改めて「色即是空」を見直す

般若心経というお経の中に、誰でも聞いたことがある超有名な言葉がありますが、それが「色即是空 空即是色」ですね。

悟りの境地に達したような人が書いたお経なので、私のような素人にはどの程度理解できるのかは分かりません。

ただ何となく、この世界、この宇宙にあるものは全てが空だ、と言っているのだろうなという予想はつきます。

自分が生きているこの世界を見渡してみて、あまりにもリアルなものですから、それらが全て空だと言われてもね。

という正直な自分もいますが、もう一方ではそれはその通りだと勝手に理解できている奴もいるような気がします。

リアルの反対はフィクションということになるのですが、どうしたら全てがフィクションであることを見抜けるのか?

それには、絶えず働き続けている思考(言葉)によって、フィクションを見せつけられていることに気づかねばなりません。

例えば、目の前にテーブルと椅子があるとして、そもそもテーブルとか椅子というのは概念でありフィクションです。

その概念という色眼鏡をかけて、目の前にある物体を見ているのでそれがテーブルや椅子だと判断しているということです。

これと同じことがあらゆることに言えるわけです。自分自身を見る時にも同じことが言えて、何者でもなさに気づけば、自分はフィクションつまり空であると分かるのですね。

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理想の人生って?

先ほど、とある本を読み始めたのですが、その冒頭で次のような質問がありました。「あなたの理想の人生というのは、どのようなものですか?」

読み進めようと思う前に、ここで立ち止まって考えてしまいました。はて、自分が思う理想の人生ってどんなものかなあと。

そんなふうに単刀直入に聞かれたことがかつてあったかなと。とにかく、答えを出さなければと思うのですが、すぐには浮かんでこない。

例えば、辛そうな人を見たくないので、誰もが楽しそうに明るく笑って過ごしているような世界に生きること。

あるいは、人生が夢であることを見抜いて、自分の本質にはっきりと目覚めること。心身ともに健康で清々しく生きること。

自分で書いていて思うのは、なんとも漠然としていて具体性が何もないのですから、引き寄せるのも難しい感じがします。

一つはっきり分かっているのは、欲望が叶ったところで満ち足りることはないということです。

だから結局は、その欲望の元となる自我から解放されるしかないといったようなことになってしまうわけです。

面倒臭い自我だなあとつくづく気付いた次第です。

人間のDNAが素粒子に影響を与える!?

「この現実を起こしているのは自分だ」というような話しは言葉を変えてあちこちで聞いたことがあると思います。

「人生は自作自演」は、私の創作だし、「思考が現実を作る」というのもあるし、あなたがあなたの世界を作っている等々。

こうした内容の話しはいくらでもあるのです。あるいは、引き寄せの法則だとか、「エネルギーは友を呼ぶ」これは私が作った言葉ですが。

なんとなく胡散くらい感じがする一方で、そういう感覚があるのもウソじゃないし、きっと何かがあるのだろうなと。

こういうことは決して科学では証明されないのだろうと思っていたのですが、それがそうでもないかもしれません。

ある動画で知ったのですが、非常に特殊な実験をした人がいて、かなり信憑性の高いデータが取れたらしいのです。

それは、真空のガラスの容器の中に光子(フォトン)を入れて、その状態を見るのですが、当然各光子はランダムに存在しているのです。

ところが、そこに人間のDNAを入れてみると、何と光子が波のような動きをするようになるのだとか。

そして一旦そうなってから、そのDNAを抜き取っても光子の動きは変わらないのだそうです。これが何を意味するのか?

つまり、人間のDNAが素粒子の動きに影響を及ぼすことができるということ。それもそのDNAの波動に見合った波として光子が動くということ。

これって、私たちの波動が外界に直接的に影響を与えることができるということを物語っているわけです。科学もすごいところに迫ってきたのですね。

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自己イメージがあなたを決定する

私たちは、普段自分自身に対してどのようなイメージを持っているかと言うことについて、あまり頓着することがありません。

つまり、自己イメージが一体どれほど大切なものかと言うことに気づかずに生きているとも言えるわけです。

ところが、実際にはこの自己イメージこそがあなたの人生を決定づけていると言っても過言ではないのです。

そんな大切な自己イメージですが、どのように作られていくかというと、乳幼児の頃から親などの身近にいる人の反射として知らず知らずのうちにできてきてしまうのです。

だから本人が気がついた時には、もうすでに何らかの自己イメージが形成されてしまっているわけです。

そこからが本格的な人生がスターするとしたら、随分と理不尽な感じがしますね。でもそれが現実なのです。

たまたま、あなたが自分は出来がいいなと言う自己イメージを持っているなら、周囲からもそうした扱いを受けるようになります。

あるいは、自分はダメダメだなという自己イメージを持ってしまったなら、やはりそうした判断を下されるのです。

それはあなた自身があなたに下した判断なので、周囲の人々もそれを感じるのでそのような目で見ることになるのです。

こんな理不尽なことはありません。なぜなら、あなたの自己イメージがどれほど否定的なものであろうと、それは本当のあなたという存在とは無縁のものだから。

この理解が本当に降りてくるなら、自己イメージを変えていくことは可能です。そしてそれ無くして、満足のいく人生を得ることはできないでしょうね。

偽物の「自己肯定感」を見抜く

「自己肯定感」という言葉がありますが、文字通り自分自身のことをどのくらい肯定的に捉えることができるかということです。

自己肯定感が100点満点だとするなら、自分は80点くらいとか、自分は60点くらいかななどのように、人によって違うわけですね。

あるいは、一人の人の自己肯定感が低くなったり高くなったりするということもあるのかもしれません。

人生がすごく順調で、前向きな気持ちで生きている時には自己肯定感が高くなり、反対に病気をしたり、何かの失敗などをしてそれが下がってしまうということがあるのだと。

そしてできる限りは自己肯定感を高い状態で保ちたいのだろうなと。けれども、私の感覚では本物の自己肯定感は揺るがないのではないかなと。

ちょっとした嬉しいことや悲しいことなどに連動して、自己肯定感が上下するようであれば、その自己肯定感は偽物だということです。

それは勝手に本人が作り上げているまがいものの自己肯定感なのです。そして、そのような自己肯定感を生み出す原因は、本物の自己肯定感が低いからなのです。

何かの能力が上がったら、人から必要とされたら、どんどん望みが叶う人生になったら、自己肯定感が高くなるだろうと思っているなら、それは間違いです。

その反対に、どんな自分であれ自分にOKが出せるようになるなら、その時点で自己肯定感が高いとか低いといったようなことを考えなくなるはずです。

瑣末なことにとらわれることなく、自分という存在を丸ごと認めることができれば、自己肯定感という言葉に興味すら持たなくなるはずですね。

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新しい瞑想の空間ができた

昨年の7月8日に初めて近くの住宅展示場という場所に行って、数ある中のとあるハウスメーカーさんのところへ赴いたのです。

それから一年の歳月が過ぎ、7月5日にめでたく新居の引き渡しの日を迎えました。ちょうど丸一年経ったわけです。

これから引っ越しして実際に住み始めるまでには、まだまだ色々な面倒なことが待っているのですが、それにしてもようやく終わりが見えてきました。

この一年、自分自身は特別何をするでもなく、それぞれのプロの方々が淡々と仕事をこなすことでここまで進んできたのです。

それなのに、何となく自分も一緒になんらかの仕事をしてきたという感慨があるのが不思議なのですね。

今日初めて家の中に入って、部屋などの様子を見てきたのですが、まだ家具も何もないガランとした空間の中で、あれここに住むのかなあと。

今年一番の暑さの中で、エアコンも使わずに冷んやりしているのが奇跡的ですが、空調の音がやや気になるのです。

ハイテクで固められた家の住み心地はいいのかもしれませんが、その一方で瞑想に向いているのかどうかは、まだ分かりませんね。

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「必要とされる」って醜悪

貨幣経済、対価経済の最も醜悪なところとは、「自分を必要としてもらわねばならない」という点なのです。

そりゃそうですよね。対価を求め合うわけですから、対価を要求するためには相手から自分にまつわる何らかのものを必要としてもらわねばなりません。

自分も相手に対価を支払うのは、相手の能力や成果物などを入手できた時なのです。これは取引なのですから。

他人から必要とされることの何が悪いの?と思うかもしれませんが、それは非常に醜悪なことなのです。

なぜなら、必要とするということの中には一ミリも純粋な愛が含まれていないからです。愛は与えるものだからです。

必要とするということは、「ちょうだい」と言うことです。「ちょうだい」という形式の愛はまがいものです。

互いに「ちょうだい」をやり合えば、それは当然のこと争いが起きて、それが拡大して民族間や国家間での戦争へと進んでいくのです。

だから、戦争をやめさせたいのであれば、「人は必要とされてなんぼ」という信念をドブに捨てるしかありません。

そのことに私たち一人ひとりが深く気づくことでしか、戦争は無くならないのです。そして、その気づきが私たちの集合意識レベルとなったら、対価経済も消えていくことになるはずです。

そうなったら、人に必要とされているかどうかなどはどうでも良くなり、本当に楽しく清々しい気持ちで生きていけるようになると思いますね。

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勇気ある証言です

どんな人であれ、これまで全くウソをついたことがない人などいないはずです。いいウソも悪いウソも含めてですが。

けれども、そのウソが法律に違反してしまうような物であったらどうでしょうか?基本的には、正当に裁かれる必要があります。

しかもそれが自分の出世のために、日本人全員を騙してしまうようなウソだったとしたら、これは大変なことですね。

誰かが、政治家というのは学歴などどうでもいいと、結果を出してくれたらそれで十分だと言っていたのです。

もちろん学歴そのものは何の意味もなさないのですが、公僕たる政治家が自分の利益のために学歴のウソを公表したなら、これは全ての権利を剥奪して罪を償わねばなりません。

ということで、身の危険を承知で実名を晒して証言した人がいるので、その人の動画を添付させてもらいますので、ぜひご覧くださいね。

守護霊さんにも限界がある

夜のセッションを終えて帰宅するときは、もちろんもう辺りは真っ暗です。比較的マイナーな道路を選んで帰るので、道はより狭くて暗いのです。

そんな道路を走っていると、何度も繰り返し自転車が無灯火で走っているところに遭遇したのです。これ非常に危険。

自転車を運転する全ての人に伝えたいのは、自転車のライトはあなたが前方を照らして走りやすくするためにあるのではないということ。

自転車のライトの目的は、他者に対してあなたの存在を知らしめるためなのです。だから無灯火で走るのは自殺行為だと理解すること。

実は、大袈裟ではなくて帰り道に何度もドキッとする瞬間を体験したのです。無灯火の自転車は、すぐ近くにやってきてやっとその存在を知ることになるからです。

こちらがもう少しスピードを出していたら、確実に接触事故を起こしていたなと。運が悪ければもっと悲惨なことになっていたかも。

一度でもクルマのハンドルを握ったことがある人なら、この話しは当たり前のことだと理解できるはずなのです。

私からすると、無灯火で自転車に乗って無事目的地に着いたとしたら、それはきっと霊的な存在に守られていたのだろうと感じるのです。

聴いた話ですが、守ってくれる霊の側からすると、「必ず守れる、というわけではない」らしいので、自分の身は自分で守ってくださいね。

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あるべきものがあるべきところにあって欲しい

私には、普段3本の傘があるのです。通常使っている少し大きめの傘、そして、クルマの中に常備しておいてある傘、それともう一つ事務所に置いてある傘。

この3本の傘が、それぞれ所定のところに置いてあるのが気持ちいいのです。つまり、家とクルマと事務所ですね。

例えば、事務所から帰る時に、突然雨が降り出してしまったら、当然事務所の置き傘をさして帰ることになるのです。

それでもしも翌日ものすごくいい天気だったとしても、事務所の置き傘を持って出かけることになるのです。

そうしないと、事務所にあるべき傘がいつまでも戻らないことになってしまうからです。これは、クルマに置いてある傘にしても同じなのです。

傘に限らず、所定の場所に置いてあるものがそこに置いてないと、なんとなくソワソワしてしまう傾向があるのです。

だから、レンタルビデオとか図書館から借りた本とか、借りている間は少しソワソワがあって、できれば早く返却したいのです。

クルマを車検に出している間の2〜3日間も、ほんの少しかもしれませんが早く定位置に戻って来て欲しいと感じているのです。

きっと自分の中にある不安感をそこに投影している結果だろうとは思うのですが、本当のところはどうだか分かりません。

ただ、所有という概念が減ってシェアの時代になっていく時に、ちょっと不利になるかもなと密かに考えていますが、皆さんはどうですか?

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