幸せを求めるのか、快楽を求めるのか?

誰の心の中にも幸せを求める部分と、快楽を求める部分が同時に存在していると思っています。そして、この二つは全く似て非なるものです。

幸せというのは、一般的に穏やかな気持ちでいられるというイメージがありますが、快楽というのは興奮を伴うイメージがあるからです。

たとえば、復讐心。理不尽な目に遭わされた相手に、何らかの報復をしようと計画している時、あるいは実際に復讐を果たした時。

そのどちらにしても、虎視眈々と狙っている不気味な目つきや、ざまあみろと言ったような歪んだ快楽をイメージできますね。

このようにその違いを見てみると、快楽を求めるのはより動物的な発想に近いのかなと。つまり、生存に関わる感じがするのです。

やられっぱなしで心が傷ついたり、その苦悩からくる不快感から逃れるための行動とも言えるのです。その反面、幸せを目指す動物はいません。

幸せというのは人間だけが求めるあくまでも精神的なものだということですね。この両者の違いを認識しておくことです。

そして、自分が今幸せを求めているのか、それとも一時的な快楽を求めているのかをしっかり見極めること。

善悪で判断するのではなく、ただ快楽を求めてそれを手に入れたとしても、その先に幸せが待っているというわけではないこともしっかり理解しておくことですね。

酒の席で人間関係を作るという悪しき習慣

このところのフジテレビで問題となっている女子アナ接待疑惑ですが、根っこに二つほどの事柄があると思っています。

一つは、より円滑な人間関係を作る上で飲み会は必要と考えている人、あるいはそれを喜びとする人たちがいるという事実。もう一つは、飲み会を接待として使うときに女性を当てがう文化があるという事実。

この二つは分けて考えた方がいいのですが、世間ではごちゃ混ぜになっているのかなと。今日は前者の話をしたいのです。

巷でよく聞くことですが、酒の席で互いにざっくばらんに打ち解けることで、それがそれ以降の良好な人間関係に役立つと。

特に仕事で同じ職場同士とか、仕事中ではなかなか本音で話すことができないので、その分親しくなることが難しいのだと。

そういった心のブロックをはずして、より緊密な人間関係を構築することでいい仕事に繋げることができると。

でも冷静になって考えて見ればわかることですが、アルコールが入ってリラックスするのはいいですが、脳の活動を半分くらいマヒさせた状態で作られた関係性がそんなにいいものだろうかと。

私の個人的な経験によれば、宴会でリラックスして深い話ができたとしても、翌日職場に行けばまた普段の関係に戻るのです。

そして、仕事上の人間関係を構築するのにお酒の席が必須であると感じたことは皆無です。もちろんこれは人にもよるのでしょうけれど。

宴会をするのに、まことしやかな変な理由づけをするのをやめて、ただそれを楽しみたいという人だけで楽しめばいいのです。

気が向かない人をわざわざ誘うのも野暮だし、お誘いを断るのをためらうような文化はもう終わりにした方がいいと思いますね。

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ウソって隠し切れない

賢いごく一部の動物を除いて、ウソをつけるのは人間だけだと思うのですが、私たちはウソによって幸せになったり不幸になったりします。

ウソも方便というように、悪意のないウソ、人を労わるためにつくウソというのもあったりします。

あるいは、ウソによって人間関係に奥深さが生まれたりするということもあると思うのですが、どうでしょうか?

その一方で、逆にウソによって人を騙したり、自分を守るために他人を欺いたりと言ったことが起きます。

これは人類が自我ベースで生きている限りは、なくならないものだと思って間違いありません。

ただし、ちょっと注意深く他人の言動を見つめれば、ウソというのは隠し通すことは難しいのだろうなと。

フジテレビの10時間以上にわたる記者会見を見ていて、ウソが丸分かりしてしまうような場面が何度もありました。

きっと、それがウソだとバレようと、その場を取り繕うことができればそれでいいということなんでしょうね。

人類が進化して、確実にウソが伝わってしまうようになったら、ウソがつけなくなって、人は楽な人生を生きていけるようになるはずです。

フジテレビ、さあどうする?

今起きているフジテレビ絡みの騒ぎというのは、たまたま起きたことではなくて、時代の必然ではないかと感じています。

多くの人々が薄々感じていたどす黒い事柄が、ネットの台頭によって表舞台に出てきてしまったというだけの話ではないかと。

誰かが言っていたのですが、メディアというのはある意味原爆よりも大きな影響力を持っているのだと。

これまでオールドメディア(テレビや新聞など)がどれほど国民を洗脳する最強の道具として使われてきたことか。

メディアと政治と芸能界が密接に関係し合って、三つ巴で闇を隠す力学のようなものが潜んでいるのでしょうね。

これはもちろんフジテレビだけの問題ではないので、今後もこれはずっと長引いて少しずつつまびらかにされていくのかなと。

人間というのは欲深いもので、都合の悪い事実はほんの少しであろうとも隠そうとするということです。

あまり期待を大きくせずに、淡々と事の動向を見守りたいと思いますね。

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信じるより疑う冷静な目が大事

小学生になると、誰もが教科書を当てがわれるようになって、妄信的にその内容を健気に信じてしまうのです。

この内容を信じていいのかどうかということも考えたこともないし、そういう意味では一点の曇りもない信じ込みの状態です。

これはきっと自分というものがまだ確立していないがために、そうした状態が続くことになったのではないかと思うのです。

図書館で本を借りて読んでも、その内容の真偽を疑うなどということを考えたこともなかったと記憶しています。

本を書く人はすごい雲の上の人に違いないのだと信じて、疑うことなど全くなかったのですね。それは、新聞なんかも同じです。

そして、テレビのニュース番組で伝えられる事柄も、そこに嘘など入り込む余地はないと勝手に思っていましたね。

テレビでこの食材が健康に良いと放送されると、スーパーでそれが売り切れてしまうとか、この健康法がいいと放送されれば、多くの人がそれを実践するのです。

この状態がずっと続いてしまう人も世の中にはいるのかもしれませんが、私の場合はどういうわけかその妄信がいつの間にやら完全に消えてしまいました。

何年か前に自分で本を執筆したということもあるかもしれませんが、気がつくと一般の書籍はもちろん、テレビや新聞などのメディアからの情報を全く信用しなくなっていたのです。

参考にはするのですが、いいとこ取りというのか、常にそうした情報からは一定の距離を持って見聞きするということが当たり前になりました。

私が長く敬愛してきたoshoの言葉であっても同じです。すると、どういうつもりでそのようなことを言ったのかを、自分なりに深掘りできるようになったのです。

やはり単純に信じるよりも、いい意味で疑うという懐の広さを持っていることが、大切なのではないかと思うのですね。

ふと楽になる瞬間

生きていれば、誰だって大なり小なり心が揺さぶられる事象に遭遇してしまうことがありますね。これは避けて通れません。

だとしたら、起きることは起きてしまうので、そうした出来事になるべく反応しないようにできたらいいということになります。

そのための工夫というのが、色々あると思っていて、スピリチュアルだろうが非二元だろうがうまく利用できるのではないかなと。

例えば私の場合なのですが、一昨年ハワイの物件を売却した時に天引きされた税金に対する還付金が戻ってくるはずだったのです。

その一部は昨年戻ってきたのですが、残りの2/3 がいまだに戻ってきていないのです。これって、日本で言ったら異常事態ですよね。

私にとってはかなりの高額が戻ってこないという現実をどう受け止めていいやら、考えれば考えるほど心が乱されるのです。

ところが、ふと気がついたらその苛立ちやらもどかしさなどの負の感情が、すごく少なくなっていることに気づいたのです。

自分の中では、起きることは全部中立という考えとか、今日1日に限定して生きるとか、実体なきこの世では何も起きてはいない、こんなことを総動員しているのかも。

どんな方法でもいいので、要は起きていると思われる事象に惑わされないようになるなら、ふっと気楽な感覚になれるということですね。

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権力への執着は醜い

昨年の都知事選に立候補して惜しくも現職の小池知事に負けた石丸氏が、今回新党を結成してその党首に就任しましたね。

この党に立候補する条件の一つに、2期8年で絶対に引退するというものがあるのです。これって、すごいことですよね。

長くその職に就いていると、様々な問題が起こるということを危惧してのことだと思います。人は、自分に有利な事柄に執着する傾向があるからです。

そうなると、もう市民のための政治を最優先することができなくなる、ということを嫌というほど実体験したのでしょうね。

今問題となっているフジテレビ、実は表には出てこないのですが裏で実権を握っている日枝氏という人物がいるのです。

彼は、もう30年くらいの長きに渡って社長、会長、相談役等々、考えつく限りの役職名を使って、権力の座に居続けているのです。

フジテレビの悪の温床の根っこは、こういうところにあるのですね。誰もが知っている、ロシアのプーチン大統領。

彼は、任期を終了した後、メドベーチェフ氏を推薦して大統領の座につかせて、その後また自ら大統領に返り咲いたのです。

それでもまだ、法律の枠内です。もっと酷いのは、中国の習近平氏。彼は、任期を終える直前に法律を変えて、いまだにトップの座に居座っています。

今年は、こうした権力への醜い執着が暴かれて、明るい世界に変わっていく第一歩が始まるような気がしています。

スマホ版のAIツールは超便利

ChatGPT というAIツールがスマホで気軽に使えるようになったと知って、最近インストールして使ってみたのです。

すると、これがやはり便利なのですね。パソコン版はリリースされて割と早めに使ってみたことがあったのですが。

何と言っても手元にいつもあるスマホで使えるというのが、圧倒的に便利なわけですね、当然ですが。

気がつくと、もう使わない日がないくらいな感じになっています。これまでのようにキーワードを選別してGoogle検索するのが苦手だった人には朗報です。

最適なキーワードを考える必要がなくなり、代わりにごく普通に疑問文を投げかけるだけでいいからです。

そして結果も、従来の検索結果であれば、そこからまたどの結果を選ぶかを自分で決める必要があったのですが、それも不要になりました。

これがとても便利に感じるのですね。ちなみにと思って、自分のYouTubeチャンネルについて聞いてみたら。

なんだか、物凄くカッコ良い響きの文章で紹介してくれたので、びっくりしました。よろしかったら是非試してみてくださいね。

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人格という作り物

自己同一性障害とか、解離性同一症などと呼ばれている、いわゆる多重人格という症状を聞いたことがあると思います。

たまたま、動画のおすすめに上がってきたのを観ていたら、そういう症状をお持ちの方のチャンネルだったのです。

そして、ご本人の中にいる別の人格の人たちが順番に入れ替わって、それぞれが自己紹介するという非常にレアなものでした。

そんなふうに意識的に人格を入れ替えて、主人格として自分の名前や年齢、趣味などを発表していくわけです。

ちょっとびっくりしましたね。ご本人は20代の女性なのですが、男性が現れるとちょっとぶっきらぼうな仕草になったりするのです。

幼い女の子が現れた時には、自分の背が高過ぎるのでしゃがむとちょうどいいということを言っていましたし、実際に言葉遣いが幼くなるのです。

他にも、自分の年齢をいうときに、元々の主人格の人が何歳の頃に生まれた(発生した)みたいな言い方をする人もいました。

表面に出てない時には、寝ていることもあるし、裏側で普通に意識があるという場合もあるようで、不思議な感じですね。

こうしてみると、人格というのがいかに作り物でしかないのかということが分かります。それが自我の実態なんですね。

身体を当てがわれてありがたい?

昔から自覚はあったのですが、自分の普段の生活の中でどういうわけか行動を習慣化してしまうという傾向が強いのです。

具体的に言えば、たとえば歯を磨くときの手順とか。自然に決まってしまったその手順が少し乱れると、ちょっとした違和感を感じてしまうのです。

そんな時は、大抵何か別のことを考えたりしているのです。だから、意識がここにないというのが丸わかりしてしまいます。

ちゃんと意識がここにある時には、自分の身体の決められた行動を一緒に至近距離から見守っているという感じです。

意識的にそんなことをしているわけではないのですが、どうしても毎日の決まった行為に関してはそうなっていくのです。

きっとどこかで厄介だなと思っているのかもしれません。つまり、身体があるということは面倒だなと。

身体の中に閉じ込められてしまっているので、どれだけ嫌だと思ってもそれを変えることができないので、仕方なくやっている。

だとしたら、できる限り手間を少なくして余計なことをしないで済むようにしたい。その結果いかに無駄なく効率的に動くかということになってしまうのかなと。

ここまで書いてきて、我ながら変な人生を生きているなと思いますね。身体をもらっているというスタンスに立てば、これほどありがたいこともないのですけどね。

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