小学生になると、誰もが教科書を当てがわれるようになって、妄信的にその内容を健気に信じてしまうのです。
この内容を信じていいのかどうかということも考えたこともないし、そういう意味では一点の曇りもない信じ込みの状態です。
これはきっと自分というものがまだ確立していないがために、そうした状態が続くことになったのではないかと思うのです。
図書館で本を借りて読んでも、その内容の真偽を疑うなどということを考えたこともなかったと記憶しています。
本を書く人はすごい雲の上の人に違いないのだと信じて、疑うことなど全くなかったのですね。それは、新聞なんかも同じです。
そして、テレビのニュース番組で伝えられる事柄も、そこに嘘など入り込む余地はないと勝手に思っていましたね。
テレビでこの食材が健康に良いと放送されると、スーパーでそれが売り切れてしまうとか、この健康法がいいと放送されれば、多くの人がそれを実践するのです。
この状態がずっと続いてしまう人も世の中にはいるのかもしれませんが、私の場合はどういうわけかその妄信がいつの間にやら完全に消えてしまいました。
何年か前に自分で本を執筆したということもあるかもしれませんが、気がつくと一般の書籍はもちろん、テレビや新聞などのメディアからの情報を全く信用しなくなっていたのです。
参考にはするのですが、いいとこ取りというのか、常にそうした情報からは一定の距離を持って見聞きするということが当たり前になりました。
私が長く敬愛してきたoshoの言葉であっても同じです。すると、どういうつもりでそのようなことを言ったのかを、自分なりに深掘りできるようになったのです。
やはり単純に信じるよりも、いい意味で疑うという懐の広さを持っていることが、大切なのではないかと思うのですね。