見る角度なんてない

小学生の時に、大嫌いな写生の授業があって、みんながてんでんバラバラに学校のあちこちに散らばって、思い思いの絵を描き始めたのです。

自分は数人の仲間と一緒に、大きな枯れたような木をど真ん中に持ってくる位置で画角を決めて、見たままの風景を描いたのです。

後日、図工の先生が全員の絵を一枚一枚見ながら批評をするのですが、自分の絵に対してこの大木を中心に持ってきた意味が分からないと。

つまり、絵の上手い下手ではなくて、風景の切り取り方を否定してきたわけです。そんなこと言われたって、こっちゃあ素人なんだし。

こんな昔の事をしっかり覚えているということは、その否定のされ方に自分のセンスを完全ダメ出しされた感じがして悔しかったのでしょうね。

そして今思うに、私たちは色々な角度で目の前の景色を見ることができると思い込んでいるのですが、そうではないなと。

今この瞬間に見えているものがすべてなんだと。ところが、私たちは経験上、見る位置や角度を変えれば、見えるものの見え方は変わると信じています。

たとえば、テレビを観ている時には、テレビの画面つまり前面が見えているのですが、後ろに回ればテレビの背面が見えると信じています。

これが違うという事です。なぜならテレビという物体には実体がないので、それは想定しているだけだという事です。

この辺のことが分かってくると、より空間やモノの実体というのはないということが明確になってくるはずですね。 

そもそも、コレは何なんだ?

何歳の頃から始まったことなのか、まったく定かではないのですが、記憶の限りではかなり遠い過去だと思うのですが。

ふとした瞬間に、本当になんの脈絡もなく両手を広げて、「そもそも、コレってなんなんだ!」とやるのです。

誰かに訴えているという気持ちがあるような、ないような。記憶では、誰もいないところで一人こっそりとやっていたかも。

生きていると、色々わからないことや変なことがあったりするものですが、そんなことよりもという気持ちで、そもそもって言っていたような。

非二元の話をするときの、「ただコレだけがある」というときのコレと似た感じがするのは確かですね。

けれども、一方でこの自分ありきで言っていたと思うので、そこは中途半端だったんだろうなと思うのです。

つまり、自分という存在はあるままに、周囲だけを見てこれは一体何?とやっていたということですね。

それでも、いったい全体コレは何なんだ?という疑問というか、訳がわからないという気持ちは今に通じるものがありましたね。

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昨日も今日も明日もない

このブログを書いている今この瞬間、ここにどんな体験があるのかをちょっとお話ししてみようと思います。

リアルなのは、ただ静かな部屋のソファに腰掛けてipadに向かってキーを打っているという体験が起きています。

これだけが本物であって、それ以外のことはすべて妄想です。この妄想にはどんなことがあるかというと…。

頭の中で、帰宅途中の車中で聴いていた曲が流れているという体験。この曲が流れているというのはリアル。

けれども、帰りのクルマのなかで聴いていた曲というのが妄想ですね。もちろん、その妄想をしているというのはリアル。

普段まったく買わない安価な白ワインを飲みながら、これはコスパが最高と思って喜んでいるのですが…。

喜んでいるのはリアル。けれども、ワインにまつわることは妄想です。その妄想をしているという体験はリアルですが。

こんなことをやりながら、気分がいいなあと感じているのはリアル。そしてコレしかないんだという感覚もリアル。

この瞬間、宇宙は消えてすべてはコレだけだという感覚がやってくるのですね。昨日も今日も明日もありません。  

自我は変化がお好き

オフの日に半日くらい寝てばかりいて、その後にビールを飲むのと、出かけて暑い思いをして汗をかいて、帰宅して飲むビールとでは味が全く違いますね。

ビールを美味しく飲むために、帰宅するまで極力水分を摂らないようにするというのもやってたことがあったと思います。

間違いなく健康にはよくないですけど。子供の頃、まだ家にエアコンがなくて夏の暑い日には窓を開けて網戸にしておくわけです。

その状態で、畳で横になっているときに、フワッとした何とも心地の良いそよ風が入ってくることがあって、あれはホントに気持ちいいもんですね。

そう言ったちょっとした気持ちよさというのは、きっと変化があるから感じられるものなんだろうなと。

帰宅して玄関を開けた時に、家の中がヒヤッとしてくれるととても気持ちがいいのです。これも変化を喜んでいるのです。

ところが、部屋に入ってずっと一定の温度で涼しい状態であると、確かにありがたいとは思うものの、ああ気持ちいい!とはなりません。

自我はいつも変化を求めているというのが分かりますね。安定志向のはずなのに、じゃあずっと安定していたらいいのかというと、そうでもないということ。

だから自我が強くいる限りは、ブッダの言う中道という理想的な生き方はできないということになりますね。

もしもあなたの人生がジェットコースターのような感じがするのであれば、それはあなたの自我がそれを求めているということです。

もしも穏やかな毎日を望んでいるのでしたら、自我の影響を小さくしてあげる必要があるということですね。

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非二元を考察するヒント

最近は非二元のことを多く発信しているのですが、二元と非二元をもっと平易な言葉でシンプルに対比できないかと考えてみました。

それで思いついたのですが、一般的な我々の世界観である二元性の世界というのは、モノがあるからそれを認識できると考えるのです。

つまり、モノありきで考えるのです。そんなの当たり前だろ!と思うかもしれないですが、それがそうでもないのです。

非二元では、何よりもまずは認識が先であると考えるのです。人から聞いた知識を使わずに注意深くみると、こちらの方が道理に適っていることに気づきます。

まずは認識が起きるのですが、ここはどんな先入観も使わずにいられるのです。だから、認識はリアルなのですね。

そのあとは、認識する主体と認識される客体があると想像するわけです。そしてそれを想像していることを忘れてしまうのです。

そして、あくまでも主体と客体がまずあって、その後に認識が起こるという具合にすり替えて考えるようになってしまったのです。

一度このように自分を騙してしまえば、これは気付かぬうちに強力な信念となって、疑うことがなくなるのです。

だから、認識だけがあるという非二元のことを言われれば、瞬間的に拒絶反応が起こってしまうというわけです。

どうでしょう?これが、非二元を考察するためのヒントになったらいいなと思います。

まるで紙芝居の一枚の絵のよう

昔「紙芝居」というのがあったというのをご存知でしょうか?実は、私自身かなり子供の頃ですが、家の近くに紙芝居のおじさんがたまに来てくれてたのを覚えています。

近所の友達と一緒に、おじさんの巧みな声色を使った語り口を聴いていたのですね。おじさんの肉声を聴くのが楽しいというのか。

紙芝居というのは、一枚一枚がただの静止画な訳ですから、今のアニメと比べたらどれだけ原始的かということですね。

それでも、かなりのリアリティを感じながらもその物語の中に入り込むことができていたのだろうなと。

あの紙芝居の一枚の絵を大きくして、自分の周りにグルッと見えるようにはめ込んだのが、今私が見ている部屋の様子だと。

そんな風に見えるんですよね。というのも、部屋の中の景色で動いているものが何もないので、本当に2次元の絵だなと。

自分の周りにという表現をしたのですが、実はその絵だけがあるように見えているだけで、それを見ている自分はいない。

それに3次元の空間もここには見当たらないんですよね。その絵の中に自分の身体と思しきものも含まれているのがミソですね。

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運転中の態度の変化

ほとんど毎日のように、クルマを運転しているのですが、いつもいつも交通ルールがメチャクチャなクルマや自転車などに翻弄される日々なのです。

なぜゆえにあんなふうな運転の仕方ができるんだろうか?とか、あれで死なないで無事でいられることが不思議だなとか。

酷さの順番で言うと、自転車、歩行者、クルマの順かなと。なぜイラッとしてしまうのかを分析すると、ある期待値があるからだと気付きます。

自分の期待値、つまりは想定される相手の動きというものがあって、それとのギャップを感じてしまうと、怒りと驚きと落胆とが入り混じるのです。

なので、できる限りは期待をせずにいられるようにしようと思うのですが、やはりそこはある程度のルールが必要なので、期待値ゼロは無理だなと。

そんなことを考えながら、ああでもないこうでもないをやっているうちに、ここ最近になって少しばかり自分の反応に変化が。

それはもしかすると、連日のように非二元の話をしていることの影響があるのかもしれないなと思うのです。

具体的には、所詮は誰もいないし実際には何も起きているわけではないと。もちろん、イラッとしてしまう自分さえいないのだし。

起きているように見えることがあるだけで、そんな紙芝居に一喜一憂するほどのこともないと気づいたのかもしれません。

この先の変化がどうなるのかも注目です。ただし間違っても、自分に何かを強いることだけはしないでおこうと思いますね。

無意識はリアルではない

何度もくどいようですが、非二元においてリアルなのは体験だけであって、それが現実だということです。

そしてその体験というのは、別の言葉で表現すれば「気づいている」ということなんだと。これ、新しい発見かもしれません。

何が起きているように見えていたとしても、実際には何も起きているわけではなく、それを体験として、気づいていることだけがリアルなんですね。

究極の言い方をしてしまうと、「気付き」だけがリアルなんだと。これ以外はもう本当に何にもないんです。

かつて、意識だけが実在するみたいなことを言っていたことがあったのですが、どうやらまたそこへ戻ってきた感じがしています。

ただ当時と違うのは、言っていることがもっと明確になったということです。本当に何もないということがはっきりした。

だとしたら、どんなことが起こっているように見えたとしても、ただそれに気づいてさえいればいいということ。

やっぱり、常に意識的であるということが重要であるということ。なぜなら、無意識はリアルではないからですね。

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体験は物理活動でも精神活動でもない

体験だけがある、体験がリアルな現実であり、現実とは体験のことだと言い続けてきました。これが分かりやすいのかどうかは定かではないですが。

ブッダは「行為はあるけど、行為者はいない」と言ったといわれているのですが、実際には行為もありません。あるのは、体験だけ。

「今この道を歩いている」のが現実で、「昨日もこの道を歩いていた」と思い出しているのがイメージだと捉えがちです。

けれども、実際にはどちらも同じようにイメージなのです。「今この道を歩いているという体験」が現実だし、「昨日もこの道を歩いていたと思い出している体験」も現実。

さらに言えば、物質的なものの実体がないのは明確なのですが、精神活動はどうなのかということがあります。

思考とか、感情とか、そういうものに私たち人間は支配されているように思われるのですが、本当のところはどうでしょう?

実は考えるということも、考えるという体験だけがリアルであって、思考そのものは幻想でしかないのです。

もちろん感情も同じこと。今私は猛烈に怒っているという場合、その激怒しているという体験だけが現実なのです。

怒りという感情は実体がないのです。ということで、すべての精神活動でさえ現実ではないということになりますね。

体験だけがリアル

非二元の気づきがやってくる以前は、スピリチュアルな情報を視聴するのが好きで、よく関連する動画を見たりしていました。

その中でも特別注視していたのがバシャールです。バシャールとは、どこぞの宇宙人たちが特定の人にチャネリングすることで、さまざまな貴重な情報を教えてくれたりするのです。

今はほとんど興味を持てなくなってしまったのですが、YouTubeのお気に入りの再生リストの中に残っている動画があったのです。

短い動画だったので、懐かしさでそれを見てみたら、何とリアルなものとはあなたの体験なんだと。それが現実なんだと明確に言っているのです。

「あなたの」というところだけちょっと気になるのですが、要するに体験が現実であり、現実とは体験なのだと。

体験する「舞台セット」上の小道具たちではないのだと。これって、私が非二元のお話をするようになって、よく使っていた表現だなと。

例えば、あなたが遊園地に行ってさまざまなアトラクションを楽しんでいるなら、その体験そのものだけがリアルであり、それが現実。

けれども、実際の遊園地やそこでの乗り物やアトラクションなどは非現実だということです。実体がないからですね。

人間というのは、同じ言葉を聞いたとしてもその時の自分の状態によって受け取り方が全く違ってしまうんだなということを改めて思い知りましたね。

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