個別性の消滅

身体は見かけだけで単なる現れであって、他の全ての物体と同じようにその実体はないということが明確になりました。

つまり、身体なんてないということです。となると、次にやってくるのは個別性の消滅という何とも大胆な結論です。

私たちは、個別性の象徴である身体と結びついているという想いによって、自分自身の個別性を担保しているのです。

特定の身体との結び付きがあるからこそ、他人と自分を区別できるし、そこには明確な分離があると思えるわけです。

その個人としての私が、身体からの様々な感覚を感じたり、何かを思考したり感情を味わうことで、そうしたことの全てが個人的なものだとなるのです。

ということは、その個別性の拠り所である身体がないのであれば、そこにはどんな個人もいないということになるのです。

あなたが感じているあらゆる痛み、そしてどんな思考も個人的なものではなかったということになるのです。

このことが深く腑に落ちた時、私たちはどんな苦しみからも解放されることになるはずなのです。

なぜなら、苦しみの根本は個別性という幻想にあるからです。妄想によって作られたどんな分離もなくなってしまえば、ここは天国になりますね。

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「ここから向こうを見ている」という幻想

昨日のブログでは、身体は単なる見かけだけで実際にはない、ということを明確に気づけるようになったということを書きました。

そしてそれは、目を開けている状態であっても分かるようになったのですね。つまり、身体のようなものが見えていてもということ。

そして、その一方ではまだ自分が身体の中にいるような気がすることは継続しているということも書きました。

その理由の一つについてはっきりしたことがあるのですが、それはこの二元の構造をイメージしているままだからだなと。

つまり、ここから向こうを見ているという感覚があるのです。そして「ここ」というのは身体のある場所なわけですね。

だから、身体と私の居場所が一つであるがために、身体の中にいるという感覚が拭えずにいるということだったのです。

身体はないということがはっきりしたとしても、こうした二元構造を抱えたままであることで、身体の中にいる感覚を生み出し続けていたのです。

理由がはっきりしたので、二元構造が空想に過ぎないことを意識するようにしてみようと思います。

要するに、「ここから向こうを見ている」→ 「色や形(という経験)が起きている」と気づいていればいいのですね。

 

「身体はない」という気づき

身体の中に閉じ込められてるという感覚から解放されたくて、これまでさまざまなワークを考案しつつ実践し続けてきているのです。

そして、例によって目を閉じて身体を意識すると、スーッと身体は消えていってしまうようにはなったのです。

その時ふと、ああ身体の中って空洞だなっていう感覚がやって来たのです。身体の中は肉や内臓や骨などでぎっしり詰まっているというイメージがあったはずなのに。

その空洞さがやって来た時に、物体だと思っていたものの実体がやはりなかったんだと、改めて気付かされたのです。

この身体は、壁やテーブルなどと同様に現れでしかなくて、中身はなかったんだということがより明確になったのです。

もっとはっきり表現してしまえば、「身体はない」ということです。そしてこの感覚は、目を開けた状態でもしっかり残っていてくれるのです。

これは自分にとってとても大きな成果かもしれません。さらに、身体の中に閉じ込められている感覚をなんとかする必要もないということにも気づけたのです。

「〜な気がする」を無理に解決しようとせずに、直接経験の検証を続けていけばいいのだということですね。

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諦めれば解放される

私たちは、何かが自分の望み通りにいかない時に、しばらくジタバタするのですがそれでもどうにもならないと悟った時に、「もう諦めた」となるのです。

こうしたことは、誰でも何度か経験したことがあるはずです。ところが、この「諦めた」というのがかなり怪しいのです。

クライアントさんとのセッションの中で、クライアントさんのこれまでの人生をご一緒に振り返っているときに、何度も出てくるこの「諦めた」。

側から見ていると非常によくわかるのですが、本当には諦めていないだろうなと。本人は気づかないのかもしれませんけれど。

ご本人は、本当にもう諦めたと決着がついたことにしているのですが、心の深いところでは本当にはまだ諦めがついてはいないことが多いのです。

それが私たちが抱える苦しみの一つなのです。実は、100%諦めがついた事柄というのは、決して苦しみを温存することがないのです。

実際、過去の様々な出来事の中で、諦めていないことがどれだけあるかで、その人の生きづらさが決まると言ってもいいかもしれません。

心に少しでも引っかかっている過去があると感じるのでしたら、それは諦めがついていない証拠だと思ってください。

そこに気付けたら、諦めるということを全力で実践することです。真に諦めがついたなら、その事柄が当人を苦しめることはできなくなるからですね。

本当に諦めているのかどうか、過去に遡って怪しい事象を再度見つめてみるといいと思います。諦めるとは執着を手放すことに近いですね。

薄目を開けて実践してみる

この2ヶ月くらいの間の自分のターゲットは、自分は身体の中に閉じ込められているという感覚から解放されるというもの。

そのために様々な思考実験を考案しては実践してみてを繰り返してきたものの、そう簡単には解決するような類のものではないです。

とはいうものの、ほんの少しずつではあるけれど、ああそうか、という瞬間はやってくるようになってきたのです。

その中で、一番やりやすかったのは、やはり視覚を閉ざすというやり方ですね。目を閉じていることで身体も周囲の現れも同時に消えてくれるのです。

そうすることで、自分というものの場所も消えてしまいます。この時には、完全に身体の中にいるという妄想は無くなってくれるのです。

それはそうですよね。身体自体が消えてくれるのですから、その中にいるという感覚も同時に無くなってくれるわけです。

さらに言えば、ここから向こうを見ているという錯覚からも解放されるので、目を閉じていれば肉体との結びつき自体が消えてくれます。

問題は目を開けた状態に戻った時に、どうしても思考が身体の中にいるという思い込みを瞬時に発動してくるのです。

そのことに気づきましたね。要するに、目を開けている時に目を閉じていたときの感覚を忘れなければいいだけだなと。

最近ちょっと思ったのは、目を閉じた状態と開けた状態の間、つまり薄目を開けている状態にすると、現れは現れどそれに惑わされることは減るなと。

こんな感じで自分なりに工夫しつつ、実践するしかないなと。そして飽きずに、もっともっと実践していく必要がありそうです。 

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非個人的な自己を求めて

これまでの自分の人生のほとんどを、当たり前のように「一人の個人」として生きてきて、その物語の中の人物として自分のことを見ていたのです。

そして表面的にはこれからもそれは続くのでしょうけれど、内面ではもう決してそこには戻れないような気がしています。

というのも、現実というものの本当の姿に気づき始めてしまったからです。それは本当に驚愕するようなものです。

もちろん一般常識と比べてしまえばということですけれど。真実を言ってしまえば、自分はこれまで生まれるという経験をしていないと。

もっと言えば、自分が自分の人生の主役として長きに渡り生きてきた過去などというものは存在しないということ。

今この瞬間にアクセスできるどんな記憶も、それは単なる思考に過ぎないということが分かれば、当たり前のことなのです。

今この瞬間、どこをどう探しても個人的なものは全く見つけることができないため、全てが非個人的であるとしか言いようがないのですね。

物語とともに、時間も空間も個別性も全部が消え失せてしまい、跡に残るのは純粋な非個人的な気づきだけなんだなと。

自分は身体ではないという明確な経験

先日脊椎麻酔での手術を経験したのですが、上半身は何ともないのでごく普通に術中でもお医者さんや看護師さんとお話ができるのですね。

聞いた話では、局部麻酔の方が全身麻酔に比べると麻酔が切れていく時間が長いため、痛みをあまり感じずに済むと。

ああそれは良かったと思ったのですが、術後の具合の悪さは色々あって、コレはどちらが良いというわけでもないのかなと。

私の場合、麻酔が切れていくまでの時間が平均的な場合に比べてかなり長かったようで、長時間の間ベッドの中で上半身だけの自分の感覚で過ごしたのです。

その時に思ったのですが、下半身(主に太ももの外側の辺り)を幾度となく手で触れてみたのですが、何かの物体に触れてる感じしかせず。

コレは自分の身体半分がなくなってしまったかのように感じた反面、それでも「自分」という感覚は1ミリも変化していないなと。

つまり、自分という感覚には少しも損傷がないということに気づいたのです。自分とは身体ではないということを如実に現しているということになりますね。

このような経験でも、自分は身体ではないということに気づかせてくれる絶好のチャンスになったということですね。 

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視覚体験の違いに惑わされない

時々思考実験をやるたびに思うのは、視覚というのは情報が多い分、思考に騙されやすくなってしまうなあということです。

逆に、目を閉じて思考実験をすると、あっという間に身体は消えて、自分が1人の人であるという証拠も消えていきます。

ところが、目を開けた瞬間に、一気に視覚体験が蘇ってきて、それを利用して思考があらゆる情報を持ってやってきます。

このように目を閉じた時と開けた時の違いが非常に大きいので、普段の生活の中ではほとんどが妄想の世界になってしまうのですね。

練習の方法としては、目を閉じてしっかりと思考からの情報から離れた状態を維持しつつ目を開けるようにしてみるのです。

そして、目を閉じても目を開けても、ただただ視覚の現れが増減するだけであって、それ以外は変化がないことに気づくようにする。

そんな練習をしていたら、先日この身体の中にいるという感覚があり得ないという、とても自然な気づきがやってきました。

言葉にしてしまうと、単に一つの表れでしかない身体と気づきそのものの自己の違いが明確になったということかもしれません。

そしていつもの、「◯◯な気がする」という曖昧な感覚に惑わされないようにする練習も役に立ちますね。 

高市総理大臣誕生!

とうとう高市さんがめでたく日本の総理大臣に就任しましたね。ほぼ大丈夫だろうとは思っていたのですが、ちょっとだけ心配していました。

ただこれからが大変です。というのも、高市さんはきっと財務省に対して真っ向勝負を挑むことになると思われるからです。

これまで長い間、誰も逆らうことができなかった財務省ですから、これは文字通り命懸けの戦いになるはずです。

高市さんが中心となって、これからは積極財政を強力に推し進めていけるのかどうか、ここは日本の未来がかかっていると言っても過言ではないはずです。

高市内閣が発足して、新たな閣僚人事が発表されました。私の注目するところは、官房長官の木原稔氏と財務大臣の片山さつき氏。

このお二人のタッグが、財務省に切り込んでいくことになるのでしょうね。それともうお一人、経済安保大臣の小野田紀美氏。

小野田さんは、高市さんとの連携も完璧で、高市さんに勝るとも劣らない誠意ある政治家だと思っています。

維新との連立をしましたが、それでも少数与党であることには変わらないわけで、前途多難であることは明らかですが、ぜひとも頑張って欲しいと思いますね。

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思考実験をしてみる その3

今回は、身体からやってくるあらゆる感覚についての思考実験を試してみたいと思います。

例えば、頭が痛いという経験をした時のことをリアルに思い出してみてください。私たちは自分の頭のどこかの部分に痛みを感じていると思うのです。

ところが、直接の経験に留まってみると、実際にはその不快な感覚という経験が起きているだけなのです。

その感覚には、頭という身体の部位と紐付けするどんな情報もありません。つまり、この頭痛というのは直接の経験ではないということ。

本当は、昨日のブログで説明した、あたかも頭が痛いという気がしているということに過ぎません。

あるいは、自分の肘の部分をもう一方の手で叩いて、叩かれている肘の感覚が起きていることを経験してみるのです。

この体験にもたくさんの思考による答えが混じってしまいます。自分の肘を手で叩く、というのは全てが思考による想像です。

直接の体験に留まると、なんらかの感覚がただ起きているだけに過ぎないし、その感覚が身体のどことも紐づいていないと気づくのです。

この実験は難易度が高いように感じます。というのも、私たちは自分の身体がその感覚を作り出しているという根強い思い込みを持っているからです。

根気よく、繰り返してこの思考実験をしてみてください。いずれは必ず、感覚には場所がないということに気づくようになるはずです。