リアルな経験だけがある

色、形、音、感覚、味、匂いといった経験はあるけれど、モノという経験はないのですね。ここでモノとは、机、椅子、身体、空、人などのことです。

また、あらゆる経験において、いつ(時間)という経験は一つもないというのも事実です。

あるいは、あらゆる経験において、何処で(場所)という経験は一つもない。これも事実です。

さらに、あらゆる経験において、私の(所有)という経験は一つもない。誰かの、というのがないということ。

こうして見てみると、思考で作り込んだ概念などについての直接的な経験はしないということなのです。

こうしたことをしっかり検証することができると、日頃の経験で私たちがどれだけ想像の中で生きているかが見えてきます。

となると、例えば、「昨日の夜仕事帰りに職場のみんなと一緒にカラオケに行って、久しぶりに盛り上がった」という記憶があったとします。

ここで、昨日の夜という「時間」はないし、職場のみんなという「モノ」と「所有」はないし、カラオケに行くという「場所」も「行為」もないのです。

盛り上がった感覚だけはリアルだと言ってもいいかもしれないですけどね。

身体の自己イメージ発見

「身体の中に閉じ込められている」という根深い信念、思い込みをどうにかして解放しようとして色々工夫をしているのです。

そのためには、この身体には首から上の顔や頭がないし、背中もないし、内臓もないし、ということをずっとやっているうちに、少しずつぎゅっと固まっていた身体が四方へ広がっていく感じが出て来ました。

言うなれば、それは自然と雲散霧消のように消えていってしまう感じがするのです。これは面白いなと思ってそのイメージを見ていたのです。

すると、ふと気がつくと何もなくなったはずの身体の輪郭だけが残っているような感じがして、きっとこれが自己イメージなんだろうなと。

この半透明な身体の輪郭はずっとイメージとして作られていて、普段は実際の身体と重なっているので気づけなかったのかもしれないなと思ったのです。

身体の自己イメージを見つけたという感じがして、これはもういらないなと思って相手にする必要すらないんだと。

そうしたら今度は、生まれて初めて身体の中のイメージがやってきて、何か小さな自己が身体の中にいて、移動している面白いイメージが出て来ました。

なんとかして、身体がなくならないようにあらゆる努力を続けているような感じがして、もう元には戻れないぞと!

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幻想を見抜くまでは諦めない

非二元などで、私たちは幻想の世界で生きていると言われたりするのですが、その幻想の根本となるものは、身体なのではないかと。

自分は身体の中に閉じ込められている人間だという、非常に強い感覚があるのですね。それが、人生物語を生み出しているのです。

そしてそこには、あらゆる苦しみの類があって、なんとかそこから脱出するにはどうしたらいいかという毎日を送っているわけです。

ところが、その幻想の中でどれほどもがいたところで、私たちが求めているような理想の現実がやってくることはありません。

せいぜい、望みが叶った時に一過性の喜びに浸る程度で、それはすぐに別の苦しみを呼び込むことになるのです。

そのことに気づいた人だけが、そもそもこの身体の中にいるというのは本当なのかと疑ってかかるのです。

そうやって、幻想を幻想として見抜くことによって、私たちの本質こそが私たちが必死に求めているものだったのだと。

この気づきがやってくるまでは、決して諦めてはならないのではないかと、最近はつくづく思うようになりましたね。

「身体=私」という囚われから解放されるワーク

「身体=私」という囚われから自由になるための日常的なワークをご紹介します。是非試してみてください。

1. 目を閉じて手の位置を感じるワーク

• 目を閉じて、片手を持ち上げてみる。

• 「ここに手がある」という感覚をただ観察する。

• その感覚は「固定した物体」ではなく、実際には 重さ・圧力・温かさ・空間感覚 といった生の現れでしかないと気づく。

👉 「手」という物語がなくなったら、ただの感覚が気づきの中にあるだけ

2. 座って体全体をスキャンするワーク

• 椅子や床に楽に座って、目を閉じる。

• 足の裏 → 太もも → お腹 → 背中 → 肩 → 顔 … と順番に「そこにある感じ」を観る。

• 各部位の感覚をただ感じるだけ。

• 全身を感じ終わったら「境界はどこにあるのか?」を静かに探ってみる。

👉 すると「身体の輪郭」がぼやけて、全体がただの気づきの流れに溶け込んでいく。

3. 「所有者を探す」ワーク

• 足を少し動かしてみて、「足が動いている」という感覚を感じる。

• そのとき「誰が足を動かしているのか?」と問いかける。

• 見つかるのは「動いている感覚」だけで、所有者(私)は見つからない。

👉 動きも感覚もただ起きているだけ と直感される。

4. 呼吸と身体の広がりを感じるワーク

• 目を閉じて呼吸を数回感じる。

• 息を吸うときの胸やお腹の広がりを観察。

• 「呼吸をしている私」ではなく、ただ「広がりと縮み」が現れては消えていることに気づく。

👉 身体も呼吸も、ただ気づきのスクリーン上の波にすぎない と感じられる。

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直接の経験が非二元を見せてくれる

私たちは誰もが自分の個人的な思考というものを持っていると思っていますし、実際その思考によってこの世界という幻想の世界を生きている気にさせられているのです。

五感による直接の経験だけに留まっているようにして、思考を介在させないように注意深く検証してみると、全く異なる世界を経験できます。

つまりはそれが非二元なのです。思考によるあらゆる作り込み、思い込み、記憶を使わずに経験すると、非二元がその姿を現します。

経験、あるいは体験だけがあって、それ以外の経験主体である自分とか、経験対象である独立した物体などがはっきりと「ない」と気づきます。

周囲に見える机や椅子にパソコンや壁、そういったものが単なる現れに過ぎないと気づくと同時にこのカラダも同じだと分かるのです。

この直接的な感覚、このシンプル極まりない感覚は格別のものがありますが、これは、実はごく普通に誰もが普段経験しているものです。

なにか特別な訓練や特殊な能力を必要とするものではありません。というより、これより他には体験しようがないというのが本当のところです。

要するに、直接の経験、体験だけを抽出して検証することができるかどうかにかかっています。練習が必要かもしれませんね。

個人的な苦しみからの解放

昨日のブログでは、身体にまつわる三種類の感覚について書きました。私たちは身体がプライベートなものだと思い込んでいます。

したがって、身体の痛みや痒み、あるいは様々な不快感の全てがプライベートなものだと感じてしまうのです。

もしもそれが、プライベートなものではなく、そうした全ての感覚は単なる現れとして起きているだけだと見抜くことができたら、かなり違ってくるのではないかと思っています。

元々独立して存在する物体、物質というものは経験できないということが分かっているので、それはこの身体に対しても同じことが言えるのです。

その一方で、身体は特別なものだと感じてしまうのは、上記したあらゆる感覚を身体が持っていると勘違いしてしまっているからなのですね。

私たちが日頃感じているあらゆる不快感、痛み、痒み、そう言ったものがこの身体とは無縁だったと気づくなら、どれほど解放されるでしょうか?

そして実際、慎重に検証していくことで、自分の身体、自分の身体の痛み、もっと言えば自分の不快感というのもないと気づくのです。

こうしたことが本当に浸透するなら、個別の快不快が消えてしまうので、個人的な苦しみの全てからも解放されることになるはずですね。

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感覚の三分類

感覚の三分類というのをまとめてみると、以下のようになるらしいです。

1.外受容感覚(exteroception)= 外の世界を感じる感覚

• 主に皮膚や感覚器官を通じて得られる情報。

• 例:視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、温度感覚、痛覚など。

• 「世界がどうなっているか」を知る。

2. 内受容感覚(interoception)= 内臓や体の中の状態を感じる感覚

• 内臓の働きや体内環境を知らせる。

• 例:空腹感、喉の渇き、心拍の速さ、呼吸の苦しさ、便意・尿意など。

• 「体の内部がどうなっているか」を知る。

3. 固有受容覚(proprioception)= 身体の位置・動き・力加減を感じる感覚

• 筋肉、腱、関節にあるセンサーからの情報。

• 例:目をつぶっても腕がどの位置にあるか分かる/階段を上るとき足の高さを自動的に調整できる。

• 「自分の体がどう動いているか」を知る。

上記は、私たちが日常的に身体がその機能を持っていると感じているものです。その中でも、聞き慣れない固有受容覚というのが、ものすごく大きな役割を演じているのです。

その役割とは、この身体が自分だという感覚です。つまり、この感覚があるからこそ、私=身体という強い思い込みが作られてしまうのです。

この固有受容覚ですら、単なる現れに過ぎないということに気づけば、長い間の身体という監獄から脱出できるはずですね。

「覚醒」というものが見えてきました

ずっと夢物語のようにして憧れを持っていた「覚醒」ということが、少しずつ身近なものに感じられるようになってきました。

その理由は簡単で、昨日のブログの最後にも書きましたが、覚醒に対する定義というか自分の中での意味合いが変化したからです。

以前は、全くどのようなものかもわからないままに、ただやりようもないので仕方なく瞑想を繰り返すのみだったのです。

だから、こんなことで覚醒するなどということもきっとないに違いないだろうなと、そう思っていたわけです。

ところが、覚醒というのはそんなに難しいことではなくて、単にしつこい思い込みを捨ててしまえばいいと気づいたのです。

特別なことは何にもなくて、ごく普通にやってしまっている思い込みに気づき、それを手放すだけでいいのだと。

そうすると、自動的に自我も溶けて、その自我が作り出していたあらゆる妄想も一緒になって溶けていくのだろうなと。

そういう道筋が見えてきたのです。本当は、一瞬で終わるものかもしれませんが、長年のクセというものがあるので、それが邪魔をするのでしょうね。

いずれにしても、やり方が分かったのであとは淡々とそれを実践していくのみ。瞑想はいらないと言っても、幻想を洗い出して無くしていくためには少しは静かに見つめる時間は必要ということですね。

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どんな状態であれ、それは単なる状態

瞑想を毎日のライフワークにしていたのに、ある日から突然のようにパタっと辞めてしまったのですが、それから約1年が経過しましたね。

最近また少しずつ、心静かに目を閉じている時間が増えて来たように思います。とは言っても、瞑想ではないのです。

思考がやってきてもそのままにしているし、ただ今気になっている色々なことをその都度確認したりしているのです。

それでも身体は瞑想と勘違いするらしく、やっぱりあの気持ちよさはやって来てくれるわけです。けれども、その時の気持ちが全然違う。

過去はこれがチャンスとばかりに、もっともっとこの状態が続けばいいのにと思っていたのですが、今はそこはどうでも良くなりました。

一時的に起きるどんな良い状態であれ、それは単なる状態であってずっと続くこともないし、単なる身体の気持ちよさなんですね。

身体の状態に一喜一憂することがなくなった分だけ、とても楽になれました。自分の中での覚醒の定義も完全に変わってしまったようです。

今はとにかく幻想を見抜くというところにフォーカスが移っているようで、しぶとい信念などを溶かしていく工夫をしています。

身体の制限を断ち切る

10年以上も前のことですが、多くのクライアントさんに対して自分はどこにいる感じがしますか?という質問をしていたことがありました。

全ての人が自分の身体の近辺にいると答えてくれました。そのうちの多くの人は、身体の内側にいるのだと。

身体の内側と言っても、頭の中だとか目の奥だとか、あるいはハートの辺り、そして身体中全体に充満しているという人もいたかなと。

そしてごく一部の人は、身体の周りに浮いているなどの表現をしていたのを覚えています。これが何を意味するのか?

それは幼い頃に自分は身体なんだということをあらゆる方法で、教えられて育ったということなんですね。

だからこそ、身体の辺りに自分はいるんだという漠然とした感覚を持つようになったということですね。

それぞれに微妙に答えが違うのは、もっと詳しい情報を教えてもらうことがなかったせいなのです。なぜなら、親もそこまでの情報を持っていなかったから。

というよりも、自分の存在を身体と結びつけていること自体が思考による幻想なのですから、仕方のないことですね。

今私のもっぱらの興味は、どうやったらこの身体という偽りのものとの関係を断ち切ることができるかということに向いているのです。

この強烈な思い込みが取れていく段階で、とても面白いことが色々起きそうで、とても楽しみにしています。 

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