現実というものの本当の姿に気づいてしまってから思うのは、なぜ自分のような何も修行らしいことをやったことのないモノがそんな大切なことに気づけたのかということです。
これはどう考えても理不尽過ぎると感じてしまうのです。昔の禅僧の過酷過ぎる苦行などをイメージしたら、自分がやってきた瞑想なんてレジャーのようなもの。
ブッダが何年もの間、血の滲むような難行苦行を経て、それでも覚醒できなくて完全に諦め切ったところで悟りを開いたという話。
あるいは、何か物凄い苦悩のなかで何年も苦しみ続けてきたような人が、ある日ふと覚醒するということがあるわけです。
いずれにしても、なるほどと思わせるような境遇を通り抜けて、その先にようやく真理を見出すということがあるのだと。
それなのに、自分はなにかズルをして容易には知り得ない宝物を見出してしまったと。テストでカンニングして高得点を取ったような感じ。
コネを使って良い大学に裏口入学して高学歴を手に入れたヤツのようにも思えるのです。あまりいい例えではないですが。
だから自我は消えてもいないし、人格が向上したことも一切ないし。笑えるくらいごく普通の人間を今も変わらずにやっているのです。
とはいえ、本当のことは見えてしまったので、あとはこれまでの生き方や考えるクセがゆっくり落ちていけばいいのかなと。
そのためには、10年くらいの猶予を自分に与えてあげようと、これもまた自分に相当甘いなあと。