子供は大人の目を盗んで悪さをするもの

小学生の頃というのは、あまり罪悪感とかは感じずに色々やらかしていましたね。そのうちのいくつかを思い出したので書いてみます。

近所でいつも一緒に遊ぶ友達のお兄さんと、その家の床下に潜り込んで遊ぶということをやっていました。

家の裏側に、鉄の板のようなもので塞がれている場所があって、それをどかしてみたところ家の下側の空間に潜り込むことができたのです。

そこに色々な自分たちだけの物を持ち込んで、過ごしていたと思います。この遊びは、不思議なことに友人のお兄さんとだけの楽しみでしたね。

また、信じがたいことに小学校低学年のくせに、タバコを吸っているやつがいたのですが、この話はもう時代を感じさせるモノですね。

近所の少し大きめのドブが塞がれてトンネルのようになっているところに入っていくと、そいつがタバコを吸っていたのです。

こいつ、子供のくせにタバコなんて吸ってと思ったのですが、お前も吸うか?と聞かれて流石に断った記憶があります。

あるいは、これは高学年の頃だったと思うのですが、少し年上の人と一緒に学校の体育館に忍び込んで遊んでいました。

その頃、いわゆるマット運動とかの体操が大好きで、先輩と友人と3人で広い体育館を自由に使いまくるのですから、ウハウハ状態です。

マットなどの道具も使いたい放題で、随分と熱心に練習をしてたと思います。あれで、怪我でもしてバレたら、相当な問題になっていたでしょうね。

実際に学校で、体育館に忍び込んで遊んでいる人がいると噂になったので、速攻でやめました。いたって気は小さい方でしたから。

子供の時というのは、親や大人たちの目を盗んでいろいろな悪さをするものです。自分がやってきたことなので、自分の子供がやっても怒ったことはありませんね。

対価という発想に、愛が入り込む余地はない

私たちが暮らしているこの貨幣経済の根っこにあるものとは、対価を要求するという考え方です。つまりは、取引という発想が原点なわけです。

これだけのことをやったのだから、それに見合ったものを求めるのが妥当であるという考え方ですね。

こうした対価を必要とする考えというのは、やりたくてたまらないことをやった場合には発生しないものです。

なぜなら、やりたいことをやれたことで満足しているからです。そこで完結してしまっているからですね。

逆に言えば、対価を要求しなければならない場合というのは、基本的にはそれほどやりたいことではないことをやった場合ということになります。

お婆ちゃんの肩を叩いて、お小遣いをもらうという時、肩を叩いてあげたい気持ちが止まらずに叩くのではないですね。

一種の労働の対価としてお金をもらうという発想です。会社で働いて、その対価として給料をもらうのと同じことです。

少し病んだお父さんになると、働いた対価として家族からありがとうと言って欲しいと思ってしまうこともあるかも。

もっとひどくなると、子供達に向かって誰のおかげでご飯が食べられると思ってるんだ?などの暴言を吐いてしまうことも。

家族に食事を作っている奥さんやお母さんが、ご主人や子供達から「ご馳走様」と言われないと満足しないというのも同じこと。

こうした発想は全てそこに愛の要素が欠落してしまっているのです。だから感謝してもらわねば気が済まないとなるのです。

対価という考え方自体、それは取引な訳で、そこには愛が入り込む余地はあまりないような気がして残念です。

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瞑想ができる幸運が続いている

聞いた話しではあるのですが、ブッダが生きていた頃に、「自分の内側を深く見つめてみれば、そこには個人というものの片鱗もないと分かって楽になるよ」と言ったとか。

それは良い事を聞いたとばかりに、きっと多くの人が内側へ内側へと入って行ったはず。でもなかなか自分がいないと見抜くことはできなかったのでしょうね。

それについては、現代でも同じことが言えると思います。左脳偏重の社会になって、益々意識的であることが難しくなってしまったかなと。

そしてようやくその反発として、瞑想の効果がまた広く認められるようになってきたりして、多くの人々の意識革命が起きつつあるように感じます。

一年位前から幸運にも瞑想をする人生がやってきていて、それがまだ継続しているのですが、ただ瞑想を妨害する事象も起きてきています。

身体の具合が悪くなってみたり、つい翻弄させられてしまうような事象が周りで数珠繋ぎのように起きてきたりしています。

あれ、自分てこれほど外界の出来事に右往左往させられてしまうんだっけと。その辺を甘く見ていた感じがしています。

ただし、「これもまた過ぎ去る」という魔法の言葉があるので、ドツボにハマるようなことはないので助かっています。

今年の秋辺りになったら、瞑想会でも開いてみんなで一緒に気持ちいい体験を共有できたらいいななんて、ぼんやり考えています。

その時には、ぜひご参加くださいね。

意識的であることが如何に大切か

やっぱり大事なことは、どれほど意識的でいられるかということですね。最も大切なことと言ってもいいかもしれません。

クライアントさんとお話しをしていて、痛感するのはご自身のことについて本当によく分かっていないということです。

外界で起きることばかりに注意が向いていると、どうしたって無意識的な生き方になってしまうということです。

そういう生活が続いてしまうと、自分自身を見つめてみるということをしないままに人生が推移していってしまうのです。

簡単に言えば、自分のことを本当に理解できていないという状態。何も分からないと言った方がいいかもしれません。

よくそんな状態のまま生きてこれたなと思うばかりです。その原因はたった一つであって、明らかに無意識的に生きてきたせいだろうと。

自分の周囲に起きて来る事象に対して、ただ反応するだけの生活を続けてしまえば、それはもうある意味動物と同じなのです。

それはオーバーに表現すれば、まるで夢遊病のようにさえも思えてきます。そこから脱却して、自分は意識的な存在だということを忘れないこと。

とにかく周囲に流されずにそれを見ていればいいのです。見ることに専念することができれば、あなたの意識はちゃんと使われるのですから。

兎にも角にも意識的でいられるように練習しましょう。これができなければ、人生は本当には変化することはないと思ってくださいね。

そのくらい大事なことだということです!

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貧乏暇なし状態

誰もが経験したことがあると思うのですが、何か今日は色々とやることが珍しくあるなと思っていると、そこに追い討ちをかけられるのです。

いつもは、至って暇でこんなにやることがなくていいのかなと思ったりしているのですが、それが急に変化するのです。

今日はそんな日でした。最近動画を撮る時間がなくて、もうあまりストックがなくなってきたところなので、ここらで撮影をしようかなと思っていたのです。

ところが、当日予約が立て続けに二件入ったのです。とそこまではまだ良かったのですが、住まいのネット環境の契約が二つ。

それも解約が一件と新たに契約をする必要もあって、なかなか日程などの調整だとか、意味不明な問題などを解決しなければならなくて、ちょっと難航気味だったのです。

それが今日電話で相手をしてくれた人が非常に優れた人で、あっという間に理解が進んだのと、テキパキとスケジュールを組んでくれたので、ものの1時間くらいの間に全て解決してしまったのは嬉しかった。

それ以外にも頼んでおいたものが入荷したので、それを買いに行ったりして、その合間を使って動画を5本撮りました。

一度に5本撮ったのは二度目ですね。こんな日もあるのですね。貧乏暇なしという表現が非常にマッチしていて、我ながら笑うしかありません。

都合の悪いことを言われると貝のように口を閉ざす人

人間同士の円滑なコミュニケーションというのは、私たち人間がごく普通の生活を営む上では欠くことのできないものですね。

ところが実は、全く目立たないところでコミュニケーションに問題を抱えている人が意外にもかなりいるのです。

例えば、普段はごく普通の会話ができるのに、自分に都合の悪い内容を話されてしまうと、突然応答をしなくなる人がいます。

重症の場合には、本人は自分がそうなってしまっていることに気づいていないので、さらに問題は大きくなってしまうのです。

人前で話をするときに、緊張してしまって頭の中が真っ白になって、何を話していいか分からなくなってなってしまうということってありますよね。

その場合には、自分で頭の中が真っ白になってしまったという自覚がはっきりとあるので、困るのは本人だけなのです。

けれども、先ほどの例で言うと、突然自分がダンマリを決めてしまうという自覚が全くなかったりするわけです。

だから、被害に遭うのは本人よりも周りにいる人たちなのです。そうしたことが親子の間で起きたら、どうでしょう?

子供が親に何か大切な主張をした時に、親がいきなり黙って貝のように口を閉ざしてしまうなら、その子は大きく傷つくことになるのです。

この場合、親のマインドではあからさまな防衛が起きているのです。高機能自閉症と言ってもいいかもしれません。

こういった症状をもった親に育てられたという自覚があるなら、その影響は絶大なので、しっかりと癒しを進めていく必要があると思いますね。

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人はそのままでいいんです

憚ることなく表現すると、私がこれまでセッションを通して出会った人々の中で、人生を台無しにしてしまったなと感じるのは、どんな場合だと思いますか?

それはもう間違いなく、幼い頃から自分じゃない誰かになろうと頑張ってきた人の場合なのですね。これはもう大変です。

AがBになろうとして頑張るわけですから、もうひっちゃかめっちゃかになるのは想像に難くありません。

Aはどこまで行ったってAなのですから。これこそが不可能に挑戦してしまった人生ということになるのです。

これほど馬鹿げたこともありません。だからoshoは言うのです。「あなた自身でありなさい。」と。

これも繰り返しになりますが、私たちにたった一つだけ義務・責任があるとするなら、それは自分自身であるということ。

このたった一つの責任を果たさずに、誰かになろうとするから、人生は必然的に地獄の様相を呈することになるのです。

幼い頃に、こうしたことを日常的に身近で教えてくれる誰かがいたなら、そう間違った生き方をするようにはならないはずです。

人はそのままでいいんです。外側を見れば、誰かと比較したくなって、必ずや自分を卑下したり惨めになったりします。

だから内側に意識を向けて置けばいいんです。できるだけ自分のままで生きることができたら、どんな自分であれ不満は小さくなってしまうはずですね。

私たちの本性自体が至福そのもの

次のoshoの言葉ですが、これを信じてしまうなら取り逃すことになります。これはどうしても自分自身で検証する以外ないのですね。

『至福は人間に内在している本性だ。それを獲得する必要はない。それは再発見すればいいだけだ。私たちはすでにそれをもっている。私たちはそれだ。それをどこか他の場所に探し求めたら、確実に取り逃がすことになる。探すのをやめ、内側を見るがいい。そこではあなたの人生で最大の驚きが待ち受けている。』

私たちは概念として、至福というものがいわゆる幸福感のようなものとは異なるということを知っています。

言葉で説明するなら、幸福感はなんらかの理由があってやってくるものですが、至福感はどんな理由もなくやってきます。

理由があるものは、一過性であってそれはいずれは過ぎ去っていく運命にあるのですが、理由のないものは永続します。

理由なくやってくるということは、正確に表現すればそれはどこかからやってくるというよりも、我々自体に由来するものだろうと。

上のoshoの言葉にもそうあります。「私たちはそれだ。」と言っているのですから。私たち自身が至福だということ。

それなら普段それに気づかないで生活しているのには、理由があるはずですね。その理由とは、自分の本性を忘れてしまっているということ。

思考優位となって、自我として生きている以上は、幸福を外側に探し求めることをやめられないのです。

一方で、独り静かにしているだけで、そこはかとない「大丈夫感」のようなものを感じますが、それも至福感の一面なのかも知れませんね。

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珍しい体験二つ

新居の2階に設置するテーブルとソファが配送される日だったのですが、階段上がってすぐに直角に曲がる通路なので、狭くて荷物が通るかなと心配になったのです。

それで少なくとも、階段の手すりくらいは事前に外しておくことにしたのです。外したのはいいものの、どこにも置いておく場所がない。

というのも、長〜い一本の木製のポールで出来ているので、家の中のどこへも持っていきようがないと分かったのです。

こんな長い棒を一体どこから入れたのか?いろいろ試して分かったのですが、脱衣所に半分入れたりして、本当にギリで玄関から外へ出せることに気づいたのです。

ということは、これを発注した人はこの家の設計図から、ギリギリこの手すりの棒を家の中へ入れることができると知っていたのですね。

私としては、奇跡としか言いようがありません。そして不思議体験がもう一つ。配送のトラックが到着したので、外へ出て行ったのです。

そうしたら、トラックから出てきたお子さんが挨拶してくれたのですが、え?子連れで仕事をしてるんですかと。

彼は、まだ声変わりをしていないので、小学生高学年からよくて中1〜中2が限度。ところが、どう待っても、おじさんとその子供の二人なのです。

結局ごく普通の配送業者のおじさんとその子供の二人で、荷物を運ぶわけです。おじさんは、ひたすらその子供を叱るのです。

その手の持ち方では力が入らないだろうとか、全てが命令口調だし、あれ、家の中でパワハラを見させられてる?

彼らの仕事ぶりを見ないようにして、時が経つのを待ったのですが、最後は何事もなかったかのように彼らは所定の仕事を終えて、戻って行ったのです。

今日1日で立て続けに珍しい体験をさせてもらったなと。それにしても、あのお子さんが今日のあんなことで働くことに拒絶感を持たなければいいなと思うのですね。

二種類の自己イメージ

この仕事を始めた頃のことなので、もうかれこれ20数年も昔のことですが、隠された自己イメージはないだろうかと思って、それを見に行こうとしたのです。

やり方はいたって簡単なのですが、貧相なイメージ力を駆使して自分のマインドを戸建ての家のように見立てるのです。

そして、地下室へと降りて行った先にある、ちょっとした開かずの扉のようなものを開けて、中へと入って行ったのです。

するとそこは、ゴミの山のような空間だったのです。それで、ああ自分はこんなに見たくないものを全部ここに放り込んで生きてきたのだなと。

自己イメージそのものというよりは、これまでの生き方がバレた感じがしたのです。心の深いところにはゴミが溜まっていると。

そんなことを思い出して、今もちょっと似たようなことをやってみたのですが、ゴミが綺麗になくなっているというのではないのですが、少なくはなったかなと。

そして地下から戻って一階と二階に行ってみると、まあまあそれなりの家が出来ている感じがしました。

見栄えはいいのですが、それほど完全に気に入っている家になっているかというと、そうでもないのですね。

この自己イメージとは全く異なるもう一つの自己イメージもあるのですが、それは自分は空間だという感覚です。

自己イメージが空間のようだというのは、これまで一度も言ったことはないかもしれませんが、実はそうなのです。

全く異なる二つの自己イメージがあるのも、面白いものですね。

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