『かわいそう』に負けないこと

 最近はあまり見かけなくなりましたが、私が子どもの頃はよく子犬や子猫が捨てられて、箱の中に置き去りにされていたりしたものです。子どもの時にそれを見て見ぬふりをして、通り過ぎるようなことはできずに、逆になんてかわいそうなんだろう、どうしたらいいんだろうと思案していたのを覚えています。家に連れて帰ったところでそんなものはうちでは飼えないからと親に言われるのは分かっていたので、ときには友達と一緒になって、昔よくあった雑草だらけになっている空き地などに持って行って、秘密に飼い出したりしたこともあったように覚えています。

 成長するにつれて、次第にそういうことに係わらないようになって行ったのですが、それでも学生のときなどに学食に食べ物をもらいにやってくる野良犬を不憫に思って、見つかったら怒られるのを覚悟で何か食べ物を与えていたことを覚えています。大人になってからは、全くといっていいほど捨て犬や捨て猫などに出くわすこともなくなったせいか、そういった経験はなくなってしまいましたが、だからといってまた捨て猫などを見つけた時に、全く心が動揺しないかというとそう割り切れるわけではないかもしれません。それでも子どもの時のように短絡的に何とか助けたいと思うことはないのかもと感じています。

 捨てられた子犬や子猫だけに限らず、「かわいそうに」と感じて何かに手をさし伸ばそうとした経験は誰にでもあるはずです。人は、「かわいそうに」を感じるといてもたってもいられなくなって、何とかしたいと強く思うのかもしれません。この「かわいそうに」という感情というのは、一体何なのでしょうか?この疑問に答える前に、知っておいて損はない大切な言葉があります。それは、『包帯を巻くことができないのなら、傷口に触ってはならない。』というものです。はるか昔に、学生のときに読んでいた本の中で出会った言葉なのですが、それはなかなか衝撃的でした。なぜなら、その時にはっとあることに気づかされたからです。

 それは、「かわいそうに」と思って、相手のことを考えてよかれと思ってやった自分の行為は、実は後先のことを考えないわがままな気持ちだったのではないかと思えたからです。「かわいそう」な対象を何とかしたいと思うのは、本当はその自分の気持ちが辛いのでそれを何とか解消したくて、そのかわいそうな対象に対して何かしてあげたいと思っていたということに気づいたのです。捨て猫に餌をあげるのだって、その猫が死ぬまで面倒を見るという気持ちなどまったくないままに、手を出していたのです。そう考えると、似たようなことが山ほどあるのかもしれないと思えて来ます。

 一つ分かりやすい極端な例をあげてみます。麻薬中毒の患者が、中毒を克服するために病院に入院しているとしましょう。もうすぐ薬物が身体から抜ける直前の禁断症状というのは大変な苦痛を味わうと聞いています。その患者があまりの辛さに、胸をかきむしりながら新米の看護士さんに一生のお願いだから薬物を注射して苦痛を取ってくれと命がけで懇願したとします。新米の看護士さんにとっては初めての経験ということもあり、その苦悶の様は尋常ではありません。後二日も三日もその状態の患者さんと一緒にいなければならないと思うと、何とかその苦痛から今すぐにでも救ってあげたいと思っても当然かもしれません。

 看護士さんが、あまりにも見てられずに宿直の夜にこっそりと薬物を注射してあげて、患者さんをその拷問のような苦しさから救ってあげてしまったとしたらどうでしょう。患者さんはその時には激痛から救ってくれた看護士さんにとても感謝するでしょう。しかし、そのおかげで患者さんはもう一度、入院した時点からの禁断症状を再体験しないと退院できなくなってしまったのです。看護士さんの「かわいそう」で見ていられないという一時的な衝動のせいで、今までの闘病生活がすべて無駄になってしまったのです。こういった極端な場合には、「かわいそう」に負けてはいけないということが良く分かるのですが、ごく普通の日常生活の中にも似たようなケースはいくらでもあるのです。

 ころんで泣いている幼い我が子を見て、「かわいそう」になってつい手を差し延べて起こしてあげる親がいますが、こういうことをいつまでも繰り返していると、子どもは必ず親が助けて起こしてくれると思って自分の力では起き上がろうとしなくなってしまうかもしれません。友達同士のけんかに負けて帰ってきた子どもを不憫に思って、大人である親がしゃしゃり出て行って自分の子どもは悪くないのにと訴えたりするのも、親のエゴからの行為なのです。子どもの成長にはいい影響があるとは思えません。

 では最初の疑問に戻って、「かわいそう」という感情は一体どこから来るものなのでしょうか?実は「かわいそう」なのは本当は自分なのです。今までに経験したかわいそうな自分を相手に投影して見ているのです。あるいは逆に、もしも相手が自分だったらどうだろうという置き換えをして見ているのです。自分がかつて似たようなことを経験したこともなく、相手を自分に置き換えて類推することもできないような場合には、「かわいそう」を感じることはないはずなのです。そうやって考えて見ると、自分癒しを進めて行って過去のマイナス感情を開放していくことで、かわいそうな自分も開放していくために、「かわいそう」を感じることも少なくなっていくと考えられます。

 「かわいそう」を感じることが減るからといって、冷酷な人間になってしまうということではありません。感情に負けることなく現実をしっかりと把握して、それを受け入れることができるようになるということです。それは短絡的な自分勝手な衝動で手を出してしまうことからの開放なのです。結局それが自分にとっても相手にとっても最もいい選択ができることに繋がるのではないかと思います。癒しを進めて「かわいそう」を手放していくこと以外にも、「かわいそう」に負けないようにする工夫をすることはできます。

 それは、「かわいそう」な相手に何かをしてあげようとするときに、次のようなことに気をつければいいのです。第一に本当に相手のことを考えてのことなのかという点。一時的な相手の笑顔を見たくてするのではないと分かっていること。第二に自己犠牲が発生しないかどうかという点。もしも発生したとしてもそれを承知で行動する決意があるかどうかということ。この二点がクリアしていないのなら、「かわいそう」の衝動に負けてはいけないということを明確にしておくことです。そして、その場合には手を出さずにやり過ごす勇気を持つことが大切なことなのではないかと思うのです。