こだわりと美学について

 近頃よくこわだりの一品とか、作者のこだわりが感じられる秀逸な作品などと言われるように、こだわるということがすばらしいものを生み出す心のありようとして捉えられているように思います。ラーメン屋さんがスープの味にこだわって、材料の鶏がらや野菜、果物の産地まで出向いていって、きびしく厳選して何日も手をかけて作るスープは、きっとおいしいに違いありません。作家の五木寛之さんが登場人物の女性の名前を決めるのに、一晩飲み歩いて決めたというお話を以前聞いたことがありますが、これも登場人物の名前にこだわったということなのでしょう。

 しかし元々はこだわりというのは、あまりいい意味合いでは使われてなかったはずです。辞書にも、『心が何かにとらわれて、自由に考えることができなくなること。気にしなくてもいいようなことを気にすること。』とあるように、不自由な心の状態であることが分かります。子どものときに、今となっては理由は分かりませんが、階段を下りるときには、右足から降りなければならないみたいな規則を自分に課していたことがあります。こういった簡単なこだわりならまだいいのですが、学校から家へ帰ってくるときには、こういう手順で帰ってこなければならないのようなこだわりを作ってしまうと、徐々に自分の毎日が圧迫されていくことになってしまいます。

 子どものときに学校へは休まずに行くというこだわりは、大人になって会社へは休まずに行くというこだわりになるはずです。体調がすぐれない時には、休養をとって身体を休めることが大切です。無理してでも行くことにこだわると、かえって体調を悪化させてしまうことにも繋がります。気分的に行きたくないという理由から休むにしても、休むこと自体に問題があるのではなく、行きたくないという気持ちがどこからくるのかを考えてあげることが必要なのです。休んではいけないというこだわりから、無理して行き続けてしまうと、それこそ鬱状態を引き起こす原因になってしまうこともあります。

 同じようにして、子どもの頃に一度始めた習い事は、形になるまでは続けるというこだわりがあると、大人になって一度始めた仕事は、余程のことがない限りは続けるというこだわりに発展します。こういったこだわりは、一見大切なことのように思われるかもしれません。やり始めたことをすぐに飽きて次々変えていくようでは困るという理由からでしょう。しかし、飽きっぽいということと、こだわるということを一緒に考えてはいけません。一度始めたことをやめることに問題があるのではなく、飽きっぽいという心に何かの問題があると考えるのです。一度始めたことでも、自分には合わないとか、何か続けていくことに疑問を感じるのであれば、こだわりを捨ててさっさとやめることも大切な事なのです。

 こういったこだわる心があまりにも強くなってしまうと、それはある種の強迫観念のようになってしまう場合があるのです。受動的な場合として、人のちょっとした言葉に傷つけられて、その言葉にこだわってしまってそれを何度も何度も繰り返し心の中で反芻して、いつまでも傷が癒えない状態でいるなどは典型的な例かもしれません。なぜその言葉にこだわりを持つのかというと、もっと以前に似たようなことで傷ついた経験があり、その時の傷が深いところにしっかりと残っていたために、心が反応してこだわりとなったのです。このような場合には、わだかまりと言った方が近いのかもしれません。

 能動的な場合の典型的な例としては、病的なまでの潔癖症などが挙げられます。本人が問題とは感じてないうちはいいのですが、清潔であることへのこだわりがあまりにも強くなってしまうと、毎日の生活がどんどん圧迫されてとても気持ちのいい毎日を送るどころではなくなってしまいます。何度手を洗ってもすっきりと洗った気持ちにならなくなって、1時間でも2時間で洗い続けたり、料理をしたあと、何時間もかけて台所をピカピカに磨いた後でないと寝れないといったことが起きてきたりします。こうなると、何のために毎日生きているのかさえ分からなくなってしまいます。

 美学という言葉も元々の意味とは違う、こだわりに似た使い方がされるようになっているかもしれません。『男は度胸、女は愛嬌』という昔からの言葉がありますが、そこにはちょっとした男の美学みたいなものがあるのかもしれませんが、実際には弱い心を持った男性が作った言葉ではないかと考えられます。自分が弱者であることを心の奥で知っているからこそ、それを補強するものとして度胸が必要だと言っているのです。そして、女性から責められたら太刀打ちできないと知っているからこそ、女性は隣にいて逆らわずにいつもにこにこ笑っていてくれればいいと言っているのです。結局美学という言葉によって、弱い自分の体裁を繕おうとしているように感じてしまいます。

 風邪をひいて鼻水が止まらなくなった友人の女性が、ティッシュで何度も鼻を押さえているのを見て鼻をかむよう勧めたところ、「人前では鼻をかまないのが私の美学だから放っといて」と言われたことがありました。確かに人前で鼻をかみたくないという気持ちは分かるのですが、不快な思いをしてまで、場合によっては自分の身体の健康を犠牲にしてまで美学を優先することが、果たして本人の人生にとってプラスになるのかと考えてしまいます。『武士は食わねど高楊枝』という言葉がありますが、美学というのはそもそも痩せ我慢というのがベースになっているのかもしれません。

 実際にこだわりを持つということや、独自の美学を持つことが、自分の人生にとってプラスになるのか、マイナスになるのかはなかなか難しい問題かもしれません。それは極端な言い方をすると、愛をベースとしたこだわりを持つのか、あるいは怖れの回避をベースとしてこだわるのかということに分けられるのかもしれません。愛をベースとしたこだわりというのは、何かにこだわった結果、自分の心が満ち足りた状態になる場合であると言えます。その場合には、どうしても~したい、という自分への愛の気持ちが元にあるのです。だからこそ熱意や情熱といった強いプラスのエネルギーを注ぐことができるのです。

 一方、怖れの回避をベースとしたこだわりというのは、何かをひどく犠牲にしてしまったり、不自由さを感じてしまうような場合ではないかと考えられます。その場合には、どうしても~しなければならない、という気持ちが根底にあると言えます。この場合に一体どんな怖れを回避しようとしているのかを知ることは、人生を変えていくためにはとても重要なことなのです。言葉少なく背中でモノを言うのが男の美学などのように使われることがありますが、実は正面から向き合って相手に自分の本心を表現することが怖いだけなのかもしれないのです。

 このように、こだわりや美学というものを安易にいいものとして捉えるのではなく、それがどういう心の働きから来ているのかをよく見つめてみることです。私の場合は、あらゆるこだわりや美学を手放したいと思っています。よくよく見つめてみた結果、自分の人生にとってプラスに働くようなこだわりや美学がほとんどないということが分かったからです。これはきっと人それぞれによって大きな違いがあるはずですので、お勧めすることはできませんが、自分の内にあって気持ちのいい人生を邪魔するものを注意深く見つめて、不要と思ったらそれを開放していくことが大切なことなのかもしれません。