私たち自我にとって興味の対象となるものは、目標だったり、価値だったり、あるいは達成や意味といったものです。
それは社会がそれを要求するからでもあります。誰も声高に存在について話すことはありません。なぜなら、存在には興味を持てないからです。
存在を目標にすることもできないし、存在の価値を高めることもできません。あるいは存在はすでに達成されているし、そこにどんな意味づけもできないのです。
幼い子供が立派に成長していく姿を親は楽しみにしているのですが、子供の存在にはどんな成長もあり得ないのです。
ところが存在をしっかり意識できるかどうかで、人生は大きく変わってしまいます。自分自身の存在や他人の存在に意識が向くのであれば、自我の策略に巻き込まれ難くなるからです。
忙しい毎日を生きている最中でも、存在を意識することを忘れずにいられるなら、物語の内容に右往左往せずにいられるかもしれません。
思考がぐるぐる動き回っている間は、存在に気づかなくなるし、逆に瞑想状態になればなるほど、存在が際立ってくるのです。
また純粋な愛ほど対象は存在に向かうのです。だから存在の認識がなければ、そこに愛はないということになるはずです。
このブログの内容がいまいちピンとこなくても大丈夫。その場合でも、存在ってなんだろう?と日頃から疑問を持ち続けることです。
いずれは、ああこんなにシンプルなことだったんだなと気づくことになるはずです。