思考実験をしてみる その2

今回は、「〜な気がする」という経験について思考実験を通して検証してみたいと思います。この種類の経験は、その経験が五感を伴わない曖昧なものであることを示しています。

前回のブログで書いた思考実験では、モノの実体を経験していないことを検証しましたが、まさしくリンゴの実体があるような気がする、ということが起きていただけだったのです。

たとえば、過去のある記憶を思い出して、「〜だったような気がする」のように感じる場合があります。

これは思考によって、記憶をイメージとして捉えているため、直接の経験ではないのです。直接の経験に留まるなら、今この瞬間の明確な経験があると分かります。

あるいは、今この瞬間の経験であったとしても、五感を伴わないようなものは、やはり直接の経験ではないのです。

たとえば、自分はこの身体の中にいるような気がする、という場合、その感覚が思考によって作り出されているのです。

そのため、直接の経験のような明確さがなく曖昧な状態のままなのです。ただ、どれほど曖昧であろうとも私たちはそこに強い思い入れがあるので、それがリアルではないと気付けないのですね。

これ以外にもたくさんの「〜な気がする」を日々経験しているので、ぜひ同様の検証をしてみてください。そのどれもが、直接の経験ではないことが明らかとなるはずです。

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思考実験をしてみる その1

以下のような思考実験をしてみたいと思うので、ぜひご一緒に実践してみてください。一気に非二元に近づけるかもしれません。

客観的なものの実体を経験することはできないということを試してみます。通常、私たちは見たり触れたりすることでその対象物が存在すると実感します。

なぜなら、生まれてからずっとくり返して経験してきたことの記憶を元に、モノの実体があるということを決めつけてしまったからです。

けれども、これは実は思い込みに過ぎないのです。たとえば、リンゴを見ているという体験を例にとって考えて見ます。

そのとき、できるだけ思考からやってくる答えを使わないようにすると、リンゴを見ているという経験はないと気づきます。

実際の経験は、ただ色やその色の変化、あるいは輪郭による形という経験があるだけなのです。全く実体という経験はありません。

あるいは、リンゴを持っているとすると、その重さやツルツル感などの感覚が起きていることに気づきます。

またしても、その実体を直接経験するなどということは起きてはいないのです。触覚は1番モノの実体を想起しやすい傾向があるかもしれません。

あるいは、リンゴの甘い香りを感じているとしても、同じようにしてリンゴ本体の実体を経験することはありません。

これで分かったと思いますが、リンゴに限らずあらゆる物質の実体を経験することは決してないということに気づくことができます。

必要に応じて、リンゴ以外の別の物質に対しても同様の実験ができます。たとえば、自分の身体に対してもです。是非試してみてください。

コレ以外の経験はあり得ない

直接の経験に留めておく訓練をしていると、本当に今この瞬間にコレだけがあるということが分かってきます。

どうやったって、コレ以外が見つからないのですから。勿論、過去も未来もないし、場所というのもコレだけになるのです。

試しに今日生まれたという感覚になってみると、これまで生きてきたあらゆる経験主体としての自己が消えてしまいます。

そうなると、なんだかペラペラな中身のない自分のような感じがしてきます。これでも本当に個人としての自分がいるのかと。

結局のところ、この個人としての自分というのは、思考が作った過去の全ての経験を重ねた存在ということなのでしょうね。

経験主体というのは存在しないので、誰もコレの中には入り込む余地がありません。つまり、コレが全てなので誰も見当たらないということになってしまうのです。

コレ以外の経験は不可能だし、コレ以外の何処かもない。コレは今この瞬間の現れだし、気づきでもあるということですね。 

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今まさに時代の転換点にいる

今日本の政治がとても重要な岐路に立っている感じがしますね。もしかしたら、これは政治の分野に限らないことかもしれませんが。

つまり、ずっと負のエネルギーに汚染された人々によって、日本が彼らの支配下に置かれていたということだと思います。

それが今大きな変化のうねりのようなものが来ているのだろうなと。それが鮮明に見えているのが政治ということだと。

日本国民の敵は外国にあるのではなくて、日本の政治と政治家によるものが最も大きいという不可解な状態がずっと続いてきたのです。

詳しいことは分かりませんが、それでも見えないところで暗躍してきた負の勢力が、少しずつ弱体化しつつあるのだろうと。

来週にでも高市総理大臣が誕生することで、これまでの財務省のコントロール下にあった財政の舵取りが一新する可能性が出てきたのです。

これが、私たちの毎日の生活を豊かな方向へと舵取りすることになるのは明らかですね。こうした変化は、私たち一人ひとりについても言えるのです。

長年に渡って溜め込んできた負のエネルギーというウミを出し、そこに光を当ててクリーンにすることで、人生そのものがより軽く清々しいものへと変化するのです。

2025年の秋は、日本にとってとても印象に残る大事な時代の転換点ということになりそうです。しっかり、見守っていきたいと思いますね。

あるのはただコレ

本当はもうはっきりと分かっているんですよね。何がって?それは、何がどうなろうが何も変わらないということ。

私たちは、つい、あれが無事終われば…とか、あの懸案事項が解決したら…、政治がもっと良くなれば…などとちょっとした希望を抱いているのです。

あれがああなったら、何かが変わる。お金がもう少しあれば、もっとこうできる。あの人と結婚できれば、もっと幸せになるに違いない等々。

ところが、私がこれまで生きて来て実感していることで言えば、特に何も変わらないということなのです。

これはもう明白なんですね。きっと人間は今ある事柄になんらかの不満足を感じていて、それが克服できればもっといい人生になると信じているのです。

もうそろそろこうした悪あがきをやめて、いつでも今この瞬間にあるコレを受容することなんだろうなと。

だって、コレ以外は何もないんだし、コレではまだ足りないと言ってしまった瞬間に、自分で自分を不満の中へと陥れてしまうのですから。

コレ以外は本当に何もない。コレにつきます。あるのはただコレ。

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身体の中に閉じ込められてる?

幼児の頃から身体が丈夫ではなかったために、母親に言わせると毎日のように近所のお医者さんのところに行っていたのだと。

微かにその辺の記憶があるのですが、母親は毎月私にかかる医療費を生活費とは別枠でキープしていたくらいらしいのです。

それが小学生の高学年くらいから丈夫になって、中学生くらいになるとたまに風邪を引くくらいで、健康的な人間になれたのです。

ただし、細かいところでは体の細部に渡って敏感さが残っていたため、身体からやってくる異変などにはすぐに反応していました。

それが癖のようになって、自分の内側を見つめるということが身についたのだろうなと。結局、具合が悪いということが内を覗くことをさせてくれたのです。

その結果、外界にはそれほど大きな興味を感じることがなくなって、その代わりに内側に注意を向けることとなったわけです。

今となってはそれがとても良かったのかなと自分では思うのです。どんなことでも、それが気に食わない否定的な事柄であろうと、何かの役に立つということです。

身体の中に閉じ込められているという嫌な感覚も、もしかしたら身体の中にいるという妄想を外すための呼び水になっているのかもしれませんね。

やっぱり日本がいいなあ

長い猛暑から解放されて、ようやく暑くも寒くもないちょうどいい季節がやって来ましたね。

ところが、毎年この季節になるとどうも体調がすぐれないという感覚がやってきます。具体的にどこかどうというのではないのですが。

そういうのは一般的には、夏の疲れがドッと出てくる時期、のように言われたりしますが、今年も立派にそれがやって来ています。

日頃から雨が降ったり気圧の変化が起きると、どうしても身体が変調をきたす傾向にあるので、もう慣れっこになっています。

こうした身体の敏感なタイプの人は、そうでない人に比べて面倒を感じているのかもしれませんね。

こんな時、常夏のハワイのような国に住めたら良いのになと思ったりもするのですが、私の場合は日本で生きて死んでいくと思います。

何だかんだ言っても、日本が一番過ごしやすいからです。会社員の時に、仕事でアメリカに行く機会がなんどもあったのですが。

渡米すると、すぐに体調が良くなるのです。これはもう確実だったのですが、きっと湿度が低いからなのだろうなと。

そういう利点はあるのですが、やっぱり日本が好きですね。今は、高市さんが無事に日本の総理大臣になって、低迷続きの日本を救い出してくれるのを見守りたいなと。

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二元から非二元へ

私たちは、自分にとって好ましいと感じるもの、お気に入りのものをできるだけ手に入れたいと望むものですね。

その一方では、自分にとっては嫌いだなと思っているもの、都合が悪いものをできるだけ遠くに押しやりたいと願うのです。

この当たり前の習性が、実は苦しみの根本原因であるということに気づいている人は少ないのかもしれません。

じゃあ気づいた人は苦しみから解放されるのかというと、そうでもなくて、気付いたからといってその習性を無くすことが難しいのです。

だから、いつまで経っても苦しみがなくなることはありません。ただし、その苦しみを小さくしていくことは可能なのです。

つまり、この二元の世界で都合のいいものと都合の悪いもののバランスを取るということ。都合のいい方にばかり肩入れすることを慎むのです。

そうすることによって両者のバランスが取れてくるし、両者の間の違いも小さく感じられるようになるのです。

ちょうど、やじろうべいの腕が短くなるにつれて、大きく揺れることがなくなってくることと同じなのです。この生き方が中道に近いわけです。

そして、完全に中道になったとき、その時こそ二元性が消えて、つまり双方ともに消えていってしまうことになるのです。

そうやって、非二元へと入っていくことになり、結果として苦しみからも解放されるということになるのですね。

欲望は薄く、淡々と

この年齢になるまでの、これまでの自分の人生を顧みてみると、なんとなくですが概ね自分の思い通りになっているなと思うのです。

もちろん100%願いが叶うということではないのですが、総じて90%以上は想定したようになっているなと。

その理由の一つとして考えられることは、自分はあまり高望みをしないという傾向があるからなのかなと。

別の言い方をすれば、欲望がそれほど強くないのかもしれないと思うのです。結構すぐに諦めてしまうし。

歯を食いしばって、石に齧り付いてでも願いを実現するんだという強い思いがないのです。これはもう、気質なんでしょうね。

高望みをすればするほど、人は不満も大きくなるものです。だからそこは有利なのかもしれません。

けれども、一方では秀でた人物には決してなれないし、他人からの評価はあまり良くはないのかもしれません。

どちらがいいかは人によって意見が異なるところかもしれませんが、私は自分自身を否定することなく、常に中立でいたいなと思うのです。

あとはもう、特に欲しいものもないし、どこにも行きたくないし、やりたいこともなく、ただ非二元に完全に目覚めること。ここは諦めずに続けていきたいなと。

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そろそろ新型車がリリースされる

今乗っているクルマの3回目の車検がつい先日終わったのですが、ということは購入してからもう7年経ったということですね。

どこも悪いところはないし、気に入っているのですが、ちょうど同じ車種の新型が年末に出るという情報が入って来ました。

そろそろ買い替えても良いかなと思いつつ、そのことをクルマの中で考えると今のクルマが機嫌を損なう可能性があるので、心の中でこっそりと。

この7年の間のテクノロジーの進化はすごくて、特に電気自動車なのでバッテリー自身やその温度コントロールシステムなど。

これまで不便だと思っていたところが、かなり改善されるらしいのです。ところが、残念な点もあるのです。

特に気に入っていた、e-ペダルという、ブレーキを踏む必要がない便利な機能とか、低速時の擬音をカットする機能が消えてしまったようなのです。

新しいクルマだから全てが進化して便利になったというわけではないのですね。なかなか悩ましいところだなと。

家人にそのことを話したら、そんな細かなことを気にする人なんて、いないんじゃないの?と言われ、確かにこだわりを手放すのにはいい機会かなと‥ 思えなくもないのです。