思考を止めようとしない

幼稚園に通っていた頃のことですが、みんなで輪になって椅子取りゲームをやったことがありました。

先生がピアノを弾いて、それに合わせてグルグル歩くのですが、ピアノが止まった瞬間に一目散に椅子に座るのです。

椅子に座れなかった人が抜けていって、最後まで残る人が優勝するというゲームです。音楽がない場合は、みんなでただグルグル歩くのです。

で、先生がストップと言ったら我先にと椅子を目指すのですが、集中してそのストップの掛け声に耳を澄ますのです。

あの瞬間というのは、すごく集中していて雑念のようなものはほとんどなかったと言ってもいいでしょうね。

あなたの頭の中で活動し続けている思考も、あなたのストップ!という合図とともに停止してくれたらいいのですが…。

なかなかそううまくは行かないものです。というよりも、思考を停止させようとすればするほど、思考は反抗的に活動するものです。

もしも瞑想の時などに思考を止めたいと願うなら、ストップの合図よりも友好的に、その思考を見守る方がいいのです。

経験すればすぐに分かることですが、思考は見守られると逆に自動的にその活動を縮小するものなのです。

是非試してみてください。

もういいから、自然に生きろ!

普段はあまりないのですが、それでもたまに会社員だった頃のことを思い出して、結構大変だったなあと振り返ることがあります。

例えば、朝オフィスに出勤していざ職場のドアを開けようとしたときに、何となく吐き気がするような感じがしたこともありました。

ドアノブを握ることをほんの少しの時間ですが、躊躇しているような感覚もありました。もちろん入ってしまえば、なんでもないように挨拶を交わすのです。

また、ある年末年始の連休の時に、朝目が覚めた時に夜中ずっと仕事のことを考えていたことに気づいて、ああやばい状態だなと思ったこともありました。

そんな時、家の近所のローカルな踏切にいる、あの踏切番のおじさんになりたいと思ったり、とにかく何でもいいから気軽になりたかったのですね。

これも今思うと変な習慣ですが、朝少し時間に余裕を持って起きて、食事や身支度を済ませたあと、もう一度布団の中に潜るのです。

と言っても、15分くらいだったと思うのですが、これから戦場に向かう前にもう一度安らかな時間を持ちたいという願いだったのかなと。

その少しの時間にウトウトすることもあって、もしかして今セラピストとして生きているこの現実は、その時に見てた夢だったらどうしよう、そうだとしたら…。

目覚めた時に絶望するでしょうね。あまりに夢と現実の違いが大き過ぎるので。でも仮にそうだとしたら、きっとこの夢が役に立つはずです。

というのも、この夢のおかげで辛い毎日を生きなければならないのは、自分の生き方、考え方が原因だとはっきり気づいたからです。

あの時の自分にこの夢の中の自分から伝えてあげたい。もういいから、どんな代償を払ってでも自分自身を取り戻せ!と。

花はひとりでに開く

誰もがより幸せになりたいと願っているのですが、その幸せが一体どういうものなのかは案外ピンボケだったりしているのです。

もっと焦点を当てて、より詳細に精度を上げてその幸せの中身を見てみることです。そうすると、もしかしたら思っていたほどでもないかもとなるかも知れません。

つまりぼんやりとこうなったら幸せに違いないと、その幸せの輪郭を見ているだけでは気づけないことに気づくことになるのです。

突き詰めて自分が追い求めている幸せを真っ向から見定めてみた時、意外とそんな満ち足りた状態でもないかも?となるのです。

これが怖いので、多くの人はそこをぼやかしたままでいるのです。けれども、そうした気づきはとても大事なものです。

その気づきがあれば、そこそこの絶望感はくるものの、いつまでも不可能な期待値を夢見るバカバカしい生き方を止めることができます。

そして誤解を恐れずに言えば、幸せを求める生き方から離れていくことになるのです。幸せという概念を使わなくなるのです。

幸不幸から離れて、特別な自分になろうとすることからも遠のいて、日々を淡々と生きるようになるということです。

そして毎日のもっと何気ないことに注意が向くようになるのです。真夏の地獄のように暑い日に、サルスベリの花が元気に開いている姿を見て嬉しくなったり。

我々日本人の本来の感性である、自動詞の世界。花が咲くというのは、花は自然に、ひとりでに咲くと言っているのです。そこに何らかの原因があるとは見ないのです。

このひとりでに物事は起きるのだという感覚を思い出して、人生そのものを見直してみるのもいいのかなと思いますね。

所有と非所有のどちらでもない

自我というのは、所有することによって安心を得ようとする性質を持っています。そこに気づいていますか?

持っていないことが不安であり、持っていることで安心できると信じ込んでいるのです。その安心も一過性のものに過ぎないのですけれど。

いつかこのブログで書いたことがあったと思うのですが、小学生の頃に牛乳瓶の蓋でおはじきみたいなことをして、勝ったら相手の蓋を自分のものにするというゲームが流行ったのです。

思えば、物凄い数の蓋をみんなが持っていて、その枚数を互いに競っていたのです。自分は結構上位の方だったと思います。

それが行き着くところまで行った時に、突然ああもうこういうの嫌だなというのがやってきて、自分の所有する蓋を全部友達にあげてしまったのです。

そして、自分は一枚だけ持っていれば、それで勝負はできるし、万一負けてそれを取られてしまったとしても、その時は借りればいいのだと。

そうなった時の清々しさは忘れることができません。こんなに身が軽いという気持ち、守るべき財産がないという快適さ。

けれども、今思うと所有するという欲望と、それへの反発である非所有という自由さのどちらでもないということが大切なのだと気づいたのです。

所有することになったのならそれはそれでいいし、所有しないことになったのなら、またそれはそれでいいという中立の感覚。

これこそが不二一元論、つまりは中道を生きるということなのですね。

同化を外したい

私たちの誰もが患っているたった一つの病、それは「同一化」です。常に、何かと同化してしまって、それに気づかずにいるのです。

同化をはずすことさえできれば、自分の本質に気づくことになります。では一体何と同化しているというのでしょう?

まずは、自我ですね。私たちがこれが自分だと思っているもの、この個人としての自分を自我と呼ぶのですが、これは同化なのです。

そしてこの同化を継続したままで、他のあらゆるものとの同化も行なっているのです。同化とは、何かと一つになってしまうこと。

思考と一つになれば、思考と同化していることになるし、怒りや悲しみなどの感情と一つになれば、その感情と同化していることになるのです。

同化という病から抜け出すには、たった一つの方法があるのみです。それは、見守り続けることなのです。

ただ見ることによって、同化しているものとの距離ができるために、それが自分自身ではないと気づくことになるのです。

もしもあなたがしっかりと意識的に生きることができるなら、それは自分自身をずっと見守ることを意味するので、自我との同化が緩んでくるのです。

いつかはその同化が外れる日を夢見て…。

一つひとつの行為を丁寧に

私たちが何かを行為するときに、丁寧に行う場合もあれば、雑に行う場合もあります。こうしたことは、動物には基本的にはありません。

それはなぜかというと、意識的かどうかに関係することだからです。動物は常に無意識であり、人間だけが意識的である可能性があるからです。

物事を丁寧に行う時には、自動的に意識的にならざるを得ないのです。その逆も然りで、無意識的に行うと雑になる可能性が高くなります。

例えばクルマに乗った瞬間、気がつくとたくさんの動作をほとんど一瞬でこなしているのですが、無意識的になりがちです。

ブレーキを踏みながら電源スイッチをオンにし、エアコンのスイッチを入れ、シートベルトを締めて、サイドブレーキスイッチをオフにし、ギアをBレンジに入れ、e-pedal スイッチをオンにし、擬似音スイッチをオフにする。

今改めて書いてみて、これだけのことをほぼ無意識でやっているのですから、慣れというのは恐ろしいです。

この慣れが、人を無意識にしてしまう悪者とも言えますが、本当は自分が無意識になりたくて習慣のせいにしているだけなのです。

自我は意識的であり続けられると、自分の正体がバレる危険があるので、なるべくなら無意識的に生きて欲しいと思っているのです。

それはともかく、意識的であるということがあまりピンと来ないという場合には、一つひとつの行為を丁寧に行うように心がければいいのですね。 

ただ自分自身を感じる

毎日生きていると、ただそれだけで様々なことがやってきて、その刺激の中で翻弄されたり影響されたりしながら生が流れていくのです。

そんな中で、比較的ヒマな人もいるだろうし、忙しさに巻き込まれて四苦八苦している人もいるかもしれません。

どんな人生であれ、それが間違っているということはないのです。なぜなら、それが起きたということはそれが起きることだったからです。

ただ、自分にとって都合の悪いことだと思えば、それは決して起きては欲しくなかったと現実を恨めしく思うかもしれませんね。

どんな人生であれ共通して言えることは、ほんの少しの時間で構わないので、ただ自分自身を感じる時間を作ることです。

これはとても大切なことです。そうした静かな時間を持たずにいると、知らぬ間に自分のことよりも起きていることの方にばかり気が向くようになるからです。

大事なことは何が起きたかではなく、そこにいるあなたの存在こそが最も大切なものだということです。

ここを間違わずにいること。そのためにも、一日に一回、心を静かにして意識を内側に向け、ただただ自分自身を感じるのです。

その静寂、その空間こそが自分の本質なのだと気づくことになるはずです。少しずつ実践することをお勧めします。

不可能に挑戦しない

何か物凄い勘違いをしている人がたくさんいるように思うのです。人は、他のすべての動物と同じで天使ではないということ。

私たちが住むこの世界は二元性の世界であり、それは簡単に言えば一つのコインには表と裏が必ずあるという世界。

表しかないコインはこの世界には存在できないということ。つまり、二元性の世界に生きているあなたにも表の部分と裏の部分があるのです。

それは表現を変えれば、自分にとって都合のいい部分と、都合の悪い部分があって、どちらか一方だけということは不可能なのです。

怒らない人になりたいとか、強欲な人からそうでない人になりたいとか思うのは勝手ですが、この二元性の世界では不可能なことです。

明るい部分も持っているけれど、暗い部分もしっかりあるということ。これは絶対的なことなのですね。

この原理原則を忘れずにいること。それをしっかり理解して、受け入れるしかないということに気づくこと。

不可能に挑戦することくらい、バカバカしいことはありません。ここまでしっかり理解することができれば、人格者になろうとする人がいなくなるはずです。

人格者というのは、理想的な人のことではなくて、実を言えばこういった原理に気づいた人だとも言えるのですね。

受け入れれば満たされる

私たちは誰もが幸せになりたいと願っています。その幸せというのが一体どういうものなのかをあまり考えることもなしに。

その漠然とした幸せを求める気持ちというのは、もう少し精度を上げて見てみると満たされたいと願っていると気づきます。

満たされたいというのは満たされてはいないからですね。満たされていないというのは、不平不満、希望が叶えられていないというものです。

満たされようとして誰もがやろうとすることは、一生懸命努力をすることだったり、強く願うことだったり、戦略的に生きることだったり。

つまりは、満たされるためには得ることを前提としているわけです。得ることなしには満たされないと信じているからです。

けれども、心理的なことをじっくり見つめてみると、満たされないというのは状況を受け入れられないからだとわかります。

もしもあなたが受け入れてしまったら、満たされようとする欲望は消えていってしまいます。これがマインドの原理です。

結論として、もしもあなたが誰よりも満たされたいと願うなら、人一倍受け入れるようになればいいだけだということです。

自我にとっては受け入れられないことが山ほどありますが、どうして受け入れられないのかというのを、一つひとつじっくりと検証してみることもありだと思います。

そしてほんのちょっとしたきっかけによって、これまで受け入れることができなかったことでも、自然と受け入れられるようになることもあるかもしれませんね。

思い込みを外すには?

幼い頃からずっと、お前はダメだ!、お前のままではどうしようもない、もっとこうならなければならない、そう言い続けられたとしたら…。

しかもそれが親の怒りのエネルギーと共に突き刺さってきたとしたら、その子はどうなるのでしょうか?

幼い子供であれ大人であれ、自我は自分の存在が危ぶまれるのが最も怖いので、できる限り相手の希望に沿うようになろうとするでしょう。

そうなったら、ああ自分て何てダメな奴なんだろうという固定観念が出来上がるのです。それをずっと信じて生きていくことになるのです。

そんな病んだ親の期待に応えようとして必死に頑張るのですが、大人になったあなたは決してダメじゃないよという言葉を聞いても、そう簡単には受け入れられないのです。

それはなぜなのでしょうか?私が思うに、自分はダメだという思考と自分の存在を同化してしまっているからではないかと。

同化してしまっているので、ダメな自分ではなくなってしまったら、自分が消えてしまうという恐怖がやってくるのです。

だから、安易にそうか自分はダメな奴なんかじゃなかったんだとはならないのです。全ての思考は自分という存在とは違うものです。

自分は思考ではないということをしっかり自覚することができれば、どんな思い込みであれいずれは外していくことができるはずですね。