『なんでもあり』ということ

 長い間のサラリーマン生活に自らピリオドを打ち、自分の人生をもう1度考えなおしてみようとしていた頃、何かにつけて頭の中に浮かんできていた言葉がこの『なんでもあり』でした。特別自分に言い聞かせて楽になろうとしていたわけでもなく、どういうわけかごく自然とこの言葉が浮かんで来ていました。今思いかえしてみると、その時に始めて浮かんできた言葉ではなく、実は若い時からずっと心の奥から聞こえてきていたのに、それを聞こえないふりしてその言葉を押さえつけながら生きてきたのだろうという気がします。最近、あるヒーラーの方がお書きになった本を書店で立ち読みしている際に偶然この言葉を見つけて懐かしくなり、今またあらためてこの言葉について考えてみようと思います。

 人はみな何らかの考え方の枠の上に立って判断を下し、生活をしています。その枠は生まれた時には勿論なかったものですが、成長していく過程で親の躾や態度、文化や社会全体から枠を与えられ、更にその上に自分独自の考え方を作っていきます。子供から大人へ育って行く時にはこの枠のおかげで社会の一員として順応していくことができるのですが、同時にそれは自分自身を縛って身動きがとれなくなってしまう要因にもなってきてしまうのです。

 『なんでもあり』とは、その長い間の自分の考え方の枠、判断基準のようなものから自分が開放されることを意味します。『なんでもあり』に気がついて、少しづつ枠の外に出ていくことができると、自分が今までどれだけ無理をして、本来の自分の望まない生活をしていたかが分かってきます。考え方の枠とは、制限と言い直すこともできます。考えてみると、心の中にはそれこそ無数の制限が詰まっています。人前では行儀良くしなければならない。法律を守らなければならない。大人になったら仕事をしなければならない。家族は仲良く、いい家庭を作らなければならない。

 しかし、このような制限があるのは当たり前だろうという方がいるはずです。社会の一員として正しく生きていくために必要なことだと言うわけです。個々人が『なんでもあり』を実践して、やりたいように行動していたら、それこそ社会は成り立たないと。しかし、本当にそうでしょうか?逆に、作られた枠の上で本来の自分を生きられずに辛く苦しい生活を送ってきた人こそ何かしら満たされない思いを持って、社会で問題となるような事件を起こしたりするのではないかと私は思うのです。『なんでもあり』を実践して、制限を開放して生活できれば気持ちが満たされ、楽しく人生を送ることができるようになります。

 『なんでもあり』を実践するのはとてもシンプルです。私たちは毎日たくさんの選択をしながら生きています。その選択をする時に、「~しなければならない」ので選択するのか、それとも自分がそうしたいから、あるいはそれをすると楽しいから選択するのかを少しの時間立ち止まって考えてみます。もし、「~ねばならない」からそれを選択するという気持ちの方が強いのであれば、それは作られた枠による制限である場合がほとんどでしょう。そのような場合には、できるところからでかまわないので、それをすると本当に楽しいからという理由で選択するようにして行きます。そのようにして、『なんでもあり』を身近な小さなことから始めて行くと、少しづつ自分の気持ちが開放されていくのがわかるようになります。

 なるほど『なんでもあり』が無理のない楽な生き方だということが分かっても、私たちは簡単にはそれを実践していくことができません。それはなぜでしょうか?それは、作られた枠の外に飛び出すことへの恐怖感なのです。その恐怖感は大変なものです。なぜなら、枠の中にいるとある程度の安全が保障されているし、まがりなりにも今まで生きてこられたのも枠のおかげだと思っているからです。だから枠の外に出るということは、自分の生命が危ぶまれることだと思っているのです。実はこれらはすべて幻想に過ぎません。枠をはずして、自分の中にある制限を開放すればするほど、本当の自分の姿が見えてきます。

 毎日、人生なんて『なんでもあり』なんだって思いながら生活していく癖をつけるだけでも、どんどん楽になってきます。楽になればなるほど、今まで自分がしがみついていた枠、執着していた多くの制限が自分にとって不用なものだったということが分かってきます。不用などころか、自分が本来持っている能力や才能などを発揮できないように邪魔していたかもしれません。

 『なんでもあり』を拡大していくと、死に対する怖れも次第に少なくなってきます。『なんでもあり』とは、過去起きた事、今起きている事、そして未来に起こるであろう事、その全てをそのまま認める、あるいは受け入れるということでもあります。これはどうしても認めたくない、あれは受け入れがたいということを、なぜそう思うのかをどんどん心の深いところまで追っていくと、最後には自分の生、つまり裏を返せば死に対する怖れの感情のところに行き着くことが多いのです。そして、あらゆる怖れの感情の原因は死に対する怖れが起因しているため、『なんでもあり』で生きていると、日々の生活の中で怖れるものが徐々になくなり、心が安定した状態になってきます。

 『なんでもあり』を実践することで枠をはずし、多くの制限から開放された状態になりつつある人は、人を傷つけたり自他を不幸にするようなことはしなくなります。自分の正義のために相手と戦うということもなくなるはずです。なぜなら、正義とは自分にとって正しいことであり、その人の枠の上でのみ成り立つものだということが分かるからです。善悪そのものが、普遍的なものではないことが分かるからです。そういうとらわれから開放された時、理由はともあれ相手を傷つけるということが自分にとって楽しいことではないということに気がつくはずです。多くの人が開放された意識で生活するようになれば、争いは起こらず、人が人を裁くことも必要なくなり、全く違った世界になっていくのではないかと思います。