「ただ在る」ことを味わってみる

次のoshoの言葉は肝に銘じておくことですね。

『自然になりなさいと言うとき、私はただこう言っている。”なる”ことを止め、”ある”ことのなかに落ち、くつろぎなさい。あなたはすでにそこにいる!』

私たち自我は、「なる」ことにしか興味を持っていないようです。幼い頃からずっと、あなたはどんな人になるの?と言われて育つのですから。

周りの親や先生などの大人たちが、こぞって子供達の未来ばかりを取り上げるのです。だから「なる」ことがとても大切なことだと思い込んでしまっても無理ないのです。

何者でもない幼い頃の自分が、「大人」になると同時に何者かへとなっていくというイメージが満載なのです。

それに比べて「ある」ことを意識に上げられる人がどれだけいるのか?笑ってしまうくらい、怪しくないですか?

私はこの仕事をするようになって初めて、「在る」ことの重要性に気づいたのです。「ある」ことは決定的です。

どんなことよりも素晴らしい。そこにはどんな修飾も必要ないし、誰と比較されるようなものでもありません。

「ただ在る」ことの中に坐って、静かにその感覚を味わい尽くすのです。それはもう立派な瞑想と言ってもいいでしょうね。

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幼い頃の無頓着さをもう一度

一昨日の日は、久しぶりに終日雨が降っていてそろそろ梅雨が足早に近づいてきているのを感じました。

その雨音を聞くともなく聞いていたら、小学生の頃にも同じ雨音をよく聞いていたなと思い出したのです。

すると、急に雨音の成分の中から嫌なものが消えていったのです。ああそうかと。子供の頃はこの雨音も嫌いじゃなかったなと。

どちらかというと、家の中で聞く雨音は好きな方だったのかもしれません。落ち着くというのか、ずっと家にいればいいじゃないと言われているような。

大人になって、雨音を聞いていると、さまざまな良からぬ連想が思い浮かんでしまうのですね。

例えば、新しい家の何らかの作業の邪魔をしていないかとか。だって、どんな作業であれ屋外の作業にとっては天気が良いに越したことはないのですから。

あるいは、クルマのウインドウをほんのちょっとでも閉め忘れていないだろうなと。この雨が車内に入ってきたらシートが可哀想とか。

それに比べて子供の頃は、雨が降ろうと雨が止もうと、ほとんど気にも止めていなかったなと。そもそも天候に興味がなかったのでしょうね。

雨の中を歩いていて、服が濡れようが靴が汚れようが、気にしていない。その無頓着さが懐かしいのです。

こうやって成長して大人になって、大切な無頓着さを失ってしまっているんだなと気付かされましたね。

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人生とは惨めさを体験するゲーム

色々な体験ができることを期待して、ワクワクしながら地球に生まれてくるのですが、その中でも決定的なのが、惨めさの体験です。

全体性の一部として存在していた元々の状態において、そもそもが分離した個別の存在というのはどうやったって理解ができないシロモノな訳です。

そこから派生してやってくる惨めさの体験というのは、きっとさらに興味深いのでしょうね。それがお目当てなのかなと。

そしてそんなことは完全に忘れてしまって、いざ生まれてしまうと実際に惨めさの真っ只中に放り出されるのです。

そうなると、今度は惨めさから逃れようとして、自分は惨めじゃないということを証明しようと躍起になるのです。

それが私たちが人生を賭けてやっていることだと思うのです。セッションをするようになってそれが明確になったのです。

それは、誰もが自分が惨めであることを易々とは認めようとしないということ。そのための奮闘努力が半端じゃない。

少し冷静になって見つめてみれば分かることですが、惨めさというのは事実ではなくて思考による思い込みに過ぎないと。

惨めさを生み出すのは、期待値と現実との比較による落差です。つまり、惨めさから逃れるためにすることは単純です。

未来に期待することと比較することをやめればいいだけなのです。けれども、そのどちらもが分離した自我の常套手段なのです。

十分に惨めさを体験するためにも、そこから一歩も逃れることなくそれをしっかり見つめることです。

もしくは、もっと単純に本来の自分という存在を思い出すことができれば、惨めさなど不可能なことになるのです。

そうして惨めだという思い込みの馬鹿馬鹿しさに気づいてしまえば、めでたく地球でのアトラクションは終了ということになりますね。

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「何もしない」をしちゃってる

私が今抱えている課題?というのか、それはどうしても無目的に瞑想をするということができないらしいのです。

もっともっと深いところへと入っていけないものだろうかとか、そんな願望を常に抱えながら瞑想をしてしまうのです。

それがバカバカしいことだと、鋭く指摘されたような気持ちにさせてくれるのが、次のoshoの言葉ですね。

『よりさらなる沈黙へと
入っていきなさい
機会があるときにはいつでも
ただ何もせず
静かに座ることだ
瞑想のためですらなく
何の理由もなく
何の目的もなく
ただ静かに座りなさい』

自我にとっては、理由もなく、目的もなく、何かを成すということがとても難しいのでしょうね。実際、瞑想というのは何かを成すわけでもなく。

だからその部分で勘違いが起きているのです。やっぱり、瞑想を「する」と思い込んでいるわけなのですね。

何もしない、ということをしようとしているのです。この罠からどうやったら抜け出すことができるのか?

今試してみてちょっと分かったのは、より深く入ろうとする試みをやめてみるといいのかもしれないなと。

そんなんだったら、やる意味ないじゃないって誰かが言っている気がします。その手には乗らないよと。今晩は、目を開けてただ静かに坐るようにしてみようかなと。

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明日があればマインドは生き延びる

すごく能力が高そうだったり、ものすごく勤勉でより高い目的のために精進している人っているし、目立ちますよね。

最近、YouTubeの動画を観ていると、そういう人が沢山顕れてきていて、本当に凄いなと思うのです。

その人たちを一切否定する気持ちはないのですが、残念ながら自分とは違うのだなと思わざるを得ないのです。

そんな時、次のoshoの言葉はとても救いになるのです。大した目標もなく、意味があるのかどうかも疑われるような自分の人生。

そうだとしても、それはマインドにとっては短所となるのかもしれないけれど、それはそれでいいのだと納得するのです。

『心に深くとどめておきなさい。目標があれば、マインドが存在する。「未来があればマインドが存在する」。明日とは、マインドのもう一つの名前だ。明日は、マインド以外のどこにも存在しない。それらは互いに依存し合っている。もしも、あなたが明日を落としたら、マインドはあっさり消えてゆく。』

明日があればマインド(自我)は生き延びていけるということです。つまり、目標があれば未来が必要となり、そこへ向かって伸びている道がマインドの糧なのです。

どうも私の人生は、osho側に設定されているようです。現在の社会のマジョリティではないのは仕方のないことですね。

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私たちの脳は高次元から情報を得ている

子供の頃、指で影絵を作って遊んだりしましたが、キツネとか鳥とか簡単なものしかできませんでした。

そんな感じで影を知らない人はいないのですが、影という存在があるかと言われたら、クエスチョン?ですよね。

実際私たちが見ているのは影そのものではなくて、影の輪郭なのです。その影が常に2次元というのは確実です。

影を3次元の物体上に見ることはあっても、影そのものは常に2次元です。だからこの3次元の世界には、2次元のものである影は存在できないのです。

その一方で、高次元のものに対してはどうかというと、やはり3次元空間では捉えることができません。

それは例えばどんなものがあるかというと、数字だとか色とか、心とか正しさとかそう言ったもの全てがそれに該当します。

あらゆる概念もそうですね。私は最近までそう言ったものは、全て私たちの脳内にのみあるものだと思っていたのですが。

けれども、だとすると全ての人が共通に持っている概念などは、どうやって共有しているのかが疑問になるのです。

結局、そうしたこの3次元世界では見ることも触れることもできないような抽象的なモノは、全て高次元にこそあるのだろうと。

そして、私たちの脳はそこから情報を獲得しているのではないかと考えられるわけです。ちょっと面白くなってきましたね。

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あなたはいずれあなたのハイアーセルフになる

osho が言っていたことですが、誰もがいずれは覚醒するのだと。それがどのくらいの未来になるのかは分かりませんが。

どれほど時間が掛かろうとも、いずれは全員が自我から抜けて本質の自分に目覚めることができるということ。

私自身もこのことはどういうわけか確信しているのですが、でもその確信を有効活用してなかったなと気づいたのです。

その一つが、ハイアーセルフのことです。ハイアーセルフとは高次元の自分という意味ですが、これって未来の自分ということもできますよね。

なぜなら全ての人がいずれは覚醒していくことになっているわけですから、そのさきのより高次元へ進んでいくことも当然できるだろうし。

その意味では、ハイアーセルフというのはいずれ到達するであろう各人の究極の姿だと言えるのです。

それなら、今の自分がどうであれ成功は保証されているわけです。それもただの成功ではないですよ。

それを確信できるなら、そのハイアーセルフの視点から今の自分を見てあげると、何とも可愛らしい感じがしてきます。

そして今の自分を構成してくれているあらゆる存在への感謝もやってくるというものです。もしかして、ハイアーセルフは感謝で溺れてるんじゃないかなと。

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循環社会を渇望しています

私は使ったことはないのですが、メルカリなどに代表されるフリマサービスが大流行りしていますね。

便利だし、売りたい人と買いたい人をマッチングさせてくれるので、理にかなっていると思います。

けれども、そこにはまだ貨幣経済が成立しています。もう少し理想に近いのは、譲りたい人と欲しい人のマッチングです。

そこにはお金が発生しません。そういうシステムもきっと色々あるのでしょうね。今までのところ、私はまだ利用したことがありません。

でももっと理想的だなと思うのは、譲りたい人と欲しい人が完全にランダムに、しかも間接的な繋がりしかない状態です。

つまり、一対一でマッチングする必要がなく、誰かのアウトプットが誰かのインプットになる、ただそれだけのシステムがいいですね。

現実に今自分にできることは、セッションを受けたい人がいるなら、私でよければセッションをさせてもらうということ。

そこにお金を介在させずに済めば、それに越したことはないですね。つまり循環社会のほんの小手調べです。

生きていくのにお金が必要であれば、それは全く異なるルートから何らかの方法でやってくるのではないかと。

自分の中にある信頼をもっと深めていくことができるなら、そんなことも実現できるのかなと思っています。割と近い未来に叶う気もするんですけどね。

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宇宙は高性能なパラパラ漫画

我々は常に生まれ変わっている、そう言われたらどうでしょうか?これは最近の量子力学から導き出されたことらしいです。

いやいや、自分は生まれた時からずっとこの自分をやってきている記憶があるし、他の誰かになった試しはないと。

誰しもそう思っているに違いないですね。けれども、宇宙は、これ以上短い時間はないというプランク時間ごとに生成消滅を繰り返しているのだとか。

昨夜寝た自分が朝起きて同じ自分であると思うのは間違いだという内容のことは、以前このブログでも書いたことがありました。

でも実際には、それどころじゃないということですね。ちなみに、プランク時間というのは10のマイナス44乗秒くらいらしいです。

気が遠くなるくらいに短い時間ですね。この宇宙は、そんな短い時間ごとに描かれたパラパラ漫画のようなものだと。

一般的な動画というのは、1秒間に30フレーム(枚)の画像によるパラパラ漫画なんですね。それでもかなりスムーズに動いているように見えるのです。

だから、1秒間に10の44乗枚の画像でできているこの宇宙は、本当に緻密にできているパラパラ漫画だということです。

だとすると、たった1秒の間に地球上の全ての人に順番になりきることもできそうです。だって、たったの80億人程度なのですから。

そう考えると、意識は一つあれば十分に足りそうです。全ての人の意識は同じものだということになりそうですね。

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「美しき緑の星」という映画

私のクライアントさんではないのですが、その方から間接的に聞いたことなのですが、「美しき緑の星」という映画があるのです。

30年近く前のフランス映画なのですが、facebookの動画で先ほど観ることができたのですが、興味深いですね。

コメディタッチの映画だったので、好みは分かれるかもしれませんが、痛烈な現代文明への批判であることには変わりません。

貨幣社会を卒業したどこかの惑星の人々の話なのですが、野蛮な人類のことを心配して彼らの一人が地球にやってくるのです。

他の惑星は志願者が殺到するのですが、地球に行きたい人は誰一人いないという残念な話から始まるのです。この辺は面白いですね。

実際に地球にやってきた主人公の女性は、大気汚染でひどく咳き込んでしまったり、水も食物も吐き出してしまうくらい身体に悪いのだと。

ちなみに、イエス・キリストとバッハは、同じ惑星からやってきた人だということでしたね。ただ、彼らの文明では音楽は聞かなくなっていたようで、静寂が大事なんだとか。

その惑星の人々の生活が、ほとんど原始人のような感じに見えたのは、私が想定していた内容とはかなり食い違っていましたね。

けれども、1時間半くらいの比較的短い映画なので、時間がある時にでもチラッと観てみるのもいいかなと思います。

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