が他の人たちと分離している、というふりをすることはできません。防衛なく、オープンで空っぽなので、私の存在はあなたを受け入れ、歓迎します。

この内なるワンネス(一つであること)、この内側での歓迎が、愛の土台です。空っぽなので、私はあなたを抱きしめます。

私の存在のまさにハートにあなたを入れるので、私の観点から見れば私はあなたになります。あなたの存在が、私の内部の創造的源泉から流れ出て、私の中に現れます。

あなたは私である存在の土台から生まれ、そこへ消えて戻ります。あなたは私の存在の中で、あなたの人生を生きています。最深のレベルで、私はあなたに責任があります。

同時に私はあなたに対して、どんな力も行使しません。なぜなら、何もないものとしての私は、あなたを決してコントロールできないからです。

あなたはたくさんのものに束縛されている、と感じるかもしれませんが、あなたが存在に束縛されることはありません。

この内なるワンネス(一つであること)、この絶対的に責任をとることと、絶対的に自由を与えること、この無条件の歓迎が愛です。愛は存在です。

それは常に存在し、安定して、信頼できます。それはそこから愛の表現と実際すべての表現が生じ、またそこへ消えて戻る土台です。

あなたが愛する人と分離しているときでも、あなたの存在でありかつ彼らの存在でもある愛は、髪の毛一本ほども、あなたから離れていません。

親しい人の死さえも、彼らの内奥の存在からあなたを分離しませんし、あなたの死さえも、彼らからあなたを分離しません。

愛は永遠にあなたの本質です。それはあなたの時間のない存在です。この愛に気づいてください。この愛に留まっていてください。

境界と無境界

by リチャード・ラング

他の人と私が一つであることは、私の存在の深みにあります。この一つであることは、表面的に起こるどんなことによっても、脅かされません。

もし誰かがあなたにひどい振る舞いをしても、私はそれでも彼らと、「顔対顔がないもの」であり、まだ彼らに対して受容能力です。

私の意識は彼らの意識でもあります。これが真実です。しかし、自意識のある大人として、私は自分の体と彼らの体の間にある境界と、自分の人生と彼らの人生の間の区別に、また気づいています。

一つであることと違うことは、共存しています。ですから、私が奥深いところで、彼らであるからといって、私が他の人たちがすることや言うことに、同意する必要はないのです。

もし必要なら、私は自分自身や自分のまわりの人たちを守るために、行動することもできます。自分とは本当に何かを見るとき、境界にも個人的アイデンティティにも無知な、自意識のない赤ん坊のように、私が退化してしまうわけではありません。

また私は、あらゆる欲望、好み、そして人生さえからも完全に離れて、喜んで他人に自分の人生を踏みつけさせるような、ある種の聖人というわけでもありません。

私は個人でもあり、自分自身を守ることもできますし、自分自身のユニークな意見も表現することができます ─ そう願っています。

それにもかかわらず、誰かが私にひどい振舞いをしていて、私が自分自身を守っているとき、それでもまだ私の存在の土台では、私はその人のための受容能力です。

この土台に注意を払い、頼りながら、その人と私が融合していることに気づき、しかも、自分自身の世話をする必要にも気づいているとき、私は何をしたらいいのでしょうか?

状況が起こるまでは、私にはわかりません。気づいていることは、より多くの行動のルールを導入するわけではありません。

気づいているおかげで、あなたが頼ることができる、あなたの内部にある賢明で愛情深い場所を意識するのです。 源泉を意識して、自分が何をしたらいいのか、発見してください。一人一人の行動は違うことでしょう。

変装している王

by リチャード・ラング

私が物事の現実に目覚めても、いきなり私は自分の外見と一体化することをやめたりしません。私は単に、自分の顔はここではなく、向こうの他人と鏡の中にあることを、意識するだけです。しかしそれでもまだ私の顔です。

私は、自分が出会うあらゆる顔の受容能力であり、あらゆる顔が自分のものであることを認めますが、私が鏡で見る顔は私には特別です。

あらゆる人が私を認識するのは、その顔によってであり、私が人としての自分自身を認識するのもその顔であり、私が世界で生きていくのに必要な顔です。

それはまるで私が、自分の王国で人知れず生きることができるように、普通の市民に変装した王のようなものです。

私は自分の本質を知っていて、自分の王族としての地位を楽しみ、あらゆるパワーをもっています─私は山を動かし、何もないところから努力なしに魔法のように物事を出現させます。

それにもかかわらず、私はこれらすべてを他の人たちから隠しています。彼らは私の神聖さではなく、私の人間性だけを見ます。

そしてそれは、私が望むことです。(万一、私が山を動かすことを彼らが見ることができるとするなら、パパラッチの注目をものすごく集めることでしょう!)

ということで、私は外側では普通の市民に見えますが、内側では一なるものです。もちろん、その意味は、私は自分のまわりのあらゆる人に対する、受容能力であるということです。

とはいえ、彼らにはそれは見えませんけど。このように私は常に自分自身を他の人の中に見ます─他の人たちもまた変装した一なるものです。

時々私は、同様に自分が変装した一なるものであることに気づいている人たちに、出会います。この秘密を分かち合うことは、なんという喜びでしょうか!