個人の意識なんて決してあり得ない

ずっと長い間、私たちの本質は純粋な意識だということをお伝えしてきましたし、それは間違いではないと今でも思っています。

ただ非二元の気づきがやってきてからは、意識という言葉を使うことにちょっとした違和感を感じるようになってしまいました。

というのも、意識という言葉が非常に手垢のついた言葉になってしまっているので、多くの人がその人なりの連想をしてしまうという事実があるからです。

だからなるべく誤解してほしくないという思いから、この言葉を使わないようになったのですが、やはり歴史上の文献を紐解くと、意識という言葉を沢山使っているわけで。

今の私の理解としては、意識というのは少なくとも個人の意識というのはあり得ないという感覚になっていますね。

個人というのはあくまでも自我のレベルでしかないのです。だから、私は純粋な意識だということがもう言えないのです。

代わりに、意識というのは体験であり、見かけであり、現れであり、気付きそのものだということ。

そして、それだけがリアルであってイメージである時間や空間とは関係しないということです。ここは言葉を使っての説明は、ちょっと厄介ですね。