「意味」なんてどこにもない

最近よく言うようになったのですが、この世界というのは伝達ゲームなんだと。情報を共有することが大切だとされているのです。

その伝達にツールとして使われるのが言葉なんですね。一般的に、言葉によって私たちは自分の意思を伝えるのだと思っています。

確かにそうなのですが、もっと深いところのことを言うと、言葉というのは「意味」を伝達するものなのです。

言葉には意味を伝える能力があるということです。その意味を送受信することで意味を共有しているわけです。

ところが、非二元ではその意味というものがまったくないのです。どこにも意味を見出すことができないのです。

なぜなら、意味というのは作り物だからです。意味はリアルではないということ。私たち人間だけが扱う仮想的なもの。

そうした仮想的なものほど、私たちは大切にしているのです。意味とか価値というのは、その筆頭かもしれません。

だからこそ、意味を見つけられない非二元なんて、まったくもって想像もできないということになるのでしょうね。

意味がないからこそ、常に不変のコレがあるということです。変化しているように見えるだけで、起きているように見えることにはまったく意味がないということ。

これは時間が幻想であることにも繋がることですね。

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マイクの使い方って難しい

必要最小限度の機材だけでYouTubeの動画配信を始めたのが、一昨年の暮れのことでした。その時に、どうしても必要ということで購入したのが外付けのマイクだけ。

何を買えばいいのか皆目分からなかったので、お隣のヨドバシカメラで安価に買えるものを選んだのです。

それ以外は、カメラはもちろん iphone を使い、編集ソフトも iphone 上で使えるアプリを使うというお手軽さ。

初期投資をサボったので、録音した音の音量が足りない感じがしたのですね。それでしばらくして、もう少し高価なマイクを購入したのです。

その2代目のマイクをずっと使い続けてきたのですが、音量を下げたくないという思いから口からの距離をできる限り近づけるようにしていたのです。

そのせいで、私の喋り方によって「ボフ」っていう風音が入ってしまうことがよくあったのですね。

気にはなっていたものの、まあ仕方ないかと思って放置しておいたのですが、先日そのことをコメントで指摘されたのです。

それでようやく重い腰を上げて、風防つきのワイアレスマイクを新たに購入したのですが、これが音量は足りないし、音質もあまりよくない。

もともと私の発する声がくぐもっているような感じなので、それが顕著になってしまったのです。

困ったなあと思っていたら、2代目のマイクに付属の風防があったことに気づいて、早速試してみたら、それが良い!

なんだ最初からこれを使えば全く問題なかったのにと。己のアホさ加減に笑うしかありません。

おまけに、いつも使っている安価な編集用ソフト上で、音量の調節ができることにも気づき、問題が解決したのでした。

とはいえ、編集ソフトくらいはちゃんとしたものを使える環境を整えたほうがいいのかなと。そういうケチケチ根性では、いつまで経っても超マイナーなチャンネルのままかもなと。

ただ内容が非二元の話ばかりに終始してしまっているので、機材にお金をかけたところでどうにもならないというのもありますかね。

快も不快もそのままにしておく

身体の痒みが増してきて、なんとかならないかなあという思いが強くなってきたのですが、これこそが生への抵抗なんだろうなと。

痒いところに勝手に手がいって思わず掻いてしまうというのは、動物が持っている本能的な反応に過ぎないと思うのです。

それは問題ないのですが、人間だけが持っている自我による抵抗、痒みと戦ってそれを亡き者にしようとする防衛が問題なのです。

この痒みは個人的なもので、自分だけが個人攻撃されているという思い、被害者の意識が苦悩を生み出しているのではないかと。

非二元の方に意識を向ければ、あるのはこの直接の経験という単純さであって、コレしかないという気づきがやってくるのです。

個人という存在などないはずなのに、自我はなんとか踏ん張って生との戦いを継続しようとしているのでしょうね。

気づいたのは、この痒みが個人的なものではなかったと。不快だからそれを取り払おうとする努力を止めること。

その状態に一瞬でもなると、不思議なことに快を求める強さも小さくなっていくということです。どちらも消えていった時、そこには永遠の平安があることに気づくことになるのでしょうね。

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真実に気づいても苦しみはなくならない

せっかくの非二元の気づきを、普段の生活に生かすことができてないなあというのを常々思うのですね。

それはどういうことかというと、非二元ではリアルなのは今この瞬間にあるこの現実だけだと明確になっているのです。

コレと比べる何物もないし、コレとは異なる別の現実というものもない。このことが本当に腑に落ちるなら、一切の期待が消えてしまうはずなのです。

ところがどっこい、いつでもコレとは違うもっと自分にとって都合のいい現実を探し求めているのですね。

これは自我の自分を守りたいという強い思いからやってくるのだろうなと。私の言葉で言えば、自我の自己防衛なのです。

それがなくならない限りは、どこまで行っても未来に対する希望や期待もなくなりはしないのです。

そうなると、生(現実)に対して常に抵抗していることになり、それが私たちが感じる苦しみを生み出すわけですね。

真実を垣間見たとしても、苦しみや不満がなくならないのは、こうした理由があったということですね。

私などいた試しはない

そこにリンゴがあるように見えるということは、そこにリンゴがあるように見えるということだけだったと気づいてから、もう9ヶ月が経ちました。

これが非二元のことを語るようになった最初のきっかけだったのですが、それがきっかけとなって少しずつですが、自分の中で非二元が定着してきた感じはしています。

全ては見かけ、表れでしかない、つまりはモノには実体がないということ。ここからあらゆる嘘が自分の中で暴かれていったのです。

実体がないのですから、自分の身体というものの実体も当然ないということになり、この世は一体どんなとこ?となったわけです。

そして、時間や空間が単なる概念であるという驚愕の事実にも気づいてしまい、もう全てが幻想だったのだと。つまりは世界の消失です。

そこまで来ているのに、最後まで根強く残り続けているのが「私」という自我。私がいるように感じるのです。

私がいるように感じるのは、私がいるように感じることがあるだけで、もちろん私という実体など存在しません。

元々、私という曖昧な存在なのであって、リンゴの実体がないということに先んじて実体などあろうはずもないことは明白なのですが。

それでも最後まで居残ろうとする、この驚異的なしぶとさを笑うしかありません。ただ、私はいないと見抜かれた可哀想な奴なんですけどね。

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非二元>物理学

久しぶりに興味深い動画を見たのですが、それはある日本人の天才理論物理学者が物理学について色々な話をしてくれるものでした。

知っていることもあるし、知らなかった内容も含まれていたのですが、この人、なんて人柄の良い人なんだろうと。

まったく関係ないことまで考えたりして、それでもこれまでの自分が概ね思っていたような内容の話だったのです。

ところが、こうした物理学者の言葉を聞きながら、この理路整然とした説明を聞くにつけ、最近自分が話している非二元の内容の曖昧なことよと。

その天才も、言葉では到底きちんと説明することはできないのだけれど、その代わりに数学があるからという言い方をしていました。

確かに言葉の適応範囲はすごく狭いですが、それに比べて数学という言語は比べ物にならないくらいに幅広い現象を説明できるのですね。

残念なことに、非二元にはそんな強い味方となるものもないし、言葉でも説明できないし、どうしようもないということです。

ただはっきりわかるのは、どんな素晴らしい内容の話であっても、私の中では非二元が最強なんですね。

あらゆるものを凌駕してしまうんです。あの天才物理学者さんに非二元のお話をしたら、どんなお顔で聞いてくれるのかなと思って、想像したらちょっと面白くなったというお話でした。

曖昧さが入り込む余地がない

目に見えないものはまったく信じないと豪語する人たちがいて、私は幼い頃から本当にびっくりしていました。

何でそんなアホなことが言えるんだろうと。心だって見えないし、エネルギーだって、電波だって見えないものは山ほどあるのに。

それなのに、見えないものは存在しないとか、信用できないと言い切ってしまう人のことを頭が悪いなと思っていたわけです。

ところがです。非二元をじっくり見つめている間に、気がつくと見えないものが「ある」というのはイメージだとなったのです。

それは全ては、現れだということに気づいたからです。だから現れてもいない何かがあるということにはならないのだと。

面白いものですね。非二元では一切の想定というものを排除します。だから、そこには「◯◯のはず」というのがないのです。

現れしかない、それしかないのですから心とか、エネルギーとか電波なんてものは消えていってしまうのです。

もう少し正確に言うと、知覚できないものはないということ。音や香りなどは現れとしてあるけれど、空間や時間もないということに。

そんなふうにして、非二元はとてもシンプルだし明確なのです。少しの曖昧さもそこには入り込む余地がないですね。

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個人的な意識はない

私たちの本質は意識だという時、この気づいている意識というものを個人的な自分の固有の意識だと思っている人がほとんどではないかと。

だって他人の意識のことについては皆目わからないし、この意識は自分のこの身体と結びついている感じがするし。

どう考えたって自分の意識としか思えないと。これがごく普通にある意識に対する認識なんだろうなと思うのです。

けれども、もっともっと前提知識や概念を脇に置いて正直に見てみればわかるのですが、意識に大きさや境界があるでしょうか?

他人には他人の独自の意識があるという一般的な考えが本当にホンモノなのかどうか。こうしたことを見つめてみることです。

あるがままを見ていると、意識という言葉で表現する必要すらないくらいに、それが現れそのものでもあるという感じがしてきます。

「誰かの」ということが消えて、ただここにあるものであり、コレと切り離すことができないと分かります。

それはここで起こりつつあることにただ気づいているというより、それそのものとしてあるということですね。

できるだけ正直になるための実践

非二元の話をするときに、イメージを現実であると思い込んでしまっていることに気づくことがとても大切だということをお伝えしています。

私たちにとって一番身近なのは、やっぱり自分自身だと思うので、自分に対するあらゆるイメージを脇に置くという練習が効果的なのかなと。

そこで徹底的に自分にまつわる情報、データ、記憶などをすべて脇に置いて自分を見つめてみるということを実践してみるのです。

もしも目を閉じた方がいいなら目を閉じてやっていきます。まずやることは、今この瞬間に自分が出現したかのようにするのです。

ここにあるものだけを相手にするのです。自分にまつわるあらゆる属性を使わないようにするのです。

「自分の◯◯」をすべて却下していくと、後に残るものはどんなものでしょうか?自分は人間だという証拠はどこかにあるでしょうか?

自分は個人だという印は?自分は生きているという証は?自分の大きさは?形は?どこにいる?

これらの質問には一切答えられなくなるはずなのです。もしも答えられるとしたら、まだ情報を利用してしまっていることに気づくことです。

私たちは、本当のところ自分が何なのかを全く知らないということに気づくことになるのです。これがリアルなのですね。

こうした実践を地道に繰り返していくことで、自然と普段絶え間なく使い続けている古くからある自己イメージが、崩壊していくことになるのですね。

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リアルなものは説明できない

非二元に気づくためには、リアルなものとそうでないもの、つまりイメージとの違いに気づく必要があるということ。

ではなぜ私たちが単なるイメージを現実だと勘違いしてしまうのでしょうか?それは、他者との共有能力があるからなのです。

そもそもイメージする能力は、人間だけに備わった非常に優れたものなのです。他の動物には、昨日のことを思い出したり、未来を想像することはできないのです。

そしてそのイメージを他人に伝えるために言葉を発明したわけです。そうすることで、イメージを他者と共有することが可能となったのです。

自分一人でイメージしていることは、あくまでも想像していることとして取り扱うことにとどまるのですが。

他者と共有することができた時には、イメージは単なるイメージではなくなり、真実味が出てきてしまうのです。

そうして、より多くの人々との共有を通して、完全に現実と思い込むようになってしまったのですね。

つまり、私たちが日頃言葉で説明しているあらゆる事柄は、どれもこれもがイメージでしかないということ。

逆に言えば、リアルなモノは説明できないということになるのです。だから、賢者と言われる人々は真実を教えて欲しいと言われた時に、黙って坐れ!のような態度を取るのです。

真実は決して言葉で説明できないことを見抜いているからですね。非二元の話をする時も、コレしかないのような曖昧な表現を使うのも同じ理由です。

それがわかると、我々は虚構の中で生きていると気づきます。生きているというのも虚構でしかありませんけれど…。