受け入れがたいもの

 人は自分が持っている常識や道理、あるいは決まりごとなどから逸脱するような行動や考え方などを、簡単には受け入れないようにするものです。受け入れないとは拒絶を意味しますが、拒絶とはそこに怖れがあることを意味します。怖れは自分を守ろうとする気持ち、つまり怖れから逃れて安心するために、今の自分にとっては危険なものを受け入れなくするのです。

 受け入れないということを信じないという言葉に置き換えることもできます。例えば、宇宙人やUFOの存在を受け入れない、あるいは信じない。善も悪もないという考え方を受け入れない、神の存在を信じない、人間は人間ではないということは受け入れない、輪廻転生を信じない、などです。もしも、あることを受け入れたら、あるいは信じたら今よりももっと満ち足りる人生になるとしたら、あなたならどうするでしょうか?

 私にはずっと以前から受け入れがたいものがありました。それは絶対性というものです。絶対的な真理というものはないというのが私の生きる根本原理でした。真実というものにも殊更価値を置かず、真理などは人の数だけあっていいと思っていましたし、他と比較しようのない絶対的な真理と言われるものほど、何となくいかがわしい臭いを感じていたのです。

 例えば、宗教上の争いなどでよく耳にする、我々の神だけが本当の神であるといった類の主張などです。この例のように、何かを信じるということは、その何かと相容れないものを信じることができないということになってしまうため、それがとてもいやだったのです。何かに対して狂信的になることは依存であり、大きな危険をはらんでいると感じ、そこに怖れがあり、結果として拒絶していたのです。

 しかし、自分の心の中には気づいていた自己矛盾があったのです。それは、愛だけは誰から教えられたのでもなく、心の奥にあって、それこそ絶対的な真理なのだという動かし難い感覚です。この点だけは、誰が何と言おうと自分の中でのはっきりとした確信なのです。この例外には目をつぶっておいて、絶対的な真理はないとしてきたのです。

 この矛盾をなくすためには、愛だけが絶対的な真理であるということを絶対的な真理としてしまえばいいということが分かります。愛だけが唯一特別なもので、それ以外のものはすべて真理ではないし、真理でないものには意味もないということです。ここまで来ると、今までの絶対的な真理はないという考え方がかなり曖昧なものであったということが分かります。

 つまり、愛以外のどんなものにも意味はないということを明確化したことで、この先に見えてくるものがあるのです。それは真理でないもの、意味のないものとは何だろうという疑問です。意味のないものが起きたり、存在したりするということはどういうことなのでしょうか?我々が日頃、怒ったり悲しんだり、絶望したり、苦悩することは愛ではないので真理ではないということです。

 真理ではない争いが起きていたり、真理ではない辛い感情を感じたりするとはどういうことでしょうか?真理ではないものがあると思うから理解できなくなるわけで、真理ではないものは元々存在しないとすることですべては解決します。真理ではないことは元々起きてはいないということです。真理ではないということは偽物、作り物、まがいもの、あるいは錯覚の産物だということです。

 我々は愛以外のすべてのことに錯覚しており、何もないのにあると思い、何も起きてないのに起きていると思っているということです。この現実の中で、錯覚でないものは愛だけだということになるのです。この錯覚を生み出している張本人こそエゴなのです。普段目にしているこの物理的な宇宙や地球、大自然や自分たちの肉体など、すべてがエゴが作った錯覚なのです。

 なぜなら、愛は目に見えるものではないからです。エゴはその錯覚の中でありとあらゆるものを作り出します。愛すら作り出して我々を騙そうとしますが、それも当然偽物の愛でしかありません。絶対的な真理である愛の外側にエゴの作り出した錯覚の世界があるのですが、そこでは絶対的なものはなく、すべてが比較できるものからなっています。

 例えば、怒りは激しい大きな怒りと比べてささいな怒りがあるし、少しの悲しみに比較して大きな悲しみがある。これらはすべて相対的であり、比べることができます。少し好き、に比べてとっても好きなどはあるけれど、それはエゴが作った偽物の愛であるから比較が可能なのです。私の方があなたより豊か、この国の方があの国より近代的、性別や人種の比較、あらゆることに当てはまるのです。

 善悪、正不正、明暗、長短、早い遅い、剛柔、どんな比較にも意味はありません。それはエゴが作った幻想、錯覚の中でのことであるからです。エゴは愛とそこから派生したすべてのことが分からないのです。ですので、その錯覚の世界のベースは苦悩なのです。まがいもののちょっとした慶びや一時的な安堵はあるかもしれませんが、そこには真実の愛はないのです。

 勿論、エゴそのものも愛ではないので錯覚の一部ですが、自分の存在はどうでしょうか?この私と思っている自分はエゴなので錯覚の一部であり、存在はないのです。しかし、愛の塊である自分というものを認識するのであれば、これは絶対的な真理として厳然と存在するということになるのです。

 エゴが作った錯覚の中で生きるとは、愛のない苦悩に満ちたにせものの人生を生きていくことになるのです。そこから一刻も早く脱出するためには、錯覚を錯覚としてしっかりと受け入れて、絶対的な真理である愛の自分を見出していくことです。真理を選択するか、錯覚を選択するか、両方を選択することは不可能です。どちらかを選択するとしても、これ以上に大切な選択はないでしょう。