どんな境界もなかった

直接の経験に留まる検証・実験を繰り返して調べてみると、そこにはどんな境界も見つけることはできないと分かるのです。

境界がないということから、どんなことが明らかになるかという点についても調べてみると驚くべきことが分かるのです。

それは一つは、境界がないと「モノ」が存在できないと分かります。モノというのは、境界で囲まれた独自の存在だからです。

そしてモノがなければ、構造とか関係性といったものも消えてしまいます。例えば、「因果」というのは、AによってBが起きるということ。

AがBを「包含」するとか、AがBを「所有」する等々。こうした関係性が全てなくなります。あるいは、内側と外側というのも単なる概念だったと気づいてしまうわけです。

またもう一つの境界がないことによって明確になることは、有限というのは幻想だったということです。

無限しかないということ。境界があることによって、有限性というのが生まれるのであって、自然にはそれがない。

だからこそ、経験できない経験はないということが分かります。言い方を変えると、コレ以外の経験はないということです。

あるいは、視覚に特化してみると、見えるものは全て見えているということだし、見えてないものはないということですね。

極端な苦しみは非二元に目覚めるチャンスかも

クライアントさんとのセッションでこれまでのお話を聞くにつけ、思考が作り出した物語とは言え、人生があまりにもムゴイなと、過酷すぎるだろうと思ってしまうことがあります。

どうやったらそんな凄惨な物語の中で、子供時代を生き抜いて来れたのか想像ができないと感じてしまうからです。

それでも、どうにかやりくりしてこれまで必死になって生き延びて来たことに驚嘆と畏敬の念さえ感じずにはいられません。

自分を守ろうとする自己防衛が限度を超えてしまうと、生き延びることができたとしても、今度は自己犠牲が激しくなって自らを苦しめてしまうのです。

そうして、大人になってもその生き方を変えることが至難の業になってしまうのですね。それは幼い頃の過酷な状態を心の中にずっと持ち続けているからです。

つまりは、大人になった本人が、現実を幼いときと同じ目線でしか見ることができないのです。だから、どうしても悲惨さが繰り返されるのです。

こうした壮絶な人生を生きてこられた人が癒しを通して、新たな生き方を身につけることができたなら、きっとそこに留まるだけでなく、場合によっては一気に本当の現実に目覚めるかもしれません。

つまり、非二元に目覚めてしまうということもあり得るなあと思うのですね。

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イメージできなくても体感はできる

昨日のブログで、非二元というのは想像を絶するのだと、つまりまったくイメージすることができない、ということを書きました。

とはいうものの、眠る前とか少しの間かもしれませんが、自然とそこに想いを馳せてしまったりするのです。

その時ふと感じたことなのですが、イメージできなくても、不思議なことに体感はできるかもしれないと思うことがあったのです。

経験だけがあって、それは誰のものでもないんだと。それを繰り返していたら、ちょっと分かったことがあって。

それは以前にも書いたことがあったと思うのですが、非二元というのは一様だという感覚です。どんな構造も持っていないのです。

だから、この経験は自分のものだとすると、そこだけが一様ではなくなってしまうということが分かったのです。

それでは美しくないし、その方があり得ないだろうということが腑に落ちたのです。しかもそれが分かった時に、僅かながら体感に変化があったのです。

朝目が覚めたら元に戻っていましたが、イメージを作ろうとしないで理詰めでやって行った方がいいのかもしれないなと気づいたのです。

イメージするときに、必ず空間が前提となってしまうようで、これがすごく邪魔をしてしまうということも分かりましたね。

イメージできないことに怯まない

非二元の探求を進めていて気づくことなのですが、非二元をイメージすることができないということです。

自分も他の人も誰もいないってどういうことだろうとか、目に見えるものや触れることができるあらゆるものが現れでしかないと。

それは私たちが絶えず感じているこの感覚だったり、自分の感情や思考なども含めて全てが現れに過ぎないのだと。

こうしたことを自分の想像力をフル活動させたとしても、どうにもこうにもイメージすることができないのです。

要するに想像を絶するとはこのことなんだなと。最も、時間も空間も単なる概念でしかないということなので、当然と言えば当然なのですけど。

そうなると、もう世界というものが消え失せてしまうのですね。どんな世界?という言葉すらトンチンカンになってしまぅのです。

自分がイメージすることができないものを、どのようにして体感していくことができるようになるのか?

これまた想像を絶する感じがしてしまいますが、そんなことを考えても怯むだけなので、イメージせずにいるしかないのですね。

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視点も見る方向もない

これまで何度も直接の経験に留まる検証実験を繰り返した結果、経験主体という経験が起きることはなかった。つまり、経験をするものはいないということ。

経験は誰のものでもないということです。となると、例えば視覚においては、誰かが見るという経験は起きていないのです。

誰かが見るのではなく、視覚という経験がただ起きているということなのです。これがとても分かりづらいのです。

なぜなら、私たちは長いこと経験とその経験者というのを分け難い「対」として捉えてきたからなんですね。

けれども、厳密な検証をすればするほど、それがただの想像に過ぎなかったことが分かってしまうのです。

視覚について、「見る」ということは起きようがないことが判明してしまったわけです。そうなると、視点もないし、見る方向というものもないわけです。

つまり、どこから見ているということが言えなくなるし、どちらの方向を見ているかも意味をなさなくなってしまうのです。

私たちはいつも前方ばかり見えていて、後方は見えないと思っているのですが、それが幻想だったわけです。

方向という経験が決して起きないので、 前も後ろも、右も左も、上も下もないということになってしまうのです。

こうしたことにしっかり気づいていくことで、「こちらから向こうを見ている」というこれまでの感覚に変化が起きてくるかもしれませんね。 

非二元へと向かっている尺度

非二元の探究をしている人にとっては、すごく重要なことだと思うのですが、とにかく気づくだけではなくて、その証としての体感も欲しいのですね。

例えば、空間とは概念だったと気づいたところで、やっぱり空間という実体はないね、という体感ベースの気づきも伴って欲しいわけです。

自分なりに、二元から非二元へと変遷していく中で、その進度がどの程度なのかの指標になるものがあったら良いなと思ったのです。

それで、思いつくままに以下のようなものを考えてみました。興味がある人は是非参考にしてみてくださいね。

・自分が身体の中にいるという感覚がどのくらい減ったか?

・自分が人間だという感覚がどのくらい減ったか?

・ここから向こうを見ているという感覚がどのくらい減ったか?

・自分が動いている感覚がどのくらい減ったか?

・自分は無限の気づきだという感覚がどのくらい増えたか?

・自分は経験そのものだという感覚がどのくらい増えたか?

こうした体感ベースのものって、一度やって来たとしても放っておくと元の二元の感覚に戻ってしまうこともあるので、絶えず「気づきの視点に立つ」を実践することが大切なのですね。

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「直接の経験に留まる」とは?

非二元に気づいていくための検証・ワーク、つまり直接の経験に留まるということについて、色々とお伝えして来ました。

実際にそれがどんな意味を持っているのかについて書いていこうと思います。直接の経験に留まるとは、思考からやってくるどんな答えも使わないということ。

思考による記憶、概念、観念、イメージや想像などの情報を使ってしまうと、リアルな現実とはかけ離れた妄想の世界に入り込んでしまうのです。

例えば、「私がこの部屋のソファに腰掛けて、目の前にあるリンゴを見ている」という経験をしていると思っているとします。

日常的には、この経験は真実だと思っていますが、実はこの中のほとんどが思考によって作り上げられた経験なのです。以下に、例を挙げてみます。

・「この部屋」や「ソファ」あるいは「リンゴ」というのは、概念であり、そのような経験は起きていません。

・「腰掛けている」というのは、身体の状態を意味しており、そのような経験は起きていません。

・「目の前」というのは空間や位置を意味しており、そのような経験は起きていません。

・「私が〜〜見ている」という経験も起きていません。

リンゴを見るということだけでも直接の経験に留まると、色や形の経験だけが起きているということになるのです。

このように直接の経験に留まることができれば、非二元という現実が見えてくるということですね。

夢と非二元の話、再び

以前、非二元という現実を全く前提のない人に説明するときに、夢のようなものだと言えば分かり易いのではないかというお話をしました。

ただし、その場合、実際の夢と非二元の違いについても言及しました。夢の方は、その夢を見ている主体がいるわけです。

そして、その主体が目を覚ますと自動的にその夢は消えてしまいますが、目覚めた後はこの二元の世界の仮想的な現実が続いていくのですね。

では、非二元の場合はどうなるのか?個人という存在が元々いないので、目覚めた後の予想がつかないのです。

実際には、そうした経験がないので、はっきりしたことは言えないのですが、分かることだけを言ってみたいと思います。

一つは、身体の中に閉じ込められた意識、あるいは気づきというものが明らかな幻想だと気づいて、純粋な唯一無二の気づきが現れるのだろうなと。

そうなったら、個人的な苦しみというものが完全に消えてしまうはずです。もしくは、この世界が完全に消滅してしまうのかもしれません。

ここは謎なので、分かろうにも分かるようなことではないですね。だからそこは放置しておいて、とにかく非二元の気づきを深く浸透させていくことですね。

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個人よりも気づきの視点でいられたら

自分に一番関係していて、一番大きな問題である自我(個人という感覚)が幻想だということを見抜こうとして、ずっと生きて来たのです。

その方法は、ひとえに思考を止めること。絶えずやってくるうるさい思考を静かにして、それから完全に離れることができれば、自ずと自我は消えていくのだろうと。

そういう思いが常にあったので、ちょっとした空いた時間などがあると、すぐに目を閉じて簡易的な瞑想をするようにしていました。

それはそれで、心が落ち着いてゆったりとした気持ちにさせてもらえるので、とてもありがたいことではあったのです。

けれども、毎日瞑想をしていても、ほんの少しの変化も感じることはなかったのです。だから、自我から解放されることは到底叶わぬ夢なのかなと。

ところが、非二元の気づきが起きてからは、自我というか思考を目の敵にする必要がなかったということに気づいたのです。

思考はあっても全く問題ないのです。問題なのは、今この瞬間の思考というよりも、これまでに思考が作り上げた壮大な幻想、想像、信念、概念、観念などが問題なのです。

これに気づいたので、それらをそれとしてできる限り使わないように注意して生きることができれば、幻想は自ずと消えていくのだろうと。

ここを注意して、検証を続けていくことがとにかく大事なんだろうなと。個人としての視点ではなく、気づきの視点でいられたら、真実が現れるはずですね。

「私」がただ在る、に戻ってきた

これまでずっと長い間、この「私」という感覚が自我であり、それが幻想であることに気づくためにはどうしたらいいのだろうということが懸案事項だったのです。

非二元に気づいてからは、「私」だけではなくて、この世界がまったくこれまでとは違うという見方ができるようになったのですね。

けれども、この「私」がいるという感覚については、以前と何も変わることがなく、これはどうしたものかと思っていたのです。

ところが最近分かってきたことは、どうやらこの感覚はこのままでいいのかもしれないと。「私」がなくなることはないのだと。

ただし、それは個人としての「私」ではなくなるということなんですね。「私」がこの身体の中に閉じ込められているという感覚が消えるのだと。

つまり、「私」の感覚に局所性がなくなるということです。結局は、昔からずっと言っていた全体性の感覚でいいのだと。

それが純粋な気づきだということです。「私」がいるという感覚を無くそうと努力する必要はなかったのだと。

「私」がここにいるという感覚が薄れていって、「私」がただ在るになっていくだけなんですね。そこに戻ってきた感じがしています。

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