新しい取り組みを始めます!

私たちは長い間、貨幣経済を土台とした文明の中で生きてきました。その根っこにあるのが、互いに対価を要求し合う自我のマインドなのです。

マインドは常に、取り引き、交換、所有という世界を必要としているのですが、そのために我々はお金がなくては生きていけない社会の中へ投げ込まれてしまったのです。

貨幣経済からお金がいらない世界、つまりギフトで循環する世界へと改革されることを目指して、新しい取り組みを始めることにしました。

当オフィスでは、セッションの対価をいただく代わりに、カンパ(ギフト)という形で支援していただくことにしました。

支援の額は完全に自由なのですが、経験上クライアントさんが困らないように、一応3,000円を目安とさせていただきます。

3,000円を超えて支援していただいた場合、3,000円がセラピストにギフトされ、残りは余剰金としてプールされることになります。

また、支援額が3,000円に満たない場合、プール金の中から不足分が補填され、同様にしてセラピストに3,000円がギフトされることになります。

皆さんからのカンパは、「セッションを続けてね!」という意思表示、支援、応援だと思ってありがたく受け取らせていただきます。

また、3,000円を超えて支援していただいたクライアントさんは、自動的に見ず知らずのクライアントさんにもギフトを送ることになります。

結果として、経済的にピンチのクライアントさんは、無償でもセッションを受けていただけることが可能となります。

誰も損をしない、全ての人に優しい仕組みになればいいなと思っていますので、どうかご協力のほどよろしくお願いします。

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分離感が産んだもの

この自分はこの世界や宇宙とは完全に分離した存在なんだという感覚、これを分離感と呼ぶことにしています。

この分離感は自我の根っこにあるものですが、分離を疑う人はほとんどいないのです。それが当たり前で、それしか知らないからです。

その分離感からやってくるものって何だと思いますか?それはいつもこのブログでお伝えしている通り、不安感と孤独感です。

その説明も繰り返しさせていただいてきました。今日はその先のことを書こうかなと。つまり、不安感や孤独感を何とかするために自我が思いつくこと。

その筆頭が、足りないものを外側の世界から手に入れるという考えです。自我は足りないものだらけなので、手に入れることに必死になるわけです。

そこでもう一つ発生させていることがあるのです。それは、一度手に入れたものを奪われたくないです。

そのためには、戦って奪われないようにするか、あるいはもう少しスマートな考えとして所有という概念を思いついたのです。

自分が所有することで、武力以外ではおいそれと奪われないで済むからです。もちろん所有というシステムが働くためには、互いの同意が必須です。

私たちの文明では、戦争以外の場所ではこの所有が非常にうまく機能するようになったのですが、これがまた別のシステムを産んだのです。

それが交換です。互いに所有しているものを交換する(物々交換)ことで、便利な世の中へと変わって行ったわけですね。

そしてさらにそれが進歩した先にあるのが、ご存知貨幣経済です。その結果、私たちはお金に苦労する、お金に翻弄させられる毎日を生きる羽目になったのです。

物々交換から貨幣経済に形は変わりましたが、その元になる概念は対価を払うということです。

ここまで非常に大雑把に貨幣経済というお金の奴隷になる人生に至る流れを見てきましたが、やはり大元は自我の分離感だったわけですね。

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興味を持てたことに感謝する

自分がこれまで生きてきた世界の常識、あるいは正しさ、まともな考えと思っている事柄などがあると思います。

そういうものに囲まれていれば、私たちはとりあえず安全だし変なことになるのを防ぐことができると感じるのです。

けれども、その一方でどんな先入観も持たずに、ただ目の前にやってきたものをそのままに見て、「へえ」と言えるのは素敵なことですね。

鵜呑みにして信じてしまうのでもなく、さりとてそんな訳はないと言って一笑に付すのでもなく。

そのことに興味があるかないかだけを判断するでいいと思うのです。興味があってもなくても、いずれにして否定も肯定もしない。

もしも興味がなければ、それはそれで終わるし、興味があれば自分自身で検証するように努力するということになるのかなと。

自分が興味があっても、他人に賛同してもらえないとちょっと悲しいという自我の反応もやってきたりはするかもしれません。

ただそんなことにも頓着することなく、興味を持てないよりも興味を持てたことに感謝して、それを楽しめばいいのでしょうね。

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貨幣経済からギフト経済へ

もうずいぶん昔のことなので、はっきりしたことは覚えていないのですが、多分どこかのセミナーに参加した時のこと。

チャネラーである女性が、どこかの宇宙人の人格をチャネリングして、その存在とコミュニケーションを取るのです。

その時に聞いた話しなのですが、その宇宙人の星では貨幣というものがなくて、誰もが自分の好きなことをやってお互いの循環の中で生きているのだと。

その内容がとても印象深かかったので、いまだに自分の中で残っていたのですが、つい先日それと全く同じ内容のことをある動画で聞いたのです。

それで、言っていることがすぐに理解できたのです。彼らは、とある惑星で貨幣経済が終わった後の文明で生きてたことの記憶が鮮明にあるのだとか。

その惑星でもやはり誰もがみなそれぞれに好きなことをやって、それが必ず誰かの役に立つのだというのです。

そして自分が必要とすることも他の誰かによって提供してもらえるのだと。その循環経済が完璧に機能しているのだと。

ことの真偽は別として、これってイメージしただけで理想的な世界だなと思うのです。私たちは生まれた時からずっと、互いに対価を求め合う生き方をしてきているのです。

だからそれ以外の生き方を知らないのです。そこに貨幣が加わって、対価をベースとした経済が定着してしまったわけです。

これから近い将来、地球の波動上昇とともに私たちの生き方も対価を必要としない、ギフト循環の世界へと変化していくのかなと。

それでふとイメージがやってきたのですが、私がセッションをしてその対価としてセッション費用をいただいていることに対して、違和感がやってきているのです。

とは言っても、いきなり全てを無償にすることは無謀過ぎる感じなので、折衷案的なものを考えています。

内容がまとまったら、ブログでも動画でも内容を公表するつもりです。かなりドラスティックな変革になるかなと。乞うご期待です。 

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身体は少しも悪くない

人生って罰ゲームみたいなものかもなと思っている人いませんか?私は、体調不良の時にはそれに似た気持ちになることもあります。

またこんな具合の悪い状態になってしまった。自分は特別何も悪いこともしていないというのに、まったくもう…。

けれども、深く考えなくても分かることですが身体は全く悪くないのですね。不調を起こす原因はマインドの方にあるのです。

それなのに、マインドは嫌な思いをさせられている被害者だと勘違いをしているのです。身体こそが被害者なのだと気づく必要があるのです。

マインドが自分らしくいられないために、過度のストレスなどがかかって、それが原因となってネガティブなエネルギーが身体へと向けられてしまうのです。

身体が悲鳴をあげて助けを求めているのが、具合の悪い状態だとも言えるのです。身体は自分勝手な要求などしてきません。

身体が唯一求めてくるのは、身体が健康へと回復するための食事だとか、運動だとかその他もろもろです。

その願いを十分に聞いてあげて、その上でもちろん謝罪と感謝を忘れないことです。自分の身体を悪者にすることほど、馬鹿げたことはありませんね。

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独りぼっちからただ在ることに

皆さんには、耳にタコができたかもしれませんが、何度でも言います。不安と孤独は自我にはつきものだということ。

正確に言えば、不安感と孤独感ということになります。「感」の字を入れないと、本当は別の意味になってしまうので。

今回、特に言いたいのは孤独感の方です。孤独感は当然人間が感じる「苦しみ」の一つなので、歓迎されないわけです。

そのため、孤独感から遠ざかろうとして、それをできる限り感じないようにしようとして、日々努力している人がたくさんいるのです。

例えば、絶えず忙しくしているとか、いつも誰かと一緒にいるようにするなどすれば、確かに表面的には孤独をあまり感じずに済むのです。

けれども、もしもそうした生活を延々続けてしまったとしたら、いずれ年老いて行った時にそうしたごまかしができなくなる時が来るのです。

その時にそれこそ地獄を見ることになるでしょうね。そうならないためにも、可能であれば孤独でいることをお勧めします。

なぜなら、人間は独りぼっちでいる時にこそ、自分の内側へと入っていくことができるからです。

独りぼっちを否定的に捉えないことです。それ無くして、どんな成長もないというくらいの理解が必要なのです。

自我が付いていけないくらいに内面深く入っていくことができた時、独りぼっちからただ在ることに変わっていくのだと思いますね。

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自我の癒しと自我からの解放

私の中には、自我を癒していくということと自我から解放されていくという、二つの目的があるのです。

この二つのうちの最初の一つをするのがセラピストの仕事ですね。だから、基本的にはセッションで目指すのはそちらのみです。

けれども、私の視野にはいつも両方があるので、自我の癒しだけを目的とするセラピストとは少し、違いがあるかもしれません。

そしてその方がいいと思っています。というのも、自我を癒すということだけに意識を向けてしまうと、場合によっては視野の狭さがやってくるのです。

例えば、小学生に算数を教える場合に、中学生で習う数学を知らないよりも知っていた方がいいというのと似ています。

簡単に表現すれば、その先を見据えて事に当たることができるということです。そして人生において、単に自我を癒すだけでは足りません。

敢えて言えば、その先に待っていることの方がより重要なのです。ただし、だからといってショートカットは多くの場合うまくいかないのです。

だから、まずは癒しをしっかり進めて、その後に自我からの解放へと舵を切るのが一番賢いやり方なのではないかと。

いやいや自分はいきなりショートカットで効率よくやっていきたいと思っている人の場合は、勿論それはそれでいいと思いますね。

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「今ここ」と無常の対比

今ここというのがなくなることはありませんね。今とは、時間のことではないですし、ここというのも場所のことではないのです。

時空という広がりからは完全に別次元のもの、それが「今とここ」なのです。これは永久不滅です。これが変化することはない。

ところが、その反対に今ここで起こるあらゆる出来事は、常に変化し続けているという不思議な現象が起きています。

それが諸行無常というわけです。この世は、あらゆるものが流転して何一つ変わらぬものはないのですが、その舞台となる今ここは常にあり続ける皮肉。

この対比はとても面白いですね。私たちは本能的には自分たちの本質に気づいているので、永遠に憧れているのです。

そのために、この世界の全てが無常であることに戸惑いを覚えてしまっても不思議なことではありません。

このことにしっかり気づいて、無常を大いに楽しむことができればいいのかなと。それがこの世界に順応することではないかと。

常にあり続ける今ここにしっかり根付いておいて、その上で繰り広げられる無常性を満喫することが生きる極意なのかもしれませんね。

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私のモットーを妨害する自我

日頃から自分のモットーは、より自然に、より自由に、そしてより意識的に生きることだと言っています。

上記の三つのうちの最初の二つは、どう考えても右脳優位になりさえすれば実現してしまうだろうなと分かります。

なぜなら、右脳は社会の中で生きるようにはできていないので、社会の掟やルールなどに惑わされないでいられるからです。

要するに、より自然であることやより自由であるとは、動物のようなものだと思えばいいわけですから。

動物の世界にも、それなりの社会やそのルールがないわけではないですが、それにしても人間社会よりはマシですから。

それでは、三つ目のより意識的に生きるというのはどうかといえば、こればかりは右脳にはできないことです。

なぜなら、右脳はたぶん無意識状態だと思われるからです。ということは、左脳さんの出番ということになるのでしょうか?

それがそうでもないのです。実は、意識的であることを妨害するのが左脳による思考なのです。

結局、より自然により自由に生きるためには右脳の生き方を利用して、より意識的であるためには左脳側を非活性化させること。

その逆も言えるようで、意識的である時には自動的に左脳は非活性化されるようですね。今回も左脳さんの立場が危うい感じですね。

正確に言えば、左脳というよりも自我なのです。私のモットーを激しく妨害するのは、自我だとはっきり言いましょう!

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妙な体験をしました

一週間くらい前からお腹を壊していて、どうも調子が悪くていつも以上に生きる意欲が無くなっている感じなのです。

セッション中はそういうことは全て忘れていられるので、それが何よりの救いなのですが、それ以外の例えば筋トレなどにも力が入らないのです。

子供の塾か何かのコマーシャルで「やる気スイッチ」を入れる云々の言葉を聞いたことがあるのですが、そんなスイッチなど微塵もない。

そうしたヤル気が、最初からないものだから、そんな自分に一番向いてるのが何もしないという瞑想だったのかもなと。

お腹の具合が悪くても、苦しくて仕方ないようなものでない限りは瞑想はできるのです。なぜなら、何もしないでいいので。

そんな感じで、今週はずっと具合が悪かったのですが、瞑想だけはできていたのです。それで昨夜不思議なことが起きました。

以前にも似たようなことがあったのですが、瞑想を終えてベッドに横になった時に、瞑想の余韻がやってきたのです。

ああ、これ寝る時もやってきてくれるんだなと思って喜んでいたら、何とも言えないお腹の具合の悪さが負けじとやってきたのです。

気持ちよさと気持ち悪さの両極が同時にやってくるという、非常に不思議で表現できない感覚になったのです。

それをあるがままに体験したのですが、やっぱり気持ちの悪さの方が強いということが分かりましたね。

快感よりも不快感の方を脳が先に対処しようとするからなのかは分からないですが、何とも妙な経験をしました。

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