精神活動が止まっても残るもの

未だに自分のことを身体だと思い込んでいる人も一定数いるんでしょうかね?というよりも、誰の心の奥にもそんな部分が少しはあると思います。

けれども、自覚している部分だけで言えば自分はこの身体だと信じている人はそれほど多くはないのかも知れません。

私の場合ですが、自分はこの身体の内側に常にいて、(詳細な場所はちょっと分からないけど、敢えて言えば脳の中かな)この肉体をコントロールしていると感じています。

そしてなぜ自分の本体は可視化できないのかというと、精神活動そのものだと思っているからです。

自分のことを肉体だと思っているよりも、精神活動だと思っている方が何となく賢い感じがしますからね。

精神活動というのは、モノではなさそうなのでどこにあるかという質問に意味はなさそうですし、境界がないというのも頷けます。

ではその精神活動が独自に信じていることって、どの程度正しくて価値のあるものなのかを調べてみると。

かなりどうでもいいことのようにも思えてきます。さらに言えば、自分の存在を単なる精神活動だと捉えるのって、なんだかやっぱり無理があるように感じます。

深く瞑想をして精神活動そのものがかなり鎮まったとしても、何かは残り続けているのをいつも経験しているからです。

じゃあその経験て誰がしているのか?こうしたことを突き詰めていくと、自我の癖というのが見えてきます。

つまり、経験は誰かがしているという思い込みです。自我というのは、いつもどんな経験であれそれを自分のものとしてしまうからです。

そういった思考の癖を取り除くなら、ただ経験がある、ただ起きていると言えるのです。そうなると、自分という奴の入り込む余地は無くなってしまいますね。

精神活動が止まっても残るもの、それが何なのかを突き止めてみたいと思いませんか?思考を使わずに、ただそこにあるものを見てみたいと思います。

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