非二元を役立たせたい

ここのところ、ブログやYouTubeで非二元のお話をするようになってしまっています。その理由は、自分自身がそれを楽しいと感じるからですね。

自分の口から出てくる言葉を、ダイレクトに自分の耳で聴きながら、ああそうなんだあといった感じで面白がっているのです。

しかも、そうしたことを繰り返していくうちに、少しずつですが非二元が口先だけでなく奥深くに浸透してきている感じもするのです。

それだけでもとても嬉しいのですが、気がつくとセラピストの目線でその内容を捉えている自分もいるのですね。

というのも、非二元の話の内容がそのままより良い生き方を目指す上で、とても参考になると気づいたからです。

一番大きいのは、今あるこれが全てであり、これ以外はない!ということです。このことが全面的に気づけば、期待がなくなるのです。

これよりももっとマシな何かがあるはず。この考えが、生への抵抗となってそれこそが苦悩を作り出すものなのだと。

期待と現実との落差が苦しみの元だと気づけば、今あるこれだけがリアルで、そこにゆったりとい続けるだけでいいのだと。

今ないものはない、あるものだけがあるのだと。このシンプルさの中に委ねていられるなら、きっと生の味わいは激変するでしょうね。

非二元では、5W1Hの質問には答えられない

非二元(ノンデュアリティ)では「5W1H(Who, What, When, Where, Why, How)」の質問に答えられないというのがあります。

それは、非二元の視点が「分離した個人」や「時間的・空間的な現実」を前提にしていないからです。

以下に詳しく解説します。

■ 非二元の基本的な立場

非二元では、「私」と「世界」や「他者」など、あらゆるものの分離は幻想とされます。すべては一つの「現れ(現象)」であり、それに名前や意味づけをして「分けている」のは思考であると。つまり、

• 時間(過去・未来)

• 空間(ここ・あそこ)

• 自我(私・あなた)

これらはすべて、概念的な構築物でしかないということです。

■ なぜ5W1Hに答えられないのか?

1. Who(誰が)

→ 非二元には「個人の実在」がないため、「誰が〜した?」という問い自体が成立しません。

 例:「誰が悟ったのか?」→「悟った“誰か”などいない」

2. What(何を)

→ 「何か」という区別が前提にあるため。非二元ではあらゆる現れが“ただの現れ”でしかなく、それを「何」と区別するのは思考による命名。

 例:「これは何?」→「これは“これ”としてただあるだけ」

3. When(いつ)

→ 時間は思考によって作られた概念であり、非二元では“今”という現れしかない。過去や未来は思考の中の出来事。

 例:「いつ起きたのか?」→「起きた“時”などない」

4. Where(どこで)

→ 空間も同様に概念。「ここ」と「あそこ」の区別は、思考によって成り立っている。

 例:「どこで起きているのか?」→「“どこ”という分離がない」

5. Why(なぜ)

→ 理由・原因の問いは、時間と因果関係があることが前提。でも非二元では、現れは「理由なしに」ただ現れているとされる。

 例:「なぜこれが起きているのか?」→「なぜ、という問いが不要」

6. How(どうやって)

→ 方法やプロセスも、「ある地点から別の地点へ行く」という時間的・空間的前提がある。でも非二元では、「どこかへ行く」ということがそもそも幻想。

 例:「どうすれば悟れる?」→「“悟る”べき誰かも、プロセスも存在しない」

■ まとめ

非二元は、5W1Hの前提そのものを否定しているのです。それゆえ、どんな質問にも「明確な答え」は返ってこないように感じることが多いです。

それは「答えを濁している」のではなく、問いそのものが幻想に基づいているからなんですね。

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ゴロゴロ昼寝をしていて気づいちゃった

現実というものの本当の姿に気づいてしまってから思うのは、なぜ自分のような何も修行らしいことをやったことのないモノがそんな大切なことに気づけたのかということです。

これはどう考えても理不尽過ぎると感じてしまうのです。昔の禅僧の過酷過ぎる苦行などをイメージしたら、自分がやってきた瞑想なんてレジャーのようなもの。

ブッダが何年もの間、血の滲むような難行苦行を経て、それでも覚醒できなくて完全に諦め切ったところで悟りを開いたという話。

あるいは、何か物凄い苦悩のなかで何年も苦しみ続けてきたような人が、ある日ふと覚醒するということがあるわけです。

いずれにしても、なるほどと思わせるような境遇を通り抜けて、その先にようやく真理を見出すということがあるのだと。

それなのに、自分はなにかズルをして容易には知り得ない宝物を見出してしまったと。テストでカンニングして高得点を取ったような感じ。

コネを使って良い大学に裏口入学して高学歴を手に入れたヤツのようにも思えるのです。あまりいい例えではないですが。

だから自我は消えてもいないし、人格が向上したことも一切ないし。笑えるくらいごく普通の人間を今も変わらずにやっているのです。

とはいえ、本当のことは見えてしまったので、あとはこれまでの生き方や考えるクセがゆっくり落ちていけばいいのかなと。

そのためには、10年くらいの猶予を自分に与えてあげようと、これもまた自分に相当甘いなあと。

自分の意識なんてない


自分の本質は純粋な意識だとずっと思っていて、それを身をもって実証するために、瞑想を繰り返してきたのでした。

過去形で言っているのは、半年前にはそれが途絶えてしまったからです。なぜなら、その探究そのものが間違っていたと気づいたからです。

つまり、そもそも自分もなかったし、自分の本質なんてものもなかったと気づいたからです。そうなった時に、意識もないんだと。

これには、ちょっとしたショックを受けた記憶がありますね。だって、意識こそが本質だと思い続けていたのですから。

けれども、冷静にみたときにただ意識だけがあると気づいたのですね。それを意識と呼ぶかどうかは別として。

個人として存在しているという感覚とは別に、大きさも位置もないあの感覚を全体性と呼んでいたのですが、それこそがいつも今ここにあるコレのことなんだなと。

ただ気づいている感じ、あるいは単に気づき。何かが何かに気づいているということではないのです。

コレは理解できない。コレは時間とも空間とも関係ないし、誰とも関係ない。ただいつもここにあるコレですね。

結果として、個人としての意識というものがあるわけではないことが、とても明確になったと同時に、初めて自我を退治するきっかけができたのかも知れません。

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自分が伝えたいことだけを伝えられる歓び

半年くらい前のことですが、「今後の動画の内容について」と言ったタイトルの動画をあげたことがありました。

あの時は、それまでずっと継続していた真実への探求が、突如として終わりを告げてしまったことで、自分自身も今後どうなるのか分からない状態でしたね。

それからというもの、あれほど毎日の日課として続けていた瞑想もやめてしまいましたし、敬愛していたoshoの本も読まなくなりました。

それでも、oshoが非二元系の話をしている書物はないかなと探していたのですが、結局見つからずじまいで。

そのあとは、非二元の動画を立て続けに上げるようになって、自分でもややびっくりしているのです。

そして最近では、それまで瞑想に割いていた時間を使って、非二元のことをお伝えするためにはどのようにしたら最も効果的なのかと言ったことを考えるようになりました。

そのことが実は自分自身にとっても、とても意味があることだと気づいたのです。伝えようとする言葉は、自分にも入ってくるのですね。

動画に寄せられたコメントや質問に答えているうちに、自分自身の中で非二元が定着して行ってるのを感じるのです。

今後も自分に正直に、自分が伝えたいということのみをお伝えして行けたらいいなと。それが自分にとっての満たされた人生なんだろうなと。

静寂が音として現れる

その昔、「波動の法則」という本を読んで、いたく感動したことがありました。この世の全ては波動なんだと。

すごくシンプルだし、とても分かりやすかったので、その後の人生で全ては波動なんだろうなというのが根っこにあったのです。

そして、最近では非二元の方に意識が向いてしまっていたので、波動というのも忘れていたのですが、また久しぶりに思い出したのです。

というのも、非二元のことを説明するのに、この二元の世界にいるつもりになっている私たちに共通の言葉で表現する必要があって。

そこで波動のことを持ち出すと、意外と分かりやすいこともあるのかなと思ったのです。何もないというのは、「無」として表現できますね。

その無が振動することで、音として現れてみたり、色や形として現れてみたりするということです。

もう少し丁寧に言うと、静寂(無音)が波動となって、それが聴覚として音となって現れるということ。

あるいは、暗闇(無光)が波動となって、それが視覚として色や形となって現れるということですね。

非二元では、「現れていること」が全てなんですね。他には何もありません。

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料金体系を元に戻します

貨幣経済へのささやかな抵抗として、昨年6月から始めたセッション費用の自由化ですが、そろそろ丸一年を迎えようとしています。

その間、流石に普段はお会いすることもないような方々にも、セッションを受けていただくことができました。

学生の方々、休職中、あるいは離職中で経済的に苦しい方々、精神的なハンデがあって費用の負担が難しい方々など。

また、多くの方々に支援金をプレゼントしていただき、なんとか一年を無事過ごすことができたと思っています。

私なりの成果を感じることはできましたが、一方では想定していたほどの効果が出なかったという思いもあります。

ということで、この取り組みは2025年5月31日を持って終了とさせていただきます。6月1日からは、従来通りの料金体系に戻ります。

多くの皆様の温かいご協力に感謝しております。ありがとうございました。

現れていることが現れているだけ

全てが「現れ」だということに気づくと、なんだか楽になるような気がするのです。どんな努力も必要ないということが分かるからなのか。

その「現れ」の中には、見えているもの、形、色、音、感情、思い、感覚、イメージなど全てが含まれるのです。

それを避けることも、それに抵抗することも全く不可能なわけです。思考を止めようとしてみたり、今ここにいようと努めてみたり。

そうすることも含めて、ただの現れに過ぎないのですね。だから何をしようと、何をしなかろうと、その全てが単に現れていること。

自分の中で瞑想が特別な意味を持つということもなくなってしまいました。この現れをどのようにもコントロールすることはできないので。

どんな概念も、どんな努力も関係なく、ただこれ以上ないくらいに明確であるもの、それが現れであり、概念も努力もその現れの中にあるのだと。

このことに日頃から気づいてさえいれば、何はなくとも普段のこれが完璧なんだなと感じるのですね。

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「見かけ」が全て

非二元のことを、なんとかもっと分かりやすく説明する方法がないものかと思って、考えたのが次のようなものです。

ふつう私たちは、「見かけ」というのを、本質じゃないものとか、表面的なものとして扱う習慣があるのですね。

でも、非二元では全く逆で、「見かけ(現れ)こそがすべて」なんです。何かの奥に真実があるんじゃなくて、この瞬間に現れている音、色、感情、思考、それがすべて。

何かの背後に「意味」や「存在」があるわけじゃなくて、ただこの“現れ”が、完全で、何かのためではないということ。

誰かが見てるわけじゃない。ただ「見かけ」が、現れては消えていく。それ以外には何もないし、誰もいないということ。

「見かけ」とは:

今ここに現れているすべての体験(視覚、音、感情、思考など)

それらはリアルであり、完全であり、何かの背後にある“真実”を必要としない

だから、非二元では「見かけに騙されるな」という常識とは逆で、むしろ「見かけを疑う思考こそが幻想」と見るんですね。

こういった視点は、普通の思考習慣と正反対なので、最初は混乱しがちですが、その気づきの先にある自由さや解放感を少しでも感じられたらと思うのです。