波照間島の思い出 その2

波照間島から帰宅して数日たったある朝のこと、出かける支度をしながらも聞こえてくるテレビの中の男性の声にオヤっとなったのです。

あれ、何だか聞き覚えがある声だなと思って画面を見ると、少し前までお世話になったあの波照間島の民宿のご主人の姿が映っているじゃないですか。

そして、その民宿から海までの歩き慣れた小道も映ったりして。何だ何だとなって見ていると、驚くことにそれは凶悪な事件の取材だったのです。

どうも、あの民宿に宿泊していた若い女性が海の近くの東屋で殺されたのだとか。その女性は、ちょうど私と入れ替わりで宿に来たらしいので、私は会っていないのです。

犯人はまだ見つかっていないらしく、島をあげて大捜索が始まっていたのですね。それにしてもびっくりです。

真夜中に1人で海まで行って、その東屋に荷物を置いてから、月明かりの中よく泳いでいたし、数日ずれていたらこの事件に巻き込まれていたかもしれないなと。

この話を当時通っていた催眠療法のクラスの友人たちに話したら、大澤さんが犯人なんじゃないの?とか言われたんですよね。

しばらくして無事犯人が逮捕されたので、私の嫌疑は晴れたのですが。犯人の男性は、宿に泊まらずに禁止になっていたテント生活をしていたらしいのです。

事件に直接巻き込まれなくても、ほんのちょっとの差で島から出ることが許されない状態になっていただろうなと。そんなレアな体験でした。

波照間島の思い出

最近ずっと非二元の話ばかりしているので、今日はちょっとした箸休め的な話をしたいと思います。

今の仕事を始める少し前に、波照間島に遊びに行ったことがあるのですが、この島の事ご存知ですか?日本最南端の小さな島です。

自転車で島を一周するのに30分くらいしか、かからないくらい小さいし、宿泊するところも、ちょっとした民宿が数軒しかないような島なのです。

その民宿の古臭い畳の狭い部屋に寝ている時に、明け方ふと目を覚ますと、誰かが外を歩いている足音が聞こえてきたのです。

窓のすぐ傍に寝ていたので、その足音との距離はきっと1メートルくらいしかないように感じていたのです。

なので、ちょっとした恐怖がやってきたのです。そしてじっと耳を澄ましていると、その足音は行ったり来たりして、至近距離で立ち止まったりしてるのです。

絶対にこんな早朝に建物の外をふらつく人などいるはずがないと。これは完全にお化けか、あるいは頭のおかしい人に違いないと。

もしも窓を破るか、すり抜けて部屋に入ってきたらと思うと、本当に怖くなったのです。それでもしばらくして、その足音は消えてなくなったのです。

朝食の時に、実は明け方こんな体験をしたということをみんなに話したところ、民宿のご主人が「ああ、きっとそれはお袋だよ」と。

離れになっている部屋に1人で暮らしていて、普段は滅多に表に出てこないらしいのです。もしかしたら、若干認知症になっていたのかもなと。

結構自分は怖がりで、勇気がないんだなと自覚しましたね。でも、思い切って窓をバーって開けなくて良かったです。

この波照間島に関連した小噺は他にもあるので、また書きたいと思います。

ーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

魂の修行に興味なし

人生は「学びの場」だということを聞くことがあります。そのためには、1人で勝手をしているだけではダメだと。

様々な人との交流を通して、多くのことに気づいていく必要があるのだと。それは確かにその通りかもしれません。

自分の経験でも、一緒にいて楽な人といるよりも、ちょっと面倒だなと感じる人とか、苦手だなと思うような人といる方が学べる感じがします。

そうやって人格形成というのか、人格を磨いていくのが正しい道なんだとか。ただ、自我であることには変わりはないわけで。

自我をどれほどピカピカにしたところで、所詮は自我なのです。ある程度の癒しは必要だとは思うのですが、自我を磨くことには興味がないですね。

もっと単刀直入に言えば、人格というものに興味がないのです。だからこそ、自我から離れていくことにしか興味がなかった訳です。

気が合わない人とは一緒にいようとは思わない。そこに学びがなくてもいいと思うのです。学んだところで、修行したところでどうにもならないので。

ついでに言えば、魂の段階があるとかいうまことしやかな話にも、一ミリの興味もありません。人がそういうことを気にして生きていることには無関心。

どうぞご自由にという感じで、それを否定することもなく。もっと言えば、人生があるとするなら、人生は全自動だと感じますね。

直接の体験だけがリアル

この世界には実体がないという気づきがやってきてから、非二元と呼ばれる世界へと迷い込んでしまったようで。

こういう表現をするにもちょっとした勇気がいるのです。なぜなら、実体がないはずの誰かが迷い込むなどということは不可能だからですね。

昨日のブログでも触れたことですが、非二元というのは非常にシンプルで、シンプル過ぎてかえって分かりづらく感じてしまうのです。

悲しみや怒り、あるいは不安などを感じるのは実体としてはないのですが、体験としてはリアルなものですね。

あなたが街を歩いているとして、街を歩いている体験はリアルなものですが、歩くという行動はイメージでしかありません。

歩くという物理的な行為は、物理的な身体が必要になるのですが、身体という実体もないし、街という実体もないからです。

数ヶ月前にこんな話を誰かから聞いたら、まるで訳のわからない意地悪な禅問答のような印象を受けてしまうかもしれません。

けれども、リアルなこと、現実というのははっきりしているのです。それは、どうしようもなくただあるからですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

非二元はシンプル過ぎて難しい

非二元ってあまりにもシンプルなことなので、心の癒しのこととは違ってほとんどあまり表現することがないのですね。

だから質問の内容がどんなものであれ、質問をいただくとそれに答えるということができるので、非常にありがたいのです。

しかも、実際に質問をされなくても、他の人の質問に対して「そうそう!」と思っている人も結構いらっしゃるのではないかと。

私自身も、じつは自分がお伝えしている非二元に関連して、いくつか質問をしようと思えば質問ができるのです。

けれども、それは私たち自我には決して理解することのできないことだろうなと、そう思うので疑問をそのままにしているのです。

それにしても最近ふと思うのですが、なぜこれほどまでに究極のシンプルなことにこれまで気づくことがなかったのかなと。

シンプル過ぎると、自我はそれを拒否するのかもしれないですね。思考は複雑なものを好むけれど、逆にシンプルなものはきっと苦手なのです。

人生80年だとすると、残り少なくなってきた今のうちに気づくことができてよかったなとは思うのです。ただそんな自分はいないんですけどね。

ピダハンのように直接体験だけを見る

私たち人類がこうして地球の支配者として君臨することができた理由の一番の要因は、想像する力だと言えるかなと。

目の前にないことを想像できること、これは他のどんな動物でもできないことなのですね。過去のことや未来のことを考える。

ここにはない何かのことをイメージすることができるだけでなく、それを他の人たちと共有することができる。この能力がとても大きいのです。

他の動物は、直接の体験の中だけで生きている訳です。だから広がりがないのですね。自分の目の前の世界だけを対象として生きているのです。

ところが、人間は直接体験よりもその何十倍もの時間と労力をイメージに注ぎ込んでいるのです。そこにこそより重要な事柄があるのだと。

人間でも動物のように直接体験しか信じない民族もいます。以前紹介したことのあるアマゾンの少数民族であるピダハンの人々です。

彼らは人から聞いた話はほとんど信じないし、相手にしないのです。だから彼らの生活はとてもシンプルなのです。

けれどもその一方で、私たちのような高度な文明を発展させることはできないでいるのですが、世界一幸福な民族と言われているのも事実です。

実は非二元に近づくためには、ピダハンのように直接の体験をイメージから切り離すことが必要なのだろうなと思うのですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

非二元の話の前に…

私たちは気がつくと、自分の身体の外側に広がっているこの世界をありのままに体験していると思い込んでしまっています。

清々しい風の感触をありありと皮膚感で味わうことができるし、美しい景色をそのままに見ることもできるし。

海に行けば、潮騒の音をずっと聞いていられるし、芳しきワインと美味しいご馳走を堪能することもできるのです。

また大好きな人たちとの会話を楽しむこともできます。だから、思い描いている通りの世界が外側にあると信じて疑いません。

けれども、本当はどうでしょう?私たちが知っているのは、全て肉体の五感を通して認識した情報だけなのです。それが世界を認識するということなのです。

つまり、全て「間接的」にしか知ることができないのです。こんなごく当たり前のことを普段は忘れてしまっています。

私たちが知っている世界というのは、全て脳の中にしか存在しないものです。つまりは仮想的なものでしかないということです。

たとえば、外の世界に色というものは存在しません。どれほど極彩色豊かな景色だとしても、その色は脳の中にしかありません。

わかりやすく言ってしまえば、あなたが認識している世界とは自分の脳の中にしか存在しないものだということです。

ここまでは、非二元を持ち出さなくても理解することはできます。非二元の話を理解しようとする前に、このことをまず分かっておく必要があります。

ただし、もちろんこの話の延長上に非二元があるという訳ではありません。要するに、知っているということの危うさにまずは気づくと。これがどうしても必要なんですね。

自我は二重に幻想を重ねたもの

みなさんご存知の通り、睡眠中にみる夢というのはこの現実世界とは違って、その全てが想像によって作られたものですね。

そして、こんな夢は見たことがないかもしれませんが、その夢の中でもしも寝て夢を見ているという夢の内容だったとしたらどうでしょう?

それはもう、幻想の中で更に幻想を重ねた状態と言えると思いますね。それに似たものが実は自我にも言えるのです。

長年にわたって、自我という「私」は実在するものではなくて、思考によってでっちあげられたものだということをお伝えしてきました。

ところがここへきて、現実そのものが全て幻想だったということに気づいた時、じゃあ自我というのは何なのか?

それはつまり幻想の中における幻想として作られたものに過ぎないということが言えるのです。夢の中の夢と同じです。

それほど現実味のない「私」を信じ切って毎日暮らしているわけですから、それはもうかなりバカバカしいと思えても不思議ではありません。

夢の中で夢を見ているその内容を真面目に信じ込んでいるとしたら、その馬鹿らしさをイメージしてみてください。

それが分かったなら、自我という「私」とはそんなどうにもこうにも存在が不確かな奴だと見抜くことですね。

それができれば、日々の生活の中で深刻になることがあまりにもアホらしく感じられるようになるはずですね。

ーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

決して解けない謎

非二元の気づきがやってきてからは、これまで以上に人生の全てがただの物語だということになってしまいました。

それまでも、人生物語という言葉は使ってはいたのですが、その頃使っていた「物語」というのとは今はわけが違います。

以前は、物理的に我々は生存していて、その中であらゆる悲喜こもごもの事がやってきて、それはまるで誰かが書いた筋書きのような、ということだったのですね。

ところが、今感じている物語という意味は、丸々なにもないし何も起きていないにも関らず、あたかも物語が起き続けているように感じているということ。

この両者の違いは決定的なのです。今でも不思議でたまらないのですが、何もない世界でなぜこのような直接的な体験だけがあるのか?

物語の中では、様々なルールがあったり因果の法則などがあって、それを元にしてセラピーをしてきたわけです。

だから仮想的な物語内の法則が変化した途端に、私が行ってきたセラピーは何の役にも立たないものになってしまうはずなのです。

もっと破茶滅茶で全く捉えどころのないことの連続として、この世界の見かけが起きたとしても不思議ではないのです。

だから本当に不可思議で仕方ありません。こうした謎は決して解くことのできないものなのでしょうね。

「気分上々」を作り出すメソッドを探す

お酒が飲めない人には分からないかもしれませんが、身体にアルコールが回り始めると、フワッとしたいい気分になれるのです。

私の場合は、大抵が飲み始めにそれがやってきて、それ以降はその状態をキープしたくて飲み続けるという感じです。

また、内視鏡による胃腸などの検査の際に、鎮痛剤のようなものを点滴されるわけですが、その時も似たようなフワッとしたいい感じになるのです。

そのようなアルコールや薬物の力を借りなくても、あのいい気分に自力で持っていくことができたらすごくいいだろうなといつも思うのです。

瞑想してしばらくすると、やや似たような気分になれることもあるのですが、今はちょっとやる気が起きないのでそれは使えません。

それに、瞑想している状態の時だけではあまり意味がなくて、できるならごく普通の生活の中でそれを体感できたらいいのになと。

ただ実は、何の脈絡もなくそんないい気分になることもあるのですが、それを意図的に引き寄せることができないのです。

せっかく非二元の気づきによって、どうせ何もないし誰もいないし、空間も時間も幻だと分かったのですから、これをどうにか有効利用できないかなと。

今年はそんなことを少し真面目に実践して行ってみようかなと思っています。実際に効果のでる具体的な方法が見つかったら、当然皆さんにお伝えしますね。 

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。