動画の内容に矛盾を感じたら…

一年ちょっと前からYouTube動画の配信を始めたのですが、時間も労力も最低限で続けている割には、少しずつ観ていただけるようになってきたのかなと。

それにつれて、YouTubeを観てルシッドのことを知ってセッションに来ました、というクライアントさんがちらほら現れ始めました。

動画の内容に関する質問もいただけるようになって、これは非常に助かっていますね。何よりも動画の話題にさせていただけるので。

こうしたことは思ってもみなかったことで、思い切ってやり始めて本当によかったなと思っています。

ただこれはどうなのかなと思うことが起きていて、それはブログの内容にも同様のことが言えることなのですが…。

実は、その時その時で私自身自分に正直にお伝えしているつもりなのですが、時を経て互いに矛盾する内容のことを話していたりすることに気づいたのです。

特に、非二元のことを話すようになってからは、それまでの二元の世界での話とは根本的に違ってしまったのです。

これは仕方のないことではあるのですが、だからと言ってそれ以前の動画が間違っているということでもないのです。

私の動画をご覧になって、何か矛盾を感じたり、惑わされてしまうようなことがあれば、遠慮なくご指摘して頂きたいと思うのです。

その際はできる限り、わかりやすく説明させてもらいたいと思っています。

「惨めさ」と向き合うことの難しさ

心の癒しにおいて中心となるのは、なんと言っても過去に溜め込んできた感情を解放するということです。

特に癒しの初期の段階では、感情と向き合うことがとても大切なことなのです。もちろんその程度は人それぞれですが。

時として、感情のロックが強過ぎて感情と向き合うことが難しい場合には、生き方や考え方を見直すなどのセッションを繰り返すこともあります。

怒りや悲しみなどの感情が出づらい理由の一つとして、その背後には二度と思い出したくない思いがある可能性があげられます。

例えば、幼い頃にどうしようもない状況の中で、死を覚悟せざるを得ないようなことがあると、当然のことそこに光を当てることは難しくなるのです。

感情を味わおうとすれば、そうした思いを芋蔓式に思い出してしまうことになるため、絶対にその感情の蓋を開けようとはしないのです。

死にたい衝動を起こす原動力は、シンプルに表現すれば「惨めさ」です。自分が惨めだという思いが強ければ、生きていくのが難しいと感じても不思議ではありません。

そうしたことも考慮しつつ、焦らず個人個人の状況に応じてじっくりと癒しを進めていくことがとても大切なのですね。

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生き方を見直すことの大切さ

心の癒しに携わっていて日々思うのは、継続的に必要なことは自分の生き方を変えていけるように努めるということです。

この生き方こそが、自分自身を表現していることだと思えたとしても、そこはできる限り潔く変えていくことが大切です。

なぜなら、人生の何かがうまく行っていないと感じるなら、その原因はたった一つ。それはその人の考え方、生き方こそ問題の根っこにあるものだからです。

それを悪く思う必要もないし、否定することでもないのです。なぜなら、その生き方は小さい頃に生きていくために自ら編み出した作戦だからです。

それがあったからこそ何とか無事に大人へと成長できたのですから。けれども、もうそれは不要になってしまっているのです。

不要どころか、大人になって子供の頃の生き方を継続していれば、必ずなんらかの問題が起きてきてしまうわけです。

例えば、我慢強いことがいいことだと思っているなら、それを改める必要があります。なぜなら、我慢を継続すれば人は心を病むことになるからです。

つまり、我慢弱くなることです。我慢弱ければ、我慢をすることが難しくなって、結果として深い傷を負わずに済むことになるのです。

このように、これまで自分が正しいと思い込んできたことを見直してみることは、癒しを進める上でとても大切なことなのですね。

質問への答えは絶対あるという間違い

私はずっと幼い頃から、質問があればそれに対する正解が必ずあると思っていましたね。誰も答えられないとしても。

つまり、正しい答えはどこかにあるのだけれど、それを誰も見つけられないということはあるかもしれないということです。

人間が思考で質問したことなので、それは思考によって答えられるはずだろうという感覚があったわけです。

誰も答えられなければ、全知全能の神という存在があれば間違いなく答えられると。けれども、そうではないということに気づきましたね。

非二元の中においては、どんな質問であれそこにはどんな意味もない、というよりも意味がないということすらないのだろうなと。

非二元が好きなのは、善悪もないし、正しさもないし、意味もないし、価値もないというところ。なぜなら、そうしたものは全て物語の中のものだから。

質問も物語の中にしかありません。非二元では物語もないのですけどね。 

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子供の自分と大人の自分

心の癒しというのは、ただ漫然と自分の傷ついた心を癒すということだけでなく、二つのことを明確にしておく必要があるのです。

それは、インナーチャイルドを癒していくということと、大人の自分を育てるということ。そしてこの二つは同時に進行していくのです。

なぜなら、人は誰でもインナーチャイルドと大人とが混ぜ合わさって人生を生きているからです。まずそのことに気づくことですね。

大人の自分だけで生きていると思っている人は、インナーチャイルドの存在に気づかなければなりません。

インナーチャイルドに意識を向けて、その存在を受け止めることを通して大人の自分が成長することができるのです。

なぜなら、インナーチャイルドを見るためにはそれとの距離が必要であり、子供の自分とは異なる大人の自分の存在が明確になるからです。

それと同時に、大人の自分にケアされることを継続されたインナーチャイルドは、不満な気持ちから満たされた安心感を得られるようになるのです。

そうやって、双方が程よい距離感を持ったまま、同時に癒しと成長を現実のものにしていくことができるわけですね。

仮想現実と非二元の違い

最も原始的な仮想現実というと、写真(画像)ということになるのかなと。そこに動きが加わると、テレビや映画(動画)になるわけです。

そして、最近ではほとんど実写と区別がつかないくらいのゲームもあるし、AIが作った画像や動画も出始めています。

よりダイレクトに没入感を感じられるように、ゴーグルを着用してみたり、さらに言えば視覚や聴覚だけでなく、触覚、味覚、嗅覚も感じられるようになってきました。

こうした進化の先には、もうこの現実を体験しているのと違いが分からないような仮想現実を体験できる日も近いのではないかと。

けれども、こうした仮想現実の世界では、どこまで進化したところでそれを体験する主体というものがあります。

それが自分ですね。自分だけはどこまで行ったところで、消えるわけにはいかないのです。そしてそれこそが、非二元との違いなのかなと。

非二元は、体験する主体とその対象のどちらもがないのです。そして体験だけが残るのです。ここが分かりにくいところなのでしょうね。

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物語として人生を達観する

自分は比較的気分屋な方だなと若い頃からずっと思ってきました。どこまで表に出せるかどうかは別として。

そしてその傾向は未だに続いているのですが、それでもほんの少しずつではあっても改善しつつあるような気もします。

以前だったら、この状態ではもっと気分を害していたはずだけど、それほど気にしなくなったなということが増えてきたかなと。

そして、それに比例して外へ出すのも少なくなってきた感じがします。これは、単に年齢を重ねてきたからなのか、それとも別の要因があるのか。

それは定かではありませんが、もしかしたら人生の物語性を忘れずにいられるようになってきたからかもしれないと。

そう、物語というのはあくまでも作り物という意味です。だから、リアルなものではないということ。

瞬間瞬間ごとにそのことを忘れずにいられたら理想的ですが、そうもいかないのが人間です。それでも、事柄のすぐ後に気づけるようになればいいなと。

非二元のようにすべてが幻想というところまで行かずとも、物語として人生を達観することができれば、深い深刻さや落ち込みに至る前に正気に戻ることもできるのだろうなと思います。

シンプルな人生を心がける

セラピストの仕事を始めてからずっと言い続けていることがあるのですが、それはシンプルに生きるということです。

具体的には、「言いたいことを言う、言いたくないことは言わない。」「行きたいところに行き、行きたくないところには行かない。」

「やりたいことをやり、やりたくないことはやらない。」「一緒にいたい人といて、一緒にいたくない人とはいない。」

「会いたい人に会い、会いたくない人には会わない。」これが、私が言うところのシンプルな人生なのです。

まさか、そんな都合のいいように生きていけるはずがないじゃないか、という声が聞こえそうですが、それが可能なのです。

ただし、それなりの痛みは伴いますよ。つまり、私たちは自己犠牲と一過性の安心を天秤にかけているのです。

自己犠牲と安心をトレードしつつ生活をしているということです。だから、本当はシンプルな人生を複雑怪奇にしてしまうのです。

様々な体験をするためには、人生が複雑な方が好都合ということもあるのかもしれませんが、私はもういらないなと。

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お金が無くなる前に肉体を脱ぎ捨てる時が来そう

昨年の12月に年齢が大台に乗ったこともあって、だいぶ先が見えてきたなあと思うことが増えてきたんですね。

だからなのか、おすすめの動画に死後の世界や輪廻に関するものがちらほら挙がってくるようになったのです。

あまりに非二元だけではつまらないので、そういうことは脇に置いた上で、どれどれと観てみたらなかなか興味深い内容のものがいくつかありました。

あくまでも物語という前提ではあるのですが、魂ありきで考えていくとこの世界が体験をするためにしつらえた幻想だと分かるのです。

体験することと、それによる魂の学び(ここはあまり興味のないところではあるのですが)が目的なんだとか。

そう考えてみると、この世界が自らの魂の計画通りの設定になっているんだろうなと。そしてそれも残り少なくなってきているなと。

きっと魂がもうこれ以上の学びがないと分かった時点で、肉体人格が終わりを告げることになるのだろうと。

そうしたら、幻想とはいえ重苦しかった肉体を脱ぎ捨てて、いわゆる幽体としての魂に戻って、遊び放題が待っているのかなと。

そんな感じでいいように捉えるようにしたいなと思っています。こうした作り話と非二元が結びつくと、これ不思議と違和感があまりないのですね。

膿を出すチャンス到来

人間以外の動物はみんな嘘をつくことができないということを以前ブログで書いたことがあります。

そして人間はいい嘘も悪い嘘も含めて、間違いなく嘘をつく動物なのですね。そして一度悪い嘘をついてしまうと、それを誤魔化すためにさらに嘘をつくことになるのです。

それは自分を守るための嘘を突き通すことで、結果としてそうなってしまうということなのですが、そうした嘘の重ね塗りはいずれバレる運命にあるのです。

最近のフジテレビの様子を見ていると、絵に描いたように嘘が次から次へと塗り重ねられて、もう収拾がつかない状況まで来てしまっているかなと。

そして、ここからが今日の本題なのですが、膿を出す時期がやってきているのはフジテレビだけではないのかもしれないと感じます。

メディアにしても、芸能界にしても、そして政治の世界にしても、これまでの膿を出していくことになるのではないかと。

いろいろな意味で痛みを伴う時代なのかもしれませんが、清々しい人生を生きるためには通る道なのだろうなと思うのですね。

個人個人が抱えている膿を出していくのが心の癒しと表現してもいいとするなら、今年は誰にとっても癒しを前へ進めるチャンスなのではないかなと。

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