経験には場所がない

直接の経験だけがリアルだということは、先日のブログにも書いたのですが、そこには場所というものが含まれないということについて書いてみます。

想像して見て欲しいのですが、今あなたは部屋の中でソファに腰掛けてくつろいでいるとします。

それが今この瞬間のあなたの体験なわけですが、そこに場所という情報が含まれているかをじっくりみてみるのです。

イヤイヤ、自分の部屋にいると分かっているのですから、そこは自分の家の一つの部屋であり、それは◯◯県であり、日本国だと分かるよと。

けれども、それは本当に今その瞬間の直接の体験としてあるものでしょうか?思考が差し出す答えを全て脇に置いてみてください。

すると、ここが自分の家の部屋だとか、◯◯県だとかといった情報はなくなってしまうということに気づけるでしょうか?

思考はこの瞬間の情報ではなく、記憶の中の情報を与えようとするだけなのです。結局、今この瞬間の経験には場所というものが含まれないと分かります。

経験には場所がないということが分かってしまいました。ということは、私の経験とかあなたの経験のように、分けることができないのですね。

つまり、あなたがこれまでに経験してきたと思い込んでいるどんな経験でも、それはあなたのプライベートな経験ではないということになります。

当然ですが、受け入れ難いですね。 

非二元 vs スピリチュアル

セラピストとして仕事をしていると、セッションでお伝えする内容がスピリチュアルだと思われることが多々あるのです。

それはきっと非科学的なことをお伝えすることが多いからだろうなと。起きることは自分の内面の投影だとか。

人間はマインドの奥にある潜在意識の部分に大きな影響を受けているとか、我々の本質は純粋な意識だとか。

けれども、こうしたことは本当はスピリチュアルではないんだけどなあと思っていました。私もスピリチュアルは大好きなのですけどね。

ただ、それをセッションの中で使うことはできないと思っているので、癒しのこととスピリチュアルを明確に分けていました。

そして最近は、非二元の探究の中に入っていて分かることは、非二元とスピリチュアルとはちょうど真反対だなと。

何が全く異なるのかというと、スピリチュアルの方はとにかく気持ちのいいことが優先されて、無限の想像力の中に入っていけるのです。

一方の非二元は、その反対にあらゆる想像を排除して、全くのリアルなものの中へと入っていくのです。

また、スピリチュアルはとにかく都合の良いことばかりが起きてくるといった夢のような世界を標榜するのですが、非二元は起きることはそのまま起きると。

そこも正反対に感じますね。もっと別の表現をすれば、スピリチュアルは夢の世界、非二元は現実そのものだなと。

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個人という幻想から抜け出る

長い間ずっと思い続けてきた、人生を賭けた懸案事項である、「個人という幻想から抜ける」という命題。

一年前までは、どうしたらいいのか分からずに、ただ瞑想をして思考を止めることだけを考えていました。

そしてとうとう非二元的な気づきによって、ようやく個人という幻想から抜け出す方法が分かってきました。

順番としては、この世界には独立した物質というものは存在しないということの気づき。これがとても大きかったのです。

そして、それは自分の身体についても同じことが言えるのだから、物質としての身体というものは存在しない。

ここで、個人として生きる上で非常に頼りにしている自分の身体の存在が消えてしまったので、個人でいることが怪しくなったのは当然です。

そして非二元によって、経験主体としての自分という存在を経験できないということに気づいたのですね。

経験は起きるのですが、その経験には時間や場所がないのです。そうなると、私の経験という言い方ができなくなるのです。

つまり、個別の経験というものは存在しないのです。ここまでくると、もう個人としての自分の存続はほぼ不可能になってきます。

残っているのは、ただの信念だけかもしれません。それが負け犬の遠吠えのように感じるようになりつつありますね。

信念を使わずに生きる

非二元の感覚に近づこうとすれば、あらゆる前提知識や概念、観念、そして記憶や信念などが邪魔をしてきます。

そういったものが、どれだけ重要視されているかは、個人個人でかなり違いがあるように感じています。

特に、幼い頃に作られてしまった信念の重さ、それをどれだけ生きる上での舵取りに使っているかの違いは人によって大きく異なるようです。

子供の頃に作られた信念というのは、自分を生かしていくための重要な考え方、生き方につながるものです。

だからこそ、大人になったとしてもそうした信念はおいそれとは変えることができません。というよりも、外してしまうこともできないでしょうね。

だからこそ、大人になっても生き方を変えるということが、思いのほか難しいのです。ただ、それを実現していかなければ、人は変わることが出来ないのも事実です。

ではどうすればいいのか。命懸けの防衛のために作り上げた信念は、死ぬまで残るものだと知って、その上でそれを使わずに生きる術を知ることです。

信念を信念としてしっかり認めることができれば、それを脇に置いておくということができるようになるのです。

癒しを進めて人生をより良い方向に変えていくにも、非二元的な見方ができるようにするためにも、信念を使わずに生きる練習をすることですね。

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非二元の検証は難しくない

非二元がこの現実の本当の姿だということを検証することは、それほど難しいことではありません。

それは実際には、リアルに体験していることと単なる思い込みの違いにしっかり気づくことができればいいだけです。

ただし、それができたとしてもすぐには長年の思い込みが安易となくなってくれるわけではないということ。

そして、自分が体験しているという言い方ができなくなるのです。単に体験が起きているということに気づくからです。

例えば、「部屋の中で1人ソファに座って、部屋の景色を見ている」という状況であると想定して見てください。

ここで、直接の体験にだけ注目して、思考や記憶やイメージ、概念、観念、思い込みをすべて傍に置くようにするのです。

すると、部屋の中というのが概念だと気づくし、体験の中にこの体験を体験している主体としての自分を見つけることができないと気づきます。

それと同時に、部屋の中にあると思われる机や椅子、壁や床といったラベルづけられたものの実体を体験していないとも気づくのです。

つまり、体験主体としての自分も見えていると想定している部屋の中の実体も、どちらも体験自体には含まれていないのです。

体験しかない、体験だけが起きている。これが非二元ですね。

見るものと見られるもの

赤ちゃんや乳幼児というのは、そのほとんどが例外なく無邪気なものですよね。どんな野心もなく、その時々を屈託なく過ごしているのです。

そんな無防備な存在なのに、それがいつの頃からかは分かりませんが、気がつくと周りを気にするようになるのです。

それは、ただ見る存在でしかなかったはずが、自我の目覚めとともに見られる存在へとこれ以上ない大きな転換を迎えるからですね。

自我が育ってないうちは、ただただ見ることがその瞬間の全てだったので、関心のほとんどが現れに向いていたのです。

その現れと自分は分離していませんでした。なぜなら、分離しようにも、まだ自分というものが存在してなかったからです。

それが自我の出現とともに、外の世界とこの小さな私という存在が二つに分離したように感じるようになってしまったのです。

だから、自分が周囲を見るのと同じようにして、自分も周囲から見られる可能性が生み出されてしまったのです。

ここからが、ご存じの見られる人生という地獄が始まったわけです。けれども、見られる分離した自分という存在が幻想でしかなかったという情報に触れ、人はそこから探求が始まるのです。

ここを見抜かない限り、何がどうなったとしても心からの平安や自由を手にすることはできないということに気づくからですね。

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譲る心って年齢に関係ない

自宅がある場所は、狭い路地に囲まれた住宅地なので、クルマで自宅に近づくと走るのにちょっと気を使うのです。

狭い道なのに、それなりに自転車や歩行者の数があるためです。先日もうすぐ家に着くという曲がりくねった道で、ちょうどタイミング悪く小さな女の子が歩いて来たのです。

すれ違うのに、できる限りゆっくり通り過ぎようと準備をしたのですが、その女の子が道路脇にある小さな駐車場の中に入ってくれたのです。

何か特別なことをしたというよりも、きっといつもそんなふうに相手を優先するようにしている子なんでしょうね。

そこで待機して当たり前のようにしているのです。これは助かったなあと思って、通り過ぎる時に手を挙げてありがとうのサインを送ったのです。

そうしたら、その子がちょっとびっくりした表情をしたのです。オーバーに表現すると、ドギマギしている様子。

きっと、大人からそういうサインを貰う経験が、これまであまりなかったのかなと。誰に教わるでもなく、きっとあの子はごく自然に自発的に譲ることができるのでしょうね。

私としても、こういうことは、年齢に関係なくありがとうを伝えるのは当然のことだよなと。日本もまだ捨てたものじゃないですね。

探究の日々を楽しむ

非二元の探求をしていて、一番悩ましいのは体感が得られないというところなのではないかと思うのですね。

それはもちろん私自身も同じで、「なるほど!」とピンと来たからといって、それが自分の体感として得られなければ、満足はできないからです。

最近やっていることは、目を閉じた時に自分の位置というものがなくなってしまうというワークを実践しているのです。

身体という実体がないと重々分かっているのに、それなら位置がなくなるはずと思っていても、自分が今どこにいるかを常に把握しているのです。

そこから抜け出したくて、とりあえず目を閉じた状態で色々検証しているのですが、これがなかなか思うような成果が出てくれないのです。

時としてうまくいく時には、全くどこにいるのかが分からなくなってくれることもあるので、またそれを経験したいと願ってしまうのです。

それがちょっとした苦悩を生む、いつもの人間のパターンですね。こうして顧みてみると、探究そのものが自我を強めるというのは納得できます。

とはいえ、辞めるわけにもいかず、こんな毎日を結局は楽しんでいる自分がいるということでしょうね。

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瞑想より検証ワーク

約一年前くらいから瞑想をしなくなった代わりに、今度は色々な検証ワークをするようになりました。

端から見ていると、なんだ瞑想と変わりないじゃないと思われてしまうかもしれませんが、内実は全然違うのです。

瞑想の場合は、本当に何もせずにただじっと心身が落ち着いて静かになって、特に思考の活動が緩慢になるようにしていたのです。

一方で検証するとなると、リラックスはしているのですが、内面で何もしないというわけではありません。

逆に、ああでもないこうでもないといった実験を繰り返しているのです。そうすることで、普段は決して気づくことのない真実が見えてきたりします。

例えば、私たちの多くは自分の身体の中にいると思い込んでいるのですが、それが本当なのかどうかを検証するわけです。

すると、身体の中にいる体験など、これまで一度たりともしていないということが普通に分かってきたりします。

おまけに体の中には、内臓やら骨やら筋肉などがびっしり積み込まれていると思っているのですが、そんな経験も一度もしたことがないと分かります。

全ては思い込みの産物だったわけですね。こんな単純なことでも、実際に検証ワークをしなければ気付けないのですから不思議ですね。

自転車利用者に罰則が始まります

みなさん、朗報です!とうとう待望のアレがやって来るようですね。来年の4月から施行される予定のようです。

何かというと、自転車の罰則が決まったとのこと。高校生以上の人に、違法運転者に対して罰金が課せられるということです。

日頃から、ずっと気になっていたことなので、この罰則を課すことで多くの自転車利用者の意識改革が起きることを願うわけです。

私が気になっていることだけでも、実際に挙げてみると色々あると思います。例えば、信号無視、右側通行、夜間の無灯火。

交差点での一時停止をしない、自転車2台の並走、あるいは、傘をさしたり、スマホを見たり、イヤホンを耳につけての運転。

当然罰金を払わせることが目的ではないので、とにかく学校などでの徹底した教育を繰り返して行う必要があるでしょうね。

また、社会人や主婦の方などには、テレビその他のマスコミによる広報活動もしっかりやってもらう必要があると思います。

当然それに合わせて、歩行者や自動車運転者に対しても、同じような道路交通法の再教育をしていく必要があるでしょうね。

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