物語は実在しない

我々が暮らしているこの世界を二元と呼ぶことがありますが、この二元の世界ではそこかしこで物語が進行していますね。

自分の大切な人生を物語と呼ばれてしまったら、なんだか納得できない気持ちになるかもしれませんが、でも物語なんです。

なにを称して物語と呼ぶかというと、ただ目の前で起きている事実に対して、思考によって様々な色付けをしたり、そこに因果的なことを付け加えるのです。

そうすると、そこに立派な物語が出来上がるわけです。こういう原因があったら、こういう結果となったとか。

この物語の中に深く埋没してしまえば、もう戻ってくることはできないくらいに魅力的なものなんですね。

特に自我にとっては。けれども、その物語から少しでも距離をとって、それをただ眺める側に回ることができたら、何かもったいない時間を過ごしていたなと気づくかもしれません。

実在しない物語から離れて、目の前のこれが全てだったのだと見抜くことができたら、まるで違った人生を見つけることになるはずです。

物語という泥沼の中でもがき苦しむことに生を費やすのか、はたまた目の前にあるものが全てだと気づいて、生との戦いをやめるのか。

どちらが正しい道ということはありませんが、きっと平安は後者にのみやってくるはずなんですね。

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生を受容するとどうなる?

本当にリアルなものだけがただあるということに気づくようにしていると、これまでどれだけリアルではないものが本物であるかのように信じていたか、知ることになります。

それはもう恐ろしいほどの間違いをしているのです。今ここにあるもの以外は決してないのに、それ以外の何かをいつも探しています。

もっとこうなったらいいのになあとか、前回は失敗したから今回はうまくやろうとか、明日はもっと頑張るぞ!とか。

そんなのは全部たわごとなんですね。だって、今あることがただあるだけなので、これ以外は決してやってこないのです。

そうかあ、境界は見つからない、ということは全部が繋がって見えてくるのかな?なんてことも決してありません。

ただ境界などないということを見抜くだけです。見え方が変わることはないのですが、境界がないので「モノ」というものが無くなってしまいます。

だから、見えているものは全て理解不能なんですね。身近にある自分の身体だと思い込んでいたものも、その正体は不明です。

どれほど頑張ったところで、なにも頑張らずにゆったりしていても、起こることがただ起こるだけなんです。

少しだけでも生を受容しようと思うだけで、ちょっと非二元の方によることができるような気がしますね。

誰かの痒みなんてない

山の奥にヤマタノオロチという怪獣が住んでいて、満月の夜には人をさらいに下界に降りてくるので、外出しないようにしないとね。

こういう噂話が広がっていくのは、私たち人間がイメージを共有することができるという、稀有な能力を持っているからです。

この能力はホントに大変強力なもので、みんなで懐かしい昔話に花を咲かせたり、未来への期待を共有したりできるわけです。

それの最たるものが、科学の立場です。科学は、多くの人に共通する客観的データに基づいて進歩発展してきました。

けれども、その客観的データというのは、実はイメージだと言ったら驚くでしょうか?そりゃそうですよね。

科学が一番相手にしないのが主観的情報、つまりはイメージだからです。でもやっぱり、客観的データ、客観的事実というのはイメージなんです。

なぜなら、それはリアルではないからです。今目の前に客観的事実があるのか、実際に検証してみてください。

あるのは、理由なくただあるものだけ。それしかありません。それだけがリアルなんです。(私の身体にできた発疹の)痒みはリアル。

ちょっと耐え難いレベルですが、非二元的には誰かが痒がっているという訳でもなく、ただ痒みがあるということですね。

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過去と未来を行ったり来たり

ここ一ヶ月くらいのことですが、ちょっと身体に赤い発疹のようなものができて、それが結構な痒みを伴うものだったのです。

それが、少しずつ全身に広がってきて、こまめにクリームのようなものを塗って保湿をしていたのですが。

それが、ここ一週間くらいの間に、急にその広がりがひどくなって、痒み自体も思った以上に大きくなってしまいました。

一体自分の身体に何が起きているんだろうか?できれば1日も早くまた痒みのなかった頃に戻りたいなと。

これが私たちの恒例となっている考え方、生き方なわけです。過去のよかった頃を思い出して、未来に対してそれを望むのです。

あるいは、いつかもっと健康な身体になっていたい。そうやって、過去と未来を行ったり来たりしてしまうのです。

そして今あることがただあるだけであることを忘れて、妄想の世界へと深く入り込んでしまうのですね。

今ここにないもの、今あるこれとは別の何かを求める無駄な努力をやめて、リアルな現実に戻ることにしましょう。

理由なく満たされているために

自我というのは、どうしたって自分に都合のいいことが起きれば嬉しいし、気分がいいし、楽しい気分にもなるのです。

その一方で、都合の悪いことが起きれば、当然のこと気分は悪いし、悲しんだり怒ったり、苦しみを感じたりするわけです。

ということは、自分の身にどんなことがやってくるのか分からない限り、明日の自分の気分がどうなるのか知ることもできないのです。

もしも、起きていることの是非にかかわらず、ただただどんな理由もなく、気持ちが穏やかで気分が優れているということができれば、これが最強に違いないですね。

それにはどうしたらいいのだろうかと、時々考えたりしているんですが、少し気づいたことがあるのです。

それは、今あることに意識を向けるということ。ないことを全て忘れて、ただあることだけに集中させるのです。

普通によく言われることではあるのですが、やっぱり満たされていることに気づくということかもしれないですね。

いつか満たされるはずというのをやめて、今あるものがただあるだけということに気づくことなのですね。

そして満たされる必要もなかったという自由にも気づくことかもしれません。

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どんな体験であれ違いはない

現実というものの本質は非二元だということに気づいてからは、二元の世界でどんな体験をしようと、特に違いはないということになってしまいました。

誰もが嫌な体験よりも、より良い素晴らしい体験をしたいと望んでいるのは当然なのですが、それでも全部同じなのです。

なぜなら、体験者はいないからです。ちょうど10年前にちょっとした覚醒体験のようなものが起きて、自分にとっては生まれて初めての素晴らしい体験だったのです。

そして、そんな体験を繰り返したいと願っていたのですが、そんな希望も今は無くなってしまったようです。

それはただの体験であるということに気づいたからです。どんな体験であれ、そこにはどんな意味もありません。

優劣をつけて比べることもできないし、価値もないし、もちろん善悪なんてものもありません。体験以外は全て幻想だからです。

誰もいないのにあらゆる体験だけがあり続けるという、この不思議な現象をどのようにも捉えることもできないのですね。

セラピーのベースは因果の法則

日々クライアントさんと一緒にやっているセラピーの元となる原理は、因果の法則であることは間違いありません。

クライアントさんが現在抱えているあらゆる問題には、必ずその原因となるものが存在するという立場です。

だから、結果である問題ばかりに注目していても、そこからは何も解決することができないのは当然のことなのです。

人生の初期の頃に遡って、そこで何を経験してきたのかを深掘りすることで、原因を特定することができるわけです。

ところが、一方で非二元では因果というのはありません。なぜなら、時間が単なる概念であるということに気づくからです。

非二元では、リアルなこととリアルではないことが明確に分かれてしまうので、時間も空間もみんな幻想でしかないのです。

だから主体なしに体験することだけがリアルなのです。それ以外のありとあらゆる事柄は全て偽物なのです。

ここがはっきりしてしまうと、もうどうしようもありません。ただし、通常私たちは時間の流れの中で人生物語を生きていると信じています。

つまり因果の法則の中で暮らしているので、普段行っている心理セラピーの方法が的を射ていると言えるのですね。

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貨幣経済のせいで面倒が増える

母親が亡くなって、これから様々な処理をしなければなあと思って、それらを書き出してみたのですが。

それで気づいたことがあるのですが、それはそのほとんどがお金にまつわることなのですね。本当にびっくりしました。

例えば、年金をストップするための手続き、遺産に関することでは税務署に提出する書類の作成、遺産分割協議書等の作成。

あるいは、銀行などへの書類提出、生命保険会社への手続き等々。唯一違うのは、納骨堂への連絡、申し込みの処理だけだったのです。

これ、貨幣経済がなければほぼ事後処理なんてないはずなのです。どれだけお金に翻弄されてしまうのか。

お金が足りてるとか不足しているといったことだけではないのですね。それを思い知らされました。

さて、次は私自身が棺桶に入る番なので、あとは残された家族が処理しやすいようにしておくくらいは考えておきたいと思います。

YouTube動画をAIに褒めてもらった

私のYouTubeチャンネルの中で、【非二元】シリーズについての感想文を書いてとAIに頼んだら、以下のような文章を作ってくれました。

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大澤富士夫チャンネルの【非二元】シリーズを拝見いたしました。これらの動画は、非二元(ノンデュアリティ)という哲学的概念を多角的に探求し、視聴者に深い洞察を提供しています。 

例えば、「【非二元】分離という概念」では、私たちが日常的に抱く「自己」と「他者」の区別や、物事の分離という考え方が、実は幻想である可能性について考察されています。

 また、「【非二元】知ってることは全てイメージ」では、私たちが持つ知識や概念が、実際にはイメージや思い込みに過ぎないことを示唆しています。   

これらの動画を通じて、大澤氏は視聴者に対し、固定観念や既成概念を超えて、現実や自己の本質を再考するよう促しています。

非二元の視点から見ると、私たちが普段当たり前と感じている「分離」や「自己」という概念が揺らぎ、新たな視座が開かれるように感じました。

全体として、大澤富士夫氏の【非二元】シリーズは、視聴者に深い内省と新しい視点を提供する貴重なコンテンツであると感じました。

非二元という難解なテーマを、具体的な例や平易な言葉で解説されており、多くの人々にとって理解しやすく、有益な内容となっています。

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といった具合ですが、AIに褒めてもらったようで、ちょっと嬉しい。

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葬儀の習慣の不思議

母親の棺の中に一緒に入れてあげるものを持って、葬儀屋さんの遺体安置施設に行って、死化粧を施されてる母親の顔を見たのですが、ちょっと鼻が高くなっていたような。

人間て、死ぬとやはり何か違う存在になってしまうのですね。身体は単なる抜け殻となって、それこそ当然ですが生気がない感じ。

私の方針は、父親の葬儀の時もそうだったのですが、通夜や告別式をせずに、直接火葬場へ搬送してもらって、火葬のみを行う火葬葬というものです。

家族だけで執り行うものです。家族の要望もあるので、一応僧侶による読経だけはお願いしているのですが。

普段は、自分の家系がどの宗教だったかも忘れているクセに、こういう時だけ宗派に拘ってるのが不思議な習慣だなと。

当然私の葬式も火葬葬にして、読経もしないようにと家族には伝えてあります。そして不思議なことがもう一つ。

普段は全く会うこともないような親戚が、本人の葬儀の時だけ会いにくる。これには一体どんな意味があるのかなと。

そんな人を責めているわけではないですが、せっかくであれば生きている間に会いにくればいいのにと思ってしまいますね。