やっぱり世界はない

「非二元の世界」では…、のような表現を使ってしまうことがあるのですが、実は非二元には世界というものがありません。

私たちは、この二元の世界で生きているのでまず大前提としてこの世界があって、そこで様々な物語が進行していると考えているのです。

自分という存在も、世界という大きな舞台の中で生存している一つの存在であるという認識があるわけです。

けれども、非二元というのはこの世界というものがないのです。なぜなら、この世界というのはイメージだからです。

え、そんなことはない。この世界は妄想なんかではなくて、実際に存在するものだろうと。ところがです。

それこそがイメージなんですね。リアルではないのです。ここを見抜くことができるかどうかですね。

そして、この世界、この宇宙には原因と結果があって、つまりは必ずなんらかの始まりがあって、今があるという考えがあるのです。

物理学的には、ビッグバンによってこの宇宙が始まったとするわけですが、こうしたことが全てイメージなんですね。

原因があってその結果が起きるというのは、二元の世界の法則なんです。非二元では、どんな因果もなければ何があろうと、そこにはどんな説明もできないのです。

繰り返すにもほどがある

「二度あることは三度ある」という言葉があるように、似たようなことをどういうわけか繰り返すという経験は誰にでもあるはず。

それが、自分にとって都合のいいことであれば良いのですが、きっとこのことわざを作った人はあまり嬉しくないことが重なって起きた経験をしたのではないかと。

「泣きっ面に蜂」程度だとまだいいのですが、もう何度もこれでもかという具合に、嫌なことが立て続けに起きることがあります。

そんな時、それを周りの誰かのせいにしたくなるかもしれません。なぜなら、自分には思い当たることがないからです。

というよりも、明確に誰々がこんなことをしでかしたとか、何かをされてしまった等々。それがはっきりしてしまっている場合だってありますね。

そんな時、この世界には自分しかいない、というのを思い出してみると、ああ自分中心のこの世界だったなあと。

そうなると、誰かのせいにはできなくなってしまうのですね。何せ、他人として見えている存在は、自分の人生物語の中の配役でしかないからです。

さて、そうなったときにこの理不尽極まりない嫌なことのオンパレードとどう向き合ったらいいのか?

一つには、しばらく待てば必ずそこから抜け出すことになることは分かっているので、心静かにそれを待つ。

もしくは、自分の心の反応をつぶさに見て、それがバカバカしく感じられるようになればいいんだなと理解すること。

そんな大人の対応ができればいいなと何歳になっても思うものですね。

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何もすることのない毎日は楽?それとも苦痛?

近頃事務所にいる間に、その日のブログを書いてしまうということが増えてきました。その理由は、時間があるということもありますが、それをやっておくと帰宅してから全くの用なし人間になれるからです。

会社員として、めちゃくちゃ忙しく働いていた頃には、何も用がないという人生になるのは、いったいいつのことだろうと考えていたことがありました。

つまり、何もすべきことのない人生に非常に憧れていたのです。それが叶ったらどんなにいいだろうと思っていたものです。

それが、本当に現実のものになってしまった感じがあって、願いはいつか叶うものなんだなと心の中で驚いているのです。

帰宅してからやることと言ったら、食事以外では風呂に入って寝る準備をすることだけ。それ以外のどんな労働もありません。

最近では瞑想をするということもなくなり、これでもかというくらいの淡々とした日々を送るようになってしまいました。

用がないというのは、慣れるまでは自我にとっては結構不安な感じもしたりするのですが、それも慣れてしまえばなんでもなくなるのです。

何もすることがない、その瞬間を持て余したり、ただ生きているという感覚に浸ったり、そんな日々が続いています。

全く意味もなく、なんの価値もない、そんな人生を満喫するのもオツなものかもしれませんね。

非二元の世界を想像しないこと

赤ちゃんとして生まれて、数年するうちに自我が芽生えてきて、そこからは「私」とか「自分」という自覚の中で生きるようになるのです。

忘我の境地というのもたまにはあるかもしれませんが、一般的にはずっと自覚を持ったまま人生を生きるわけです。

この自覚というのを違う言葉で言えば、主観ということになると思うのです。私たちはこの「主観」だけを頼りに生きているのです。

けれども、それを忘れがちになっているのです。自分の主観とは別の事実というものがあると信じているのです。

ただ実際には、そう信じていることも主観の中でのことなのですね。自分の存在とは関わりなく、真実というのは存在するというのだって、そういう主観でしかありません。

このように考えてみると、やはり主観が100%なのです。ところが、非二元の世界というのは、この主観がない世界なのですね。

だから、どうしたって受け入れ難いし、想像することさえできないのは当然のことなのですね。結論として、非二元を想像するのをやめることです。

イメージすればそれだけ、非二元から遠ざかってしまうし、それは自我を強化してしまうことにもなるのですね。

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リアルも仮想も体験に違いはない

私たちが外側にあるモノを見るとき、そのモノ自体を見ているわけではないということに気づいているでしょうか?

私たちが見ているのは、そのモノに当たった光の反射光を見ているのです。だからこそ、目の前に何があろうとも、部屋が暗くなったら何も見えないわけです。

こうした基本的なことを普段は忘れてしまって、ただそこにモノがあるからそれが見えているんだと思ってしまっているのです。

テレビや映画の人工的な映像でも、そこにモノがあるように見えるのはこうした原理を思い出せば当たり前のことです。

ただこれまでのテクノロジーのレベルでは、リアルな世界と映像の世界の見え方があまりにも違ったので、両者の区別がついたわけです。

けれども、テクノロジーの発達によって、近い将来はリアルな世界と仮想世界の違いが分からなくなるのは目に見えています。

だとしたら、このリアルな世界が仮想現実ではないとどうして言えるのか?という考えに辿り着いてしまうのですね。

この世界が仮想的な世界であるなら、その中で暮らしている自分自身も仮想的なものであることになるはずです。

リアルな世界であれ仮想世界であれ、違いがないのは体験があるということだけかもしれませんね。

自分の感情は、必ず相手に伝わることになる

子供の頃に家族で親戚の家に遊びに行った時に、普段見かけない種類の猫ちゃんがいたのです。その時に、シャムネコという種類だと聞いたのです。

ちょっと品の良さそうな、人に媚びない感じの猫だなあと思っていたのですが、それなりに悪さをするようで。

その家の叔母さんがあっちへ行ってなさい、と言ってその猫を抱き上げた途端に、シャーっと弧を描いてオシッコをしたのです。

我々お客さんの前で、あるまじき痴態を曝け出してそれでも悪びれずにいて、なかなか手の焼ける猫ちゃんだなあと思ったのを覚えています。

もちろん誰も叱るでもなく、みんなが大笑いする中何事もなかったかのように違う部屋に連れて行かれてましたね。

猫ってちゃんとトイレで用を足すのが普通だと思っていたのですが、時と場合によってはそういうこともあるのだなと。

それで思い出したのですが、私がまだ歩けない寝たきりの赤ちゃんの時の明確な記憶が残っているのです。

それは、オムツの中に大量のウンコをして、仰向けのまま気持ちがいいのでケラケラ笑っているという記憶です。それを見つけた母親も笑っているのです。

あの時に、叱られなかったのは大きかったかもなと。ママが面倒臭そうにして、しょうがないわね的な顔をされたら、赤ちゃんと言えどもきっとどこかで傷つくのではないかと。

相手がどんな存在であれ、たとえ動物でも赤ちゃんであったとしても、自分の不満をぶしつけに表現するのは考えものかもしれませんね。

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AIによる覇権争いが激化する

これからの時代はご存じAI のテクノロジーが、世界の覇権を握るカギになるだろうと言われていますが、当然そうだろうなと。

AIの技術を使わずにいられる分野を探す方が難しいくらいなので、ほぼあらゆるところにAIが入り込んでくるのは確実です。

アメリカのトランプ大統領がスターゲート計画というAIの革新的なプロジェクトに多額の予算をつけましたね。

日本の孫正義氏も70兆円規模の投資を提示しました。そのくらい、AIへの期待が大きいし、失敗は許されないのです。

ところが、最近中国の若き天才がOpenAI社の1/10以下の予算で同等の性能を発揮するAIを発表してしまったのです。DeepSeek と言います。

これはとんでもないことが起きてしまいました。米中の力関係が大きく変わってしまう可能性が出てきたと言えるかなと。

しかもアメリカが輸出規制している半導体を使わずに、その中古品だけでそのパフォーマンスを出したことが大きいのです。

何か不正があったのではないかと、米国側は現在必死になって調査しているらしいですが、何も問題がなかったということになったら大変です。

どうなるのか、固唾を飲んで見守りたいと思いますね。

他人のことを考えている時間を見直す

以前、自我の「3層構造」というお話をしたことがありました。動画では次を参考にしてみてください。

一番上の層は、「幸せ」を求めており、二番目の層は「安心」を求めているのだと。そして、最下層は「存続」を求めているということです。

そのどれもが本心なのですが、それぞれに全く異なる目標を持っているわけです。そして、最下層の部分に関しては、自覚することさえ難しいので、一般的には知られていない部分なのです。

ところが、ここが一番エネルギッシュに暗躍していると言ってもいいのです。自我は自己の存続を求めて、次のような状況を生み出します。

困った事態、不安、心配、苦悩、戦い、こうしたものを絶えず探してきて、それを解決しようと頑張るのです。

そうすることで、「自分がいる」という感覚をはっきりさせることができるのです。それによって、自分の存在を明確化するのです。

その中でも一番人気があるのは、自分のことではなく他人のことに首を突っ込んで、ああでもない、こうでもないとやるのです。

これによって、見たくもない自分の内側に気付かずに生きていけるので、一石二鳥なのですね。そして、本人はこのことに気づかないでいられるのです。

これは誰もが大なり小なりやってしまっていることですから、悪いことではありません。ただ、貴重な人生の時間を無駄にしてしまっている可能性に気付かないのも事実。

他人のことを考えている時間があれば、こうしたことに気づいて、少しでも自分自身に目を向けられるといいのかなと思います。

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昨年の大赤字のせいで確定申告が楽になった

今年も面倒な確定申告の時期を迎えました。友人が経費の細かなまとめをやってくれたので、私はかなり楽ができました。

それでも毎年ちょっと息を止めて頑張るという時間を費やしていたのですが、今年はこれまでにないくらい爆速で必要な書類を作成することができました。

あれ、凄く楽だったなあ、なんでだろう?と思って、気づいたのですが、昨年の6月あたりからセッション費用を自由意思に委ねることにしたのですね。

そのせいで、昨年の年収が劇的に減ってしまったのですが、そのおかげで年間の赤字が100万円くらいになってしまったのです。

ということで、どうにもこうにも税金を払うことにはならないと明確になったので、気を揉む必要がなくなったのですね。

人間はゲンキンなもので、そうなると瑣末な数字のちょっとした間違いがあったところで、どうでもいいかなと。

だから、ものすごく気が楽になって、あっという間に書類の作成を終えてしまったのです。とはいえ、この大赤字はなんとかしなければ。

皆さんにはご迷惑をおかけすることになりますが、近いうちに以前の料金体系に戻す必要がありそうです。

その時にはまた前もってお伝えすることになると思います。

間違ったものを買わないように、気をつけましょう!

普通のスーパーマーケットよりも、さらに安くものを売っている大型のスーパーがあるのです。事務所から歩いて行けるので、たまに行くのです。

その安売りスーパーの別の店舗が、事務所と自宅のまあまあ間くらいに新たにオープンしたので、クルマで行ってみたのです。

すると、新しいからというのもあるのですが、店内が見事に整頓されていて、通路が広々としていて気持ちがいいのです。

事務所近くの店舗は、いつも割と混雑している上に、通路が狭くて誰かが棚のものを見ているだけで、通れなくなるのです。

新店舗では、そういうことが全くないので、とても気持ちよくスムーズに店内を周れるのが嬉しいのですが、一つ心配なことが。

だいたい人気のスーパーなのでもっと混雑していてもいいはずなのに、店内はガラガラな感じがするのです。

駐車場も空いていて、これ大丈夫かな?と他人事なのに心配になってしまうのです。で、本題はここからなんですが。

ボディシャンプーとシャンプーのお得な詰め替え用を見つけて、ヨシと思って買って帰って家で確認したところ、シャンプーの代わりにコンディショナーを買ってきてしまったのです。

コンディショナーがどんなものかよく分からないし、きっと自分は使うことはないことだけは明らか。

まあいいかとも思ったのですが、これが2個分の詰め替え用ということで450円近くするものなので、どうしようかなと。

すぐに行けば、取り替えてくれるだろうけど、もう部屋着に着替えてしまったし、バーボンを飲もうと画策していたので、また出かけるエネルギーがない。

というわけで、無駄なものを買ってしまって、忘れるためにお酒の力を借りようという馬鹿馬鹿しいお話しでした。

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