ネタなしで撮影を始めた結果出てきたこと

事務所にいて時間がある時には、なるべく動画を撮影するようにしています。もちろん、それなりにネタがあればですが。

ところが、今日は全く話したいネタが見たらない状態にも関わらず、ちょっとしたチャレンジ精神で撮影を始めてみたのです。

そうすると、普段やっぱり気になっている事柄が出てくるのですね。それは、他人からしたらそんなこと?って思われてしまうようなレベルだろうなと。

けれども、自分ではすごく気持ちのいい状態を妨害されてしまう嫌な出来事があるのです。それは、運転中の他人の行動。

どうやればあんな運転ができるのだろうとか、なぜあんな自転車の乗り方をして怪我せずにいられるんだろう等々。

一つひとつの出来事はほんの些細なことだと重々分かってはいるのですが、他にトピック的なことがない毎日なので、それを利用しているのかもしれません。

自分自身と比較して他人の言動を評価するという、それをずっとやめられずにいるということですね。

期待値と現実との落差で惨めな気持ちになり、それを感じなくさせるための怒りが出るのだと。そういうカラクリは熟知しているのですけどね。

非二元でいくらコレだけしかないと言っていても、その期待値を未来に向けて生活しているということなんです。

根っ子にあるのは、やはり自分という存在が力をなくさずに生き残っている証拠ですね。コレの中には自分など存在していないのは明らかなんですけどね。

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小学生でも分かる非二元

昨日のブログでも書いたように、非二元のお話というのはどのように感じたとしても、決して何かの教えのようなものではないということ。

だから、言ってみれば小学生でも分かるようなことしか言ってないのです。知的な解釈など全く使わないのです。

ちょっと本気で、小学生を相手に話をするというつもりで、言葉を選びながら試してみたいなと思ったりしています。

きっと、概念とか観念、信念、この辺りの言葉を使わずにいれば、きっと伝えることができるのだろうと。

代わりに、強い思い込みが邪魔をして、今あるものを今ある通りに見ることを難しくしていると言えばいいのかなと。

ただ単に見るということがどれほど難しいことになってしまっているのか、ここに気づくことができればいいわけです。

種々の思い込みを使わないようにして、感覚的な知覚だけにとどめていられるようにするということに尽きますね。

例えば、ものすごく素晴らしい絶景を前にすると、人は言葉を失うというような状態になったりしますね。

あれです。言葉を失うというのは、思考が動かなくなったということ。どんな思い込みも飛び越えて、ただ見たものに対する衝撃の中にいるということ。

あれを意図的に起こすことができれば、もう非二元はすぐそこにありますね。 

どんな前提知識もいらない

最近、世の中で名のある宗教や哲学などに、非二元と近いものがあるのではないかと思って、表層ではあるのですが調べてみたりしたのです。

ほんの少し調べてみただけですが、それでもこの世界は幻想だと言ったような教えというものは、普通にあるということが分かりました。

ところが、そう言った宗教や哲学(学問)というのは、難しそうな分厚い書物がたくさんあって、それらを理解しなければならないわけです。

そうなると、一般人がおいそれとその中に入って勉強するというわけにもいかないのです。それなりの決意が必要です。

一方の非二元に関しては、そうした書物も何もないし、逆にあらゆる知識を排除することが必要なことなのです。

そういう意味では、とても稀有なモノなのかもしれないですね。読み物を読んで一つ一つ学んでいくというのが苦手な私のような者には適しているなと。

ダグラス・ハーディングの実験にも似たような感覚があります。とにかく正直に実践することだけを促されるわけですから。

誰かが書いた教義のようなものを読み解くには、理解力が必要となるだろうし、勉強が苦手な人には向かないのです。

というわけで、非二元によって驚愕の事実を垣間見ることができるのに、どんな前提知識もいらないのですから、そこは素晴らしいなと。

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選挙カーはマナー違反

また人迷惑な選挙の街宣車が横行する時期がやってきましたね。選挙には毎回、期日前投票に行くことに決めているのです。

だから、しっかり選挙には参加しているのですが、どうしてもあの選挙カーだけは好きになれないのです。

特に、自分の名前だけを連呼するような愚行をいつまで続けるつもりなのだろうかと。ただただやかましいだけ。

事務所の前も大通りがあるので、そこを選挙カーが通ると催眠療法の誘導を邪魔されるし、YouTubeの動画撮影も邪魔されます。

ひどいのになると、静かな住宅地の狭い路地の方まで入ってきて、赤ちゃんの昼寝を邪魔するわけです。

もしも自分が立候補したとしたら、あれをやっぱりやることになるのかなあと思った時に、流石にそれは無理だなと。

国会議員の選挙だろうと、地方の選挙だろうと、立候補者がネットで情報を発信するだけにして、街でがなることを辞める時代に早くなればいいなと。

余談ですが、「私を男にしてください!」だとか、「どうか、私を助けてください!」のようなことを訴える立候補者がたまにいますが、全く意味不明ですね。

唯識論のこと

以前にも確か一度ブログに書いたことがあったと思うのですが、仏教哲学の思想の中に唯識論というのがあります。

到底誰かに説明できるような知識は持ち合わせていないので、内容については深く触れることはできませんが、その唯識のなかに「阿頼耶識」というのがあるのです。

この阿頼耶識という言葉を聴いた時に、不思議に初めて聴いた感じがまったくしなくて、変だなあと思ったことがあったのです。

言葉の既視感(デジャヴ)なんて実際あるのかなあと。学生の時か何かにどこかで聞き齧ったことがあったのかも知れません。

今回少し調べてみたら、唯識論というのは非二元と近いようなことを言っていて、この世は幻想だと。

世界のあらゆる現象は、究極的には意識の表れに過ぎないのだと。非二元と異なるのは、阿頼耶識にある情報が瞬間瞬間に表出するのだと。

そしてそこから得たフィードバックが阿頼耶識に返されて、瞬間ごとに阿頼耶識の内容がアップデートされるらしいです。

非二元はとことん正直な態度をとるので、そういった阿頼耶識のような普通に認識することのできないものはイメージとして却下するのです。

そして、表れについてはまったく理解不能としておくわけです。そこを何とか解決しようとして、阿頼耶識なるものを考え出した人々がいたということかも知れませんね。

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ただ視覚が起こっているだけ!!

私たちがモノを見る時に使う視覚ですが、それがどのように起きているのかを見てみると、大抵以下のようなことになると思います。

その大前提は、空間の中にモノがあるという世界観です。この世界観を否定する人はほぼいないはずですね。

そしてその空間の中に存在する自分という主体が、空間的に隔たった向こう側に存在する対象物を視覚を用いて捉えるということ。

これが見る、見えるということを意味するわけです。けれども、この大前提となる空間と物質という世界観を一旦脇に置くのです。

そしてどんな前提もなしに見えるということを探究してみると、視覚だけが勝手に起きているということに気付きます。

これにはどんな努力もいらないし、ただそうなっているだけなので、当たり前過ぎて気付けないのかもしれません。

ただ見えている、あるいはただそういった現れだけがある、あるいはそういう気づきだけがあるとも言えます。

だから、甚だ非常識に感じるかもしれませんが、視覚には主体も対象物も必要ないということに気づけます。

あるいは、視覚には空間さえもいらないのです。これは衝撃的な事実ですね。これを見抜けば非二元が身近になるはずです。

鏡の向こうの自分はこの自分ではない

最近年齢も年齢になってきたこともあるのかも知れませんが、鏡を見てこれが自分だとは到底思いえないというのがやってくるようになったのです。

特に時間のある時に、鏡に向かって至近距離から自分の顔を見つめると、どう考えても普段感じている自分自身の感覚とは違うなと。

ああ、これではっきりしましたね。普段これが自分だと思っている肉体というのは自分では決してなかったということ。

自分自身は、誰でもないという感覚が大きくなってきていて、特定の誰かではないということが分かってきているのですね。

それなのに、鏡を覗いてみると何やら疲れた若いふりをした老人の顔が見て取れるわけです。これは自分ではないとハッキリ分かる。

それでこの年齢になってようやく、鏡に写っている風貌をした人物は自分ではないということに気付けるようになるのです。

自分とは、形も大きさも何もなくて、ただその一部では個人としての自己だと思い込んでいるわけですが、それは作り物だなあと。

形も大きさもないということは、この空間のどこをどのように占めているということも言えなくなるわけです。

つまりは自分という個別の自己などどこにもいなかったんだなあとなるのです。この感覚が以前よりも増してきているなと。

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痛みや痒みの正体は?

その昔、父親が生きている頃に言っていた言葉があるのですが、それがとても面白いのでちょっと紹介します。

彼曰く、「蚊っていうのはバカだな〜、刺しても痒くならなければこれほどムキになって殺されることもないのに」と。

ああ確かになと思ったものです。顔のあたりをブンブン飛ばれるとうるさいので、嫌ではあるけれど、何よりも問題なのは刺された後のあの痒み。

だから、刺されてもただ皮膚が赤くなるだけであれば、それほど嫌われることもなかったはずなのです。

今身体のあちこちに湿疹のようなものができていて、痒くて仕方ないのですが、ちょうど蚊に刺されたときのような痒さなのです。

それで、ス〜としてその痒さを感じられなくする塗り薬のようなものを患部に塗布して、その痒さをしのいだりしています。

その時に不思議だなと思うのですが、痒みとスーッとする感覚を混ぜただけで、痒みを感じなくなるわけです。

その両方を感じても良さそうなものなのに。意外と脳というのはおバカなのかもしれませんね。そんな単純なことに騙されてしまうのですから。

とはいえ、スーッとする効果は大して長続きしないので、しばらくするとまた痒みがやってきます。そこで今度は、痒みの正体とは一体何なのだろうと考えるわけです。

痛みにしろ、痒みにしろ、その正体を突き止めた人は未だに誰もいません。私たちが日頃感じている感覚というのは、科学では脳が作っていることになっています。

けれども、それは本当のことでしょうか?私の考えでは、感覚をどこまで追及したところで、その正体を暴くことは不可能なのではないかと。

このことからも、非二元が浮かび上がってくるのですね。

一日一回リセットする

日々の生活のリズムというのは、一日活躍してそれなりの労働によって疲労した心身を、睡眠によって回復させるという繰り返しです。

もしも睡眠を取らなければ、数日で我々は病的な状態になってしまいます。ただ睡眠だけで、すべての疲労や負荷が100%回復できればいいのですが。

それができなければ、瞑想などを通してより深い回復の手続きが必要となるわけです。瞑想をすることで、身体のリラックスと同時に頭の中を空っぽにすることができます。

ここからが今日の本題なのですが、最近はあまり瞑想をすることもなくなった代わりに、非二元の感覚を利用するようになりました。

夜寝る前や夜一人で静かな時間を過ごしている時に、非二元に意識を向けるようにしていると、あっという間に頭をリセットできるのです。

瞑想と違うのは、瞑想は身体が先行してリラックスすることで、結果として頭も空っぽになるのですが、一方で非二元は身体は使わずに直接頭をからっぽにできるのです。

その時間だけは、無に帰るようにできるし、真実に触れることもできるのです。瞑想よりもよりお手軽に短時間でできるのがメリットかもしれません。

それに加えて、これしかないということの気づきによって、明日を心配したり不安に思うようなことが激減します。

何もないし誰もいないし、何も起きていない。ただこれだけがあることのシンプルさ、比べるもののないことの気楽さがやってくるということですね。

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「小さいおじさん」の正体!?

「小さいおじさん」って聴いたことありますか?一種の都市伝説的な話なのかどうかは分かりませんが。

私も以前小さなおじさんに会いたいなと思っていたことがあるのですが、これまで一度も遭遇したことはありません。

皆さんの中で小さいおじさんを見たことがあるという人がいたら、是非教えていただけたら嬉しいです。

人によっては、小さいおじさんというのは妖精なんだという人もいるようですが、それとは正反対のことをいう人もいます。

いわゆる餓鬼界に落ちた人の姿なんだと。餓鬼界というのは、あれが欲しいこれが欲しいという欲望に飲み込まれて生きていた人だそうで。

そういう人が餓鬼界にはまり込んでしまった姿の一つが小さなおじさんなんだと。なかなか面白い話ですよね。

人間の欲望というのは、本当に尽きることがなくて、何かを手に入れたと思えば、すぐに次のものが欲しくなる。

このループは果てることがありません。どこかで、もう気づけばいいようなものですが、それがなかなか難しいのですね。

そんなことを聞いてからは、別に小さなおじさんに会いたいとは思わなくなりました。この会いたいという願いも一種の欲望かも知れないですね。