意識的であれば物語から抜けることができる

もしもあなたが、周囲で起きている物語にばかり気を取られてしまって、自分を見ないでいるならそれはもう動物と同じなのです。

動物が悪いという意味ではなく、人間として生まれてきたのに動物と同じことをしていることが残念だということです。

起きつつある事象から外れた自分に意識を向けることができれば、そこで初めて自分の「存在」に気づくことができるのです。

存在というのは、物語とは違う次元にいるからです。外側には自分の存在を感じるための仕掛けがないのです。

物語の一つの断片としてしか自分を見出せなくなってしまうから、自分の存在価値という概念が生まれないのです。

これに気づくことができないままに大人になると、存在に代わる何か価値のあるものを見つけようとして人生を台無しにしてしまいます。

私がずっとずっと意識的であることが大切と言い続けているのも、実は意識的である瞬間、物語の外に立っていることができるからです。

1日のうちの数分でもいいので、あらゆる物語から距離を取っていられるようにするのです。すると、あなたの存在が際立ってきます。

物語とは無関係の自分という存在に気づくことができれば、人生の深い部分にも気づけるようになるはずです。

その全ては、意識的であることで現実のものとすることができるということですね。

プカプカ浮いているだけではつまらない

osho がまた瞑想について、分かりやすい比喩を用いて教えてくれています。

『瞑想は泳ぐのとは違う。浮かぶのに似ている。ただ川の中に横たわり浮かぶ人のようだ。手を動かすこともなければ、流れにも逆らわない。彼が静かに横たわっていると、流れが彼を運んでいく。彼はいかなる努力もしない。ただ浮かんでいる。』

生まれて初めて、あ、泳げるようになった!と思えた瞬間を覚えているのですが、それはどこかの川でしたね。

目を開けられないままに、ただ水中で平泳ぎの真似事のようなことをしただけですが、とにかく自分の足が浮いた状態でしばらくいられたわけです。

今思えば、お世辞でも泳げたとは言えないのですが、当時の自分としては泳げたと感じたわけです。

その後、顔を水から出したままのニセ平泳ぎができるようになって、そのだいぶ後になってクロールもできるようになったのです。

私の記憶では、水面に仰向けになってプカプカ浮いていられるようになったのは、その後だったと思います。

つまり、酷い自己流で泳ぐよりも、ただプカプカ身体を水平にして浮いていることの方が難しかったということです。

自我にとっては、身体を使って泳ぐことよりも、何もせずにプカプカ浮いていることの方が苦手なのでしょうね。

だから、自我は瞑想も苦手なわけです。どんな努力もせずに、ただ流れのままに浮かんでいるだけでは、面白くもないし自分を活躍させてあげることもできないから。

それが私たち自我の正直な性分なのですね。

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大人っぽい子供の末路

幼い頃に人並み外れて聡明で、大人っぽい子供っているものですね。その場合でも、成長するに従って、通常の子供の範囲の中へと戻ってくれれば問題はありません。

ところが、劣悪な環境で育ってしまうと、子供らしさを無くした状態のまま成長していってしまうことになるのです。

それでも表面的には、大人へと成長したかのように見えるのですが、内面は大人っぽい子供のままであることがほとんどです。

正常に大人へと成長した場合というのは、子どもらしく生きるべき時に子供として生きるプロセスを十分に経験できた場合なのです。

その経験が大人の土台となって、マインドの中にインナーチャイルドがいたとしても、おおむねは大人が人生を舵取りできるのです。

その一方で、大人っぽい子供がそのまま成長して大人になった場合には、その子供が人生の主人公として生きてしまうのです。

そうなると、大人たちの中に揉まれて社会を生きていくことになるので、本人としては相当にしんどいことになるはずです。

頑張っても頑張っても、一つも楽になることができないばかりか、理不尽な目に遭うことにもなってしまいます。

それは、幼い頃の過度な防衛をして辛い自己犠牲を強いてきた結果なのです。時間をかけて、丁寧に心の癒しをしていく必要がありますね。

大人のあなたが不在では癒しは進められない

癒しというのは、「大人のあなたを癒すわけではない」ということに気づいている必要があるのです。

大人のあなたが苦しかったり生きづらいと感じているとしても、それは現在のあなたに原因があるわけではないからです。

過去のあなたの人生で起きたあらゆる事象に対してどのように反応してきたのか、何をどの程度我慢させられてきたのか。

そうしたことが原因となって、マインドが傷んでしまったわけです。いまだにその傷が癒えないからこそ、心の癒しが必要なのですね。

けれども、ここで大切なことは過去のあなたを癒すためには、現在のあなた、大人のあなたの存在が不可欠なのです。

大人だけが癒しを進めていく必要性と方法を理解できるからです。それがなくなってしまえば、あなたは方向舵を無くした船のようになってしまいます。

ところが、最近つくづく分かったことがあるのですが、それは自宅に帰って1人になると大人が不在になってしまうクライアントさんがそれなりにいるということ。

その状態では、癒しは遅々として進まないのは当然なのです。癒しの先導役がいないまま、毎日を暮らしているのですから。

セラピストとのセッションをどれほど頑張ったところで、1週間にせいぜい1時間程度ではたかが知れています。

内容を覚えて持ち帰っても、自宅に戻ると大人が不在ではどうやっても癒しを進める手立てがないわけです。

どれほど力不足であれ、少しでも大人の自分がいるという自覚をなくさずにいられるように練習することが、すごく大事になってきますね。

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心静かにしていれば見えてくるもの

次の osho の言葉をしみじみ味わえるといいですね。

『在るそのもの
行為のなかの無為
動中の静
変化のなかの永遠
–それが<真理>だ
そして、それが<存在>なのだ
真の生はその永遠のなかにある
他のいっさいはただ一連の夢にすぎない』

何を言っているのかというと、私たちが日々目にしている事象、毎日体験している出来事や物語は、作り物だということ。

<存在>はその背景のようなものだと。別の言葉を使えば、より高次元へと遷移すればするほど、<無>へと近づいていく。

より抽象度が高くなるということでもありますね。私たちが存在していると錯覚している物理次元とは、抽象度が最も低い二元性の世界。

逆に言えば、最も抽象度が高くなれば、そこには表現できる何ものもなくなります。それが<空>でもありますね。

瞑想せずとも、ひとり心静かにしているだけでその感覚を垣間見ることができそうです。自我にとってはそれが魅力的には感じられないかもしれませんが。

こうした感覚、このような境地というのは何かしらの苦境に立たされていたりすると、どうしてもどこかへ消えていってしまいます。

つまりは自我のエネルギーが強くなればなるほど、かき消されて分からなくなってしまうのです。微かな芳香が、台風の嵐でかき消されるように。

けれども、嵐もいずれは過ぎ去って穏やかなエネルギーが戻ってきてくれるのですから、その時を待つということができればいいのでしょうね。

被害者意識のコンフォートゾーン

長く生きていれば、大なり小なり何らかの被害を被ることは、誰にでもやってくるものですね。これは、避けられません。

場合によっては人生の初期の頃から、家庭内で多大な被害に遭ってしまう場合だっていくらでもあるのです。そこから逃れる手立てはほとんどないでしょう。

被害になど遭いたくないというのは正直な気持ちですが、その一方で被害者の立場であることのメリットというのも実はあるのです。

それを握りしめて生きているのが被害者意識の強い人ということです。ではいったいそのメリットとはどんなものなのか?

それは加害者を憎んで、いつか仕返しをしてやるぞ!という思い、言葉を変えれば野望を抱えて生きることができるということ。

被害者である私は一つも悪くないというのも非常に大きな魅力なのです。誰にも否定されずに済むわけですから。

自我はそういうものが大好きなのです。本人はそんな自覚はないままに、それを心の糧にして、生きていけるのです。

幼い頃に被害者としての経験を繰り返してしまうと、その子の自我はそれをネタにしたコンフォートゾーンを作ってしまうのです。

それはおいそれと壊すことができないくらいに硬く強いものになるため、大人になってもその被害者のコンフォートゾーンから出てくることが難しくなるのです。

被害者としての自覚がある限り、加害者とのエネルギーの繋がりが一方的にであれ続いてしまうのです。

癒しを進めて、幼い頃の心の傷を癒して、大人の自覚としては被害者という立場から脱出するという決意をすることが必要ですね。

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どうでもいいこと、どうでもよくないこと

世の中にはどうでもいいことと、そうでないこととあります。どうでもいいということは、自分の人生にとっては意味がないことです。

ただそれが悪いということではありません。例えば、ゴミは大切にとっておくようなものではなく、どうでもいいものです。

決して悪いものではないですが、ゴミをずっと部屋の中に置いておくならその状態はとても醜悪なものになってしまいます。

ウンコは悪者ではありません、排泄してしまえばいいだけです。ただし、便秘になってしまうととても健康には害がありますね。

話を元に戻して、心の中にどうでもいいことを沢山残してしまっていて、それを後生大事にとっておくと、物事の本質が見えなくなってしまいます。

つまり、どうでも良くないこと、大切なことがなんなのかがゴミの中に埋もれて見えなくなってしまうのです。

心の中に残ってしまっているどうでもいいこととは、何のことでしょう?それは、自分の身に起きた様々な事実です。

それに対して、大切なことというのはその事実に対して心の中でどのような反応を起こしたかということです。

この違いをはっきり認識しておくことが必要です。

人生は迷路のようなもの

最近、視野とか視点の話をすることが増えてきたように感じていますが、今日もその視点の高さに関する内容です。

視点が低い状態とより高い状態では、後者の方がより多くの情報を見渡せるということは、直感的に理解できます。

例えば、迷路をイメージしてみればいいのです。迷路が楽しいのは、試行錯誤しながらやっとゴールに辿り着く、そのプロセスを楽しむわけです。

これは、迷路が存在する視点と同じ高さでのみできるゲームです。もしも、迷路を高い視点から眺めてしまったら。

最初から出口が見えているわけで、どの経路を通ったら最短でゴールに辿り着けれるかがすぐに分かってしまいますね。

これが視点の高さによる圧倒的な違いです。楽しみは減ってしまいますが、ゴールを目指すということに関しては有利です。

迷路を人生そのものに置き換えて考えてみると、視点が高い人ほど人生をスムーズに進めていくことができると分かります。

3次元空間に張り付いている我々自我が、人生を迷路のように感じてしまうのももっともな話な訳です。

けれども、より高次元の高い視点から見下ろしている意識の情報とコンタクトすることができれば、迷わずに人生を泳いていけそうです。

そのためには、自我という思考を頼りにするのをやめて、上位次元と繋がっている右脳優位で生きるようにすることですね。

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意識はこの3次元のものではない

人は死にゆくときに、それまでずっと人生で「これが自分だ」と思っていたものから離れていくのだと、oshoが言っています。

私自身もその通りだろうなと思うのです。実は、意識というのはこの3次元のものではないからです。

多次元に渡って繋がっているものなのだろうなと。この3次元をそのままに知覚するためには、より上位の次元でなければならないからです。

そのことについて、一つ次元を下げて説明してみます。2次元が平面であることは、周知の事実ですね。

2次元の紙の上に何かの文字を書くとします。その文字を文字として把握するためには、3次元空間から眺める必要があります。

2次元の中に住んでいる人からすると、視点によって変化してしまう複数の線分のようにしか見ることができません。

文字を書いた紙の面に水平に見れば、そうなることは想像できますね。つまり、2次元に書かれている文字を認識するためには、3次元が必要なのです。

それと同様にして、我々がこの3次元を認識するためには、時間を含めれば5次元以上の次元から見なければならないわけです。

これが、私たちの本質が5次元以上のものであることを物語っているのです。死んで肉体が滅びれば、残ったものは3次元から離れていく感覚になるはず。

そのことをoshoは説明してくれていたのですね。 

期待とは毒

私たち自我の人生というのは、「一瞬の喜びや快楽」と、その一方で「継続する欲求不満」とで構成されています。そのことにまず気づくことです。

あれこれと期待するので、それが叶った時にはその期待に見合った喜びや快感がやって来てくれるわけです。

けれども、それも束の間、あっという間にまた次のターゲットがやってきます。なぜなら、そういった満足というのは一過性のものだからです。

おっと危ない、喜びや快楽は一瞬だということに気付かれてはまずいとばかりに、すぐに次なる期待へと視点をずらすのです。

そのくせ、期待通りにいかない時にはその間ずっと不満の状態が継続するのですが、それでも諦めることができないのです。

自我は執着を使うわけです。執着によって、ターゲットに固着して、その不満を何とかして紛らそうとするのです。

こんなことを、一体どれくらい続けていけばいいのでしょうか?これは私自身にも言っている言葉であることは勿論です。

他人の自我を見ていれば、その期待を手放せば楽になるのになあと簡単に分かるのですが、自分の場合は難しいです。

そうして、自我のやり口に乗せられて人生を終えてしまうのは何とも勿体無い。osho が言うように、期待は毒だとはっきり気づくことなんでしょうね。

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