反応よりも感応すること

本当に生きている人間というのは、感応する。彼には何の答えもない。

問いが現れて来ると、彼はその問いに対して感応する。そして、答えが創造されるのだ。

実際のところ、彼自身も聞き手のあなたと同じくらいその答えに驚いている。

そんなことは夢にも知らなかったのだ!

by osho

↑こうしたことは、多少なりとも誰でも経験があるのではないでしょうか?問いがやってきて、それに反応するときには思考が働くわけです。

けれども、思考を活動させる代わりに、その状況を見つつどんな答えがやってくるのかを待っていると、感応することになるのです。

私の拙い経験では、クライアントさんとのセッションで、その状況を見ていると、ひとりでにその時に必要とされる答えのようなものが浮かんできます。

それが自然と自分の口から言葉として現れてくるのですが、それを「なるほど…」という気持ちで聞いている自分もいるのです。

本当に夢にも知らなかったことですが、クライアントさんからしたら私が自信満々にお伝えしているように感じるでしょうね。

ホームページのコラムに掲載している内容のほとんどは、そのようにしてセッション中に口をついて出てきたことを覚えておいて、それを書いただけなのです。

そういう意味では、私にとってはセッションというのは非常に多くのことに気づかせてくれる大切な時間なのです。

もしも私が自分の知識を頼りにセッションをするようなら、感応することはできなかったのだろうと思うのです。

0.4秒の時間差

こうしたすべてを自分がやっていると思うのは自由だ。が、そうしたらあなたは無知の中で生きることになる。

もし、<全体>がすべてをなしていること、自分は<全体>に支配され、それによって息を吹き込まれていること。

生全体がそこから来ることに気づいたら、そのとき、あなたは悟りの生を生きる。

by osho

↑これを読んですぐに思い当たるのが、人間には自由意志はないということです。自由意志があると思うのは自由です。

けれども、自分が自分の人生の支配者だと思うのは、無知の中で生きることだと言っているのです。

あなたが決意したと思う時、実は<全体>から脳に対して決意信号がやってくるということです。

その信号を受け取ったときに、決意したと感じるわけです。その時差が0.4秒程度だということは以前ブログに書きました。

その0.4秒は私が思うに、自我が消費している時間なのだろうと。それゆえ、自我が落ちてしまった後は、きっと言動として表現されるのが早くなるのです。

たとえば、武道の達人と呼ばれるような人は、そうでない人と戦うときに0.4秒程度早く動作できるので、負けることがないのです。

0.4秒というのは短い時間ではあるのですが、勝負事やスポーツの試合などでは決定的なものとなるのです。

人よりも0.4秒前の時間を生きたいのなら、自我を落とすしかありませんけれども、そういう欲望がある限りは自我は落ちることはないでしょうね。

自我のイメージは?

自我というのは決してあなたなんかではありません。自我は他人への反射として作られるものです。

だから自我は他人なくしては存在できません。ここをしっかり理解しておくことです。自我はあなたという存在ではなく、他人とあなたとの関係性なのです。

だから人間は、人との関係の中でしか生きることができないのです。無人島でずっと独りで生きていれば、そのうち自我は消えていくのです。

それは独りでいれば、自我の存在理由がなくなってしまうからです。ただし、一般的に自分の部屋で独り過ごしたとしても、自我はなくなりません。

自我自体が物理的に独りであったとしても、他人との関係性のことを忘れることをさせないからです。

忙しい毎日の中で、やっと独りになれたと思っても、気づいたら誰かのことを考えていたという経験は誰にでもあるはずです。

そうやって自我は生き残るべく常にやり繰りしているというわけです。さあ、自我のイメージが変わったでしょうか?

もしも自分のことを自我だと思っているなら、外側へ沢山の触手を伸ばしている中心にあなたがいるのではなく、その触手こそがあなただということ。

それを受け入れることができれば、その時に初めて自我との距離を置くことができるようになるはずですね。

意識的な赤ん坊に戻る

幾重も幾重もの層が重なる。が、内奥無比なる核心は同じままなのだ。生まれたときの赤ん坊のあなたは依然としてあなたの中にいる。

そのまわりにはたくさんの層がかぶさっている。がもしそれらの層を貫通したならば、突如としてその子供があなたの中で炸裂する。

この炸裂を私はエクスタシーと呼ぶのだ。

by osho

↑上の文章を読みながら、自分の中でそれをイメージしてみて下さい。癒しとはまさにそのことを指すのですから。

癒しというのは、生後培ってきたあらゆる知識、防衛、ルール、生き方、そうしたものすべてを外していく作業のことを言うのです。

自分という存在に何かまた新たなものを追加していくことではないということ。だからしなくてはいけないことは一つもないのです。

人間社会に参加するために必要とされたあらゆるものを、もう一度見つめ直すのです。本当に自分が満ち足りた毎日を送るために必要なものは何なのか?

実は外側に必要なものはないのです。生まれた時の赤ん坊の自分にまで戻ることができれば、そこにはすべてが揃っていると気づくことになるのです。

ただし、赤ん坊の頃の自分は無意識だったので、一度自我として生きた後に意識的に戻ることに意味があるのです。

その目覚めた意識こそが、私たちの本質だということ。

防衛は揉め事を生み出す

人類は過去何世紀ものあいだ、ふたつの時期しか生きたことがない

戦争、つまり実際の戦時と戦争のための準備期間だ

このふたつがすべてなのだから

歴史自体、まったく神経症的としか言いようがない

by osho

人類の歴史をざっくりみれば、↑この通りであることは間違いないですね。それが世界規模であろうと、国や地域の規模であろうと同じこと。

家族が仲違いするのだって、結局は同じことなのです。つまり、争いがなくならないのは、個々人のマインドの問題なのです。

マインドの問題というよりも、マインドは戦うことが必要なのです。平和を願っていると同時に、戦う必要もあるということ。

完璧に平和な世の中でも私たちは死にませんが、マインドは消えていくのです。つまり、戦いがなければマインドはもたないのです。

だから世界平和を訴えることは、本当は的を射てないということです。それはマインドのことを理解していない人がすることです。

マインドに対する深い理解ができれば、争いがなくならない本当の理由に気付くことができ、それだけで心が穏やかになれるのです。

そういう人が増えていけば、自然と争いごとも少なくなっていくはずなのです。防衛すればするほど、揉め事が増えるということを見つめることですね。

過去と未来のはざまで

あなたはどうにかこうにか戦える態勢もととのえなければならない。未来のことばかり考えているのはそのためだ。

未来が希望を与えてくれる。過去は滋養を与えてくれる。そして、そのふたつの真ん中に永遠がある。

あなたが取り逃がしているまさに生そのものが。過去と未来のはざまで、あなたは死んでいる。

by osho

↑上の表現で、過去と未来の真ん中に永遠があると書いてあるのは、いわゆる方便というやつですね。

そもそも過去から未来に向かって時間が流れていると思い込んでいるのは、単なる思考に過ぎないからです。

時間の流れの中に今があるというのは思考からくるものであり、今というのは時間とは全く関連のない永遠のことなのです。

ただドキッとさせられるのは、「過去と未来のはざまで、あなたは死んでいる」という部分。

過去から滋養をもらい、未来から希望を与えられて、なんとか生きているつもりになっているけれど、そんなのは死んでいるも同然と言っているのです。

じゃあ実際どうしたらいいのでしょうか?それは戦うのをやめるということです。戦いや防衛をやめたら、思考は止まるのです。

そうすれば、過去も未来も消えていくのです。時間という物語の中にいる限りは、戦って自分を守らざるを得ないのです。

取り逃し続けている生とは、時間の中にはないということを深く理解することが必要ですね。

社会とマインドのお話し

私たちが暮らしているこの社会というのは、人間のマインドによって作られたものです。だからマインドのことをよく表しているのです。

そしてその社会が、また新たなマインドを作るという循環が起きているのです。そうして世代を超えて、マインドと社会が維持されてきたわけです。

社会をよく見てみれば、そこで暮らしているマインドがどんな状態なのかを把握することができます。

もしもマインドの病みが深ければ、その社会の闇も深くなるのです。そしてそこで暮らしている人々は複雑で不自由な人生を生きるのです。

逆に、マインドのパワーが小さく、防衛も小さいなら、その社会はよりシンプルなものとなり、個人の自由を尊重する傾向が高くなるのです。

さてさて、今私たちが暮らしているこの国の社会はどんな状態になっているでしょうか?日本の社会の有り様を見ると、現代の日本人のマインドがどのように病んでいるのかが分かりますね。

ただし、自分の人生に不満があったとしてもそれを社会のせいにするのは得策ではありません。

なぜなら、どんな社会であれ、その社会の中にありながらも社会に染まらずに飄々と生きていくことはいつだった可能だからです。

洞察力を養う

クライアントさんとのセッションにおいて、私が心がけていることの一つに「クライアントさんの洞察力強化」というのがあります。

洞察とは、辞書によれば鋭い観察力で物事を見通すこと。あるいは、自己の行動パターンを意識化し、その原因や意味を理解すること、とあります。

つまり、クライアントさんご自身で自分自身をもっともっとしっかり見つめる習慣をつけて欲しいということ。

そうすることで自分のマインドが瞬間瞬間どのように機能しているのかを察知することができるのです。

マインドは絶えず自己防衛を続けているということに気付くことができなければ、防衛を小さくしていくことはできないのです。

防衛が小さくならなければ、それだけ自己犠牲も小さくならないため、生きづらい人生が続いてしまうということです。

癒しにとっては、深い理解が非常に重要だというのも同じことです。深い理解は、鋭い観察力からやってくるものだからです。

ただ漫然と人生を生きるのではなく、より注意深く、より意識的であるように心がけつつ、自分自身を観察するのです。

真に腑に落ちたなら、どんな執着もネガティブな自己イメージも、自然と消えていくはずなのですね。

孤独とマインドは同時に消える

探索は個的なものだ、危険に満ちている

独りで、人は進まなければならない

だが、それがその美しさなのだ

深い独りぼっちの中で、ひとつの思考すら介在しない深い独りぼっちの中でのみ

神があなたにはいり込む、深い独りぼっちの中で目が開く

あなたの実存が開く

by osho

私たちは、原理的には孤独なのです。もっと正確に表現すれば、私たちのマインドは孤独でできています。

なぜなら個人であるという認識がマインドのベースだからです。だから他の誰かと寄り添って生きなければならないのです。

マインドというのは、孤独を忘れるために他のマインドと共に生きようとする傾向を持っているということです。

そのためにパートナーが必要であり、家族が必要であり、友人が必要なのです。そうして社会の中で生きようとするわけです。

そうすることで孤独を一瞬でも紛らわそうとするのです。けれども、そのせいで自分の本質を見逃すことになるのです。

深い孤独の淵で、独り静かに内側へと向かっていくとき、その孤独の向こう側があるということに気付くことになるのです。

それは孤独だということが間違った認識だったということ。個人だという間違った思い込みからくる、避けがたい恐怖を感じていただけだったと。

そしてすべてが全体性としてただ在ることを見出したとき、孤独と共にマインドそのものも消えていくことになるのですね。

観照は難しい

観照し始めてごらん。通りを歩くとき、観照者になるのだ。身体が歩いているのを見守ってみなさい。もっとも内なる核心から、ただ見守り、観照し、観察する。突如として、あなたは自由の感覚を手にするだろう。

by osho

もうこれまでに一体どれだけ↑このことを書いてきたことか。要するに、究極的には「観照」しかないと分かっているからなんですが…。

自分が1番これが続かないのを知っているので、自分自身に言い続けているようなものなんですね。

かつて猛烈に瞑想をしていた時期があって、その頃自分がいなくなる体験をしたことで勝手に瞑想に結果を求めるようになってしまったのです。

そうなったら、目的をもって瞑想をするというまったく意味のない状態になってしまったんですね。

それが嫌で、結局その後瞑想をすることをやめてしまったのです。そして、残ったのがこの観照という方法なのです。

が、瞑想よりも続けることが難しいのです。瞑想は、さあ瞑想しようと決意して実行すればいいのですが、観照はいつでもどこでも手軽にできる反面、続かない。

どうしても続かないのです。1日のうち何度も何度も思い出しては観照に戻るのですが、またすぐに忘れてしまいます。

今年も大それたことは考えずに、自分のままに観照し続けるように心がけたいなと思っています。