「実体」を完全説明します

一昨日のブログで、「時間がなければ実体に意味はない」ということについて書いたのですが、その内容をもう少し分かりやすく説明させてください。

人間がなぜ、「実体」という概念を作りだし、そしてそれを完全に真実だと思い込むようになってしまったのかが分かったかなと。

たとえば、夕方沈んだ太陽が明日の朝また昇って来るまでの間、つまり夜間も太陽は地球の裏側にあって、決してなくなることはないと都合がいいですよね。

あの太陽が消えたり現れたりするなんて、到底考えにくいわけです。今日出かけたご主人やお子さんが、帰宅するまで会社や学校で過ごしていると思いたいのです。

つまり、目の前にいなくなった大切な人たちは、戻ってきてくれるまでの間もずっと存在してくれていると。

これを可能にするのが「実体」なのです。なぜなら、実体がなければ、太陽にしろ大切な家族にしろ、見えない間も存続しているという保証がないからです。

この時間的な流れの中で、消えてしまうようなことがなくずっと存続していてもらいたいと。それを可能にするのが「実体」というわけです。

動物や赤ちゃんには、時間の流れで物事を見るということがないので、実体を必要としないということです。

これで分かって頂けたと思うのですが、人間の時間的な感覚や感性にとって都合のいいように作り込んだのが「実体」だったということ。

だから、ただ体験だけがあるのであれば、本来実体なんて必要ないということです。やっぱり実体は作り物だったということですね。

概念や観念が悪いわけではない

「猿の惑星」という映画が始まってから、それがシリーズ化されたりして、随分とたくさんの続編などが作られてきたのですね、全然知りませんでした。

その一番初めの映画だけは映画館で観た記憶があります。大学に合格した従兄弟のお兄さんが中1くらいだった私を連れて行ってくれたのです。

最近も何編かをAmazonプライムで観たのですが、コンピュータグラフィクスがすごくて、リアル感が半端ないですね。

昔は人間にメイクをして進化したサルを作っていたのが、CG の方がもちろん自由度があって見応え満点でした。

色々考えさえられる映画ではあるのですが、ひとつだけ際立っていたのが、知能が発達したところでそれが幸せと結びつくわけではないということですね。

だからと言って、一度人間を味わっておいて動物に戻りたいと思うひとはあまりいなさそうな気がします。

動物とまでいかないまでも、赤ちゃんに戻りたいかと聞かれたら普通は「ノー」と答えると思います。

ただ、赤ちゃんだった頃のあの純粋無垢な感覚、概念や観念、信念その他の思考にまみれずに、あるがままを見ていた頃の感覚だけは取り戻したいなと。

概念や観念などが悪いということではなくて、それを事実だと思い込まずにいられるようになればいいだけなんですけどね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

時間がなければ「実体」に意味はない

ここのところ「実体」という概念について、いろいろ考えているうちにこれまであまり思ったことがなかったことに気づくようになりました。

たとえば、人間以外の動物には概念というものがないはずなので、彼らには見たり触れたり食べたりする対象物に実体があるかないかなどは眼中にないのです。

どちらであろうと変わりはないということですね。実体があってもなくても同じってすごいことかなと思うのですが。

でもそれって人間である私たちに対しても同じことが言えるんですね。実体があろうとなかろうと、体験としては同じなので。

それと、「実体」ってどうも時間との関係性があるのかなと。つまり、実体があるということになると、一定の時間内で継続して存在するということを意味していると。

もしも時間がないとなると、そもそも実体という概念にどれだけの意味があるのかがわからなくなってしまうのです。

それと客観性というのも関係がありそうです。つまり、実体というのは主観的なものではなくて客観的な実在性を意味するからですね。

これって科学の世界はまさにこれです。そう考えると、やはり実体というのは人間が作り出した単なる概念でしかないということになりそうです。

科学がいずれ近い未来において、ものには実体がないということを証明してしまったとしたら、科学者はびっくりするでしょうね。

けれども、それでもきっと一般人はへえそんなもんなのかあ、で終わりにしてしまうのではないかと思うのです。

だって、アインシュタインが相対性理論を発表してからもう100年も経つのに、時間の進み具合や質量などは相対的なものだと、誰も気づかずに日常を過ごしていますからね。

問題視するのをやめる

知識をあまり使わないタイプのナゾナゾってありますよね。クイズで好みなのはそういうタイプのものです。

常識を問うようなものとか、知識が豊富な人の方が圧倒的に有利であるクイズは自信がないので、好みではないのです。

ナゾナゾは、解けたらそれなりに嬉しいし、解けなくてもちょっと悔しい感じがするだけで、嫌な気持ちにはなりません。

実際、解けたところでそれがどうしたと聞かれたら、別になんのご利益もないし自分が進歩したわけでもないと分かっています。

そこがまたいいのでしょうね。ナゾナゾの何が解けようが、自分の価値は変わらないし、どんな改革もされません。

もっと素晴らしい自分になるわけでもないし、もっと良い人生に変化するということでもありません。

逆に、探求というのは現状には何らかの不満があるというのが前提のような気がします。このままではつまらないとか。

もう少しマシな自分になる、といった現状打破的な要素が含まれていますよね。実はそれこそが、不満や思考に飲み込まれる要因なのです。

自分は満たされていない、不満を抱えているということを、殊更に問題視しないでいられたら、苦しみからは遠のいて行かれるように思いますね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

体験だけがあるって、夢と同じ?

人にもよると思うのですが、普段あまり表面には上がってこないものの、頭のどこかで自分はこの広大な宇宙のどこかで暮らしていると思っています。

無限に広い宇宙の中にある天の川銀河の中にある太陽系の惑星の一つである地球の片隅で、砂つぶよりももっと小さな1人の存在として生きているんだと。

そう信じて疑っていなかったはずなのに、最近実体はないということに気づいてしまったので、この宇宙という実体もないんだなあと。

空間や距離というのも概念だし、大きさという実体もないとなると完全に理解が崩壊してしまうかもしれません。

でもふと思うのですが、実体があると思われる宇宙よりも、実体がないほうが自然な感じがしないですかね?

だって実体があるって相当大変なことですよ、実体がないシンプルさと比べたら。そして、実体がないにも関わらず、体験だけがあるわけです。

そんなバカなと感じてしまうのも無理はないのですが、ただ睡眠中にみる夢というのもそういう意味では同じですよね。

完全に心が作りだした空想の世界の中で、体験は起きていて、そのためにあらゆる感情が湧き起こったり、景色の素晴らしさに感動したりするのですから。

ただし、この現実が夢だと言いたいわけではありません。なぜなら、夢から覚めて実体のある現実に戻れるというのが、この現実に関しては起こらないからです。

誰もいないし、なにもないのにこうして体験だけがあるのですから、どれだけ不可思議なことなのかまったく理解不能ですね。

先入観を脇へ置く

例えば道を歩いているとして、その時歩いている主体と歩かれている道(環境)を二元の対としてみることができます。

非二元においては、その両者には実体がありません。その時に残るのは何かというと、「歩いているという感じ」なのです。

けれども、一般的にはそうは思えないですよね。歩いている感じだけが残るなんてことは決してないと思うのです。

それはなぜかというと、そういった感じとか、足が疲れたなあとか、遅刻しそうで焦ってるとか、気分がよくない、腹へった等々。

こういったあらゆる感覚というのは、その歩いている主体の中で起きていると信じているからなんですね。

だから主体が消えてしまえば、歩いているという感じやその他諸々の感じも一緒になって消えてしまうはずと思えるわけですね。

さあそれは本当にそうなっているかということです。あらゆる概念や固定観念、先入観などを全て脇に置いてみるのです。

そうして純粋な興味とか好奇心だけになって、歩いている感じや足が疲れた感じ、遅刻しそうで焦ってる感じ、気分が良くない感じ、腹減った感じなどが「どこ」で起きているかを見てみるのです。

本当に主体の内側で起きてる証拠を見つけることができるでしょうか?するときっと、それらの感じがどこで起きているか不明となるのです。

それだけがただあるのが分かります。

「知ってる」と思うことを疑ってみる

幼い子供が生まれて初めて月を見た時に、思わず手を伸ばして触れようとしている姿って何となく想像できますよね。

月が途方もなく遠くにあるということを「知ってる」私たちは、その子供の姿をなんとも微笑ましく見るのです。

この「知ってる」ということをちょっと深掘りしてみたいと思います。私たちは、知識として知っていることを、ほとんどの場合真実だと思い込んでいます。

そうしなければ、なかなか面倒な毎日になってしまうからですね。たとえば、地球が丸いって「知ってる」けど、本当かどうかは分からないとか。

目を閉じて周りが見えなくなっても、部屋の中にいることを「知ってる」けど、それが本当かどうかは分からないとか。

そんなバカなことを考える人はほとんど皆無でしょうけれど、実はこの辺りに知ってると思っていることや先入観に騙されないというヒントがあるのです。

そうやって、あらゆる知ってると思い込んでいることや、信じていること、概念や観念、イメージなどをそれと見抜いて過ごしてみるのです。

そうすると、まったく違う世界が広がっていることに気づくことになるかもしれません。空間や距離が単なる概念であることにも気づくのです。

モノの実体が概念であることも、時間も概念に過ぎなかったと気づくことになるのです。とても不思議な感じになりますけどね。

Let’s repeat 「実体」とは?

「実体」という言葉(概念)があります。この言葉の意味について、明解に説明することってできるでしょうか?

ネットで意味を調べると、「すべての存在の基本に、これを支えるものとして考えられる基本存在のこと。」とあります。哲学用語らしいですが。

基本存在とか言われても、ちょっと分かりづらいですね。もう少しわかりやすく説明しようとするとどうなるか。

実体とは、「現実に、あるいは現実の中でモノが存在するさま」これなら分かりやすいと思います。でも逆に今度は、現実という言葉を説明する必要が出てきました。

現実とは、「モノが実体として存在している世界」てなりますが、これで本当に説明になっているでしょうか?

つまり、Aさんの説明をするときに、AさんはBさんの友達ですって言っておいて、じゃあBさんは?と聞くと、BさんはAさんの友達です、というのと同じ。

ということになって、まったく説明にはなっていないわけで、結局やっぱり冒頭のネットの哲学的な説明になってしまうんですね。

物事を空想したり想像したりできるのは、どうも人間だけらしいですね。つまり簡単に言えばイメージの世界です。

このイメージの世界では、モノの実体はないと言えます。その一方で、現実の世界では、モノは実体を伴うということ。

ということになると、私たちは現実の世界においては、モノは必ず実体を伴って存在するものだと思い込んでいるのです。

これが思い込みだったとやっと気づきましたか?目の前のりんごに実体があると言い張るなら、それをどうやって証明できるかを考えてみることです。

すぐにできないことが判明してしまいます。このように見てくると、「実体」という概念はどこまでいっても概念止まりだってことになります。

モノには実体があるということこそが、イメージだったというわけですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

不思議な一日

今日はホントに不思議な目に繰り返し遭遇するという変な日でした。二度あることは三度あるどころか、もっとありました。

いつもと同じ時間に家を出たのに、スポーツクラブに10分以上も遅刻してしまったのです。滅多にないことですね。

皮切りは、普段ガラガラな道路で不当な渋滞に巻き込まれてしまったこと。でもこれは5年に一度くらいはあってもいいかなと。

その後、工事のトラックが狭い道路に停めてあって、交通整理をするお姉さんがいるのですが、まったく用を成さず。

うまく説明はできませんが、行く手を阻まれたこちら側の車線が、ちょっと危険な状態になってしまうという結構まずい事態。

仕方ないので、車の中からそのお姉さんに指示を出してなんとかそこを切り抜けて、ようやく目的地のゲートのところまで来たのです。

すると、そのゲートのところでなにやら切り返し?をしようとしている車がいて。クラクションを鳴らすと、バックでそのゲートを通過しようとしている。えっ?

バックでゲートをくぐってなにするつもりなんだろうと思ってみていると、今度はそのまま前進して反対方向に向かって進んでいってしまったのです。

こちらとしてはなにが行われていたのか、まったく理解不能で茫然自失。そして今度は自宅へ戻った時のこと。

車庫のゲートを開いていると、子犬を三匹連れた散歩の女性がやってきたのですが、そのうちの一匹が歩きながら3つほどフンを落としていったのです。

自宅の真ん前で。これから車を車庫入れしようとしているときに。こんなことって人生で初めての経験。

チョット〜と慌てて声をかけて、無事処理をしてもらったのですが、今度は母親の老人ホームに面会に行く時間になって。

2階の住人に行くよ〜と声をかけても返事がないので、見にいったらどこへ行くの?と。完全に忘れていたようで。

これも今までになかったことです。変な日。実はここに書ききれない小さくて嫌な感じの出来事が他にもいくつかあったのです。

過ぎてしまえば、どうっていうこともないので、早々に忘れてしまおうと思っているところです。

事実とそうでないものを見分ける

実は私たちは、これは間違いなく事実だと思っているものであっても、かなりの割合で勝手に作っているものが混ざっているのです。

作っているというのは、もちろん自覚なくやってしまっているということです。例えば、目の前に美味しそうなリンゴがある、は事実です。

けれども、このリンゴには実体があるというのは作り物、思い込みです。これが分かると、この世界の実態が分かってきます。

この部屋にはテレビがあるというのは事実ですが、扉を隔てた隣の部屋にもテレビがあるというのは作り物です。

もしも隣の部屋にテレビがあるのが見えているなら事実ですが、見えない隣の部屋にテレビがあるというのは思い込みです。

でも本当のことを言うと、目の前にリンゴがあるとか、テレビがあるというのも実は事実ではありません。

事実は、目の前にリンゴがあるというふうに見える、あるいはそんな感じがするということだけなのです。

私とテレビの間に数メートルの空間があるというのも作り物です。事実は、私とテレビの間に空間があるように見えるということ。

分かってきましたか?事実と作り物の違いが明確になってくると、これまでの認識の仕方が間違いだったと気づくようになります。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。