共感ということ

 共感という言葉の意味を知らない人はいないはずなのに、実際には深く言葉の意味を理解している人は少ないのかもしれません。それは、子供の時に親から共感された経験が少ないことが原因だと思われます。

 多くのクライアントさんとセッションを重ねていくうちに分かってきたことは、人は幼少期に親からどれだけ共感されてきたかということが最も大切だということです。子供は親から共感されることで親からの愛を受け取ることができるからです。どんなに親が愛情深く育てているつもりでも、共感がなければそれは親の一方的な感情でしかありません。

 あなたが小さい時、お母さんはどんな人でしたか?と聞かれて、とても面倒見のいい母親でしたと答える方がいます。「お弁当を作っておいてと頼むと、朝早い時間に起きてとても立派なお弁当を作ってくれた。お姉さんとお揃いの手作りの服を作ってもくれた。とても感謝してるんです。」と話してくれます。でも母親が何かをしてくれることが、そのまま共感してくれたことにはならないのです。

 お母さんが悲しいドラマを見て、泣いている。お母さんて涙もろいなあって思ったとしても、それも共感ではありません。それは、お母さんがドラマの登場人物に共鳴しているのです。捨てられてぶるぶる震えている子犬を見て、可愛そうだねって思うのも共感ではありません。子犬はモノを言わないからです。学校でいじめられて帰ってきた我が子を見て、不憫に感じたとしてもそれは共感ではありません。

 共感してもらうためには、まず自分が自己表現する必要があります。子供が自分の事を母親に話したときに、その内容の善悪や正しい正しくないなどに関係なく、母親が子供を受け入れてくれて、子供がそのことを親の態度から気付いた時に初めて共感されたことになるのです。その時子供は、お母さんに自分の存在を丸ごと受け止めてもらったという感覚を心の奥で感じて、自分はこれでいいのだと無意識のレベルで味わうことができます。

 例えば、幼稚園や保育園に通うようになると、子供は急に多くの経験をするようになり、同時に多くの感情を感じて家に帰ってくるようになります。自我が出来てない子供は、その経験とその時感じた感情について確認作業をする必要性をを無意識的に感じます。通常それは母親に話すという行為となって表れます。

 幼稚園から帰ってきた子供が、「お母さん、今日ね、私みんなの前で先生に褒められたんだよ!○○ができるようになって、えらいねって言われたの。うれしくって」。それを聞いたお母さんが、「そう、そんなことができるようになったの?すごいねえ。それで先生にも褒められたんだあ、うれしいねえ」って言ってくれたら、子供は、お母さんも喜んでる。私と一緒だ、じゃあ私はこれでいいんだと無意識で味わうことになります。これが共感です。『私はこれでいい』という感覚。自分の存在を受け入れてもらえたという安心感を得ることができます。

 次の日、幼稚園から帰ってきた子供が、「お母さん、今日ね、私隣の席の○○君が急に何もしないのに私の頭をぶってきて、痛くて、悔しくて泣いちゃったの」。それを聞いたお母さんが、「そう、そんなひどいことされたの。何もしないのに、ぶつなんてひどいねえ、悔しいねえ。どこをぶたれたの?」って言って頭を撫でてくれたら、子供は、お母さんも悔しがってくれてる。私と一緒だ、じゃあ私はこれでいいんだと、胸のもやもやが一気にとれていきます。つまり感情の開放をしてしまうんです。これが共感されたことになります。このときにも、『私はこれでいいんだ』という感覚と、受け止めてもらえた安心感に包まれます。

 こういった親からの共感を何度も繰り返し受けながら成長することで、子供は自分はこれでいいんだという安定した心の状態を作っていくことができます。勿論この確認して共感してもらうことは、幼稚園や保育園に行く前から、会話ができるようになる一歳くらいの時から可能なわけです。共感される子供は、お母さんという強力なバックボーンを心の支えとして、成長していくことができます。そして、大人になっていくときに、今度は自分自身を自分の心のよりどころとして育てていくことができるのです。しっかりとした足場にすっくと立って、自分の中に太い大木を育てていくことができるのです。大木は台風が来てもびくともしません。外圧に影響されにくい安定した人物になっていきます。

 逆に共感されることが少なかった場合には、安心できるバックボーンがないために、子供はぐらぐらした足場に何とか立っているような状態で生きていかねばなりません。だから、自分の中に細い木しか育てることができず、ちょっとした風が吹いても倒れてしまいそうになります。そうやっていつも不安な気持ちを持って成長していった人は、大人になっても漠然とした不安感がいつも付きまとい、何となく自分はこのままではダメだ、何かしていないといられない、何をやるにも自信がない、こういった症状を持つようになってしまいます。そして、ひどく気分が落ち込んでいるようなときには、自分という存在がとても希薄なものに感じたり、自分を無意味な人物に思えてきたりします。

 共感してもらえない状況というのはいくらでもあります。例えば、幼稚園から帰ってきたときに、物理的にお母さんが家にいないような場合。お母さんに話すことができなければ、共感はゼロです。お母さんが家にいても、いつも忙しそうにしていて、後をついていってもなかなか話を聞いてもらえない。この場合にも共感はゼロです。また、お母さんに話そうとしたときに、お母さんが何かにいらいらしていたり、悲しそうだったり、心が穏やかな状態ではないと子供が感じたときにも、子供は話すのをやめてしまいます。あるいは、「頭をぶたれて泣いちゃったの」と話したとしても、母親が、「あなたがぼーっとしてたからじゃないの?明日行ってやりかえしてらっしゃい!」などと言われたら、これは共感とは正反対の態度であり、余計に子供は傷ついてしまいます。

 実際のクライアントさんとのお話の中で一番多いケースは、親に自己表現しない子供です。「私は、幼稚園や学校であったことなど、自分のことを親に言うような子供ではありませんでした。」というものです。しかし、この場合でも元々は親に言うことで確認をしていたはずです。親が共感的態度で接してくれないことが何度かあったことが原因となって、子供はそれ以上傷つかないために、自分から話をするのをやめるようになってしまったのです。そして本人は、その後からの記憶しかないということです。

 このように見てくると、共感されないことの方が一般的かもしれません。共感されないと、自分という存在を認めてもらえたという実感がないので、愛を受け取ることができなくなります。親からの愛を受け取れないというのは、子供にとっては生存を危ぶまれるような危機的な事態なんです。そういう状態では、人間の防衛本能が機能して、怒り、怖れ、悲しみなどの感情が出てきます。これは、原始人がライオンに囲まれた時のような危機に遭遇したときに働く防衛本能と同じです。ライオンを攻撃して身を守ろうとするときに使われる感情が怒り、ライオンから逃げることで生き延びようとするときに使われる感情が怖れ、どっちもできなくて立ち往生しているときは悲しみの感情が湧いて出てきます。共感されない時の子供に現れる感情もこれと同じです。

 自分が子供のときにあまり共感されなかったからと言って失望することはありません。共感されなかったことにより溜め込んできた怒り、怖れ、悲しみなどの感情を開放してあげればいいのです。そして同時に、大人の自分が心の中に住んでいる子供の自分を認めて共感してあげればいいのです。この二つのことを繰り返し行っていくことで癒しが進み、心の中の細い木を大木に変えていくことができます。その作業のお手伝いをしていくのがセラピーですね。実際どうすれば子供の頃に溜め込んだ感情を開放できるのか、どうやって子供の自分に共感してあげられるのか、セッションを通してお伝えし実践していきます。