娘という名のライバル

 母親にとって、生まれてきた子どもが男の子であっても女の子であっても愛しいのに違いはありません。確かに生まれてくる前には、男の子が欲しいとか、女の子だったらいいのにという願望を持つことはあるかもしれませんが、生まれてきてしまえば、本来性別などどうでもよくなってしまいます。なぜならその子の存在そのものが愛しいと感じるようになるからです。子どもの存在を愛しく感じるのは母親の本能ですので、どんな母親の心の奥にも子どもに対する愛があるのです。しかし、母親の心がなんらかの問題を抱えていたりすると、その愛が覆い隠されて感じなくなって使えなくなってしまう場合もあるのです。

 そうなると、母親は自分は子どもを愛しているはずだと自分に思いこませて生きていくことになります。なぜなら、自分が子どもに対する愛を感じられないという自覚があるままだと、人の親としての自分を責め続けて生きていかなければならないからです。そうやって自分を騙して子どもを愛してるつもりになって子育てをするのですが、そんな母親に育てられる子どもはどこかに違和感を感じて生きていくことになります。しかしその違和感は子どもの心の奥深くで感じるものであることが多く、その子が大人になっても自分の幼少期に何か問題があったと認識していない場合がかなりの割合であるのです。

 そうやって母親は自分自身を騙しながら、偽りの愛によって子どもを育てていくのですが、母親が騙すのは自分と子どもだけではなく、周囲の人たちも巧みに騙していきます。そして周りの人たちからは『いいお母さんですね』と言われて自己満足をするのです。母親は自分が間違った育て方をしている自覚がこれっぽっちもありませんので、ひどい場合にはそれが死ぬまで続きます。ではどんな間違った育て方をするというのでしょうか?愛のない育て方をしてしまう理由とその育て方について、代表的な例をいくつか挙げて見てみることにしましょう。

 子どもに対する本物の愛を充分に見出せずにいる母親の心の状態というのは、母親本人が子どもの時にその母親から偽りの愛で育てられた結果なのです。子どもがその年齢ごとに必要とする親の愛を受け取れなかったり、何かを我慢して怖れや怒り、悲しみや絶望などの感情を溜め込むと、その子の心はその時の年齢のまま成長を止めてしまいます。つまり心の中に子どもの病んだ心を置き去りにした状態で、肉体年齢だけが時間の経過と共に成長して行ってしまうのです。この心の奥深くに置き去りにされた子どもの時の意識(主に感情)のことをインナーチャイルドと言うのです。

 インナーチャイルドは誰の心の中にも存在するものですが、問題となるのはそのパワーが大人の自分にとって無視できないくらい大きい場合なのです。上述の偽りの愛で子どもを育てる母親の心の中には、確実に強大な力を持ったインナーチャイルドが住んでいます。母親のインナーチャイルドにとって、母親の育てている実の子どもは、同じような年齢の子供同士ということでライバルとして認識されてしまうのです。健康な心を持った子ども同士が相手をライバルとして意識する場合には、互いの成長を促しあういい関係になることもできるのですが、インナーチャイルドの場合には基本的にそれ自身がネガティブな感情の塊でできているために、ライバルに対しては妬み、憎しみ、嫉妬などの感情を持ってしまうのです。

 つまり母親のインナーチャイルドの心情としては、自分はこれだけ苦しんでいるのだから、お前にも私以上に苦しんでもらわなければやってられない、と思うわけです。しかし、常にインナーチャイルドが暴れて子どもに対して敵意をむき出しにしているわけではなく、インナーチャイルドが自分の心の傷に触れるような何かのきっかけがあった時に、大人の母親という仮面を突き破って出てくるのです。それ以外のときは甲斐甲斐しく子どもの面倒を見る愛情深い母親の姿でいられるかもしれません。

 インナーチャイルドのライバル心というのは不幸な自分と相手を比較して起こるわけですから、自分にとって異性の子どもよりは同姓の子どもにより強い敵意があわられるのです。つまり父親の場合は息子に対して、母親の場合には娘に対してよりひどく発生することになります。女の子が自分に対する母親の態度が、兄や弟に対する態度と違うと感じるのはこのためである場合が多いのです。従って冒頭述べたように、母親にとって性別に関係なく子どもを愛しいと感じるということが崩れてくるのです。

 母親のインナーチャイルドの中に赤ちゃんのときの意識が残っていると、育児中の赤ちゃんがとても満足している表情などを見ているうちに、急に赤ちゃんが憎らしく感じたりすることが起きたりします。このようなことが頻繁に起きると、敏感な赤ちゃんは何か居心地の悪さを感じて不安をかかえるようになってしまいます。あまりひどいようだと、母親自身が自分の異常に気づいて、医師などに相談する場合もありますが、通常は気づかずに育て続けていくことになります。

 我が子を抱きしめられない母親のCMをテレビで見て、そういえば自分も最近子どもを抱きしめてないなと思い立つかもしれません。そして愛情深い母親よろしく、子どもに「抱っこしてあげるからこっちにおいで」と言って、子どもを抱っこしようとします。ところがいざ、子どもがそばに寄ってくると、インナーチャイルドが腹を立ててしまって、母親が無意識に子どもを拒絶するような信号を発してしまったりします。子どもは、母親の微妙な態度の急変に気づいて近づくことを止めてしまいます。そうすると、母親は「抱っこしてあげると言っているのになぜ来ない」といって叱るのです。子どもは、近づくと拒絶され、近づかないでいると怒られるという状態の中で、どうすることもできずに立ち尽くすしかないのです。そして子ども自身の力でこの状態を回避できないでいることをダブルバインド(二重拘束)と呼ぶのです。

 例えて言えば、子どもとしては頭を撫でてもらいながら足を踏みつけられて、そこから逃げられないでいる状態です。ある程度の年齢になると、その場から立ち去ることで回避することができるようにもなりますが、逃げることができない幼い子どもの場合にはこのダブルバインドの繰り返しによって、母親の真意が分からなくなって非常に不安な状態で育っていくことになってしまうのです。母親の偽りの愛によって育てられる子どもは、毎日がダブルバインドの連続であるかもしれません。

 恐怖心を沢山溜め込んだインナーチャイルドを抱えている母親は、自分自身も不安感を持って生きていくことになります。そのために、強い心配性の母親になってしまいます。そして子どものことが心配で仕方がないからという名目によって、過干渉になって無意識のうちに子どもの幸せや可能性を台無しにしようとするのです。たとえば年頃になった娘の素行を心配するという大義名分によって、厳しい門限を作ったりしてしまいます。しかしその本音はというと、娘ばかりに夜遊びさせて楽しい思いをさせてたまるものかという、母親のインナーチャイルドの嫉妬なのです。

 娘がやらせて欲しいというものは、母親の世間体を満たすものでないと、危ないからとかどうせできないからなどの理由から許可しないのです。そうやって大切な子どもの成長の芽を摘んでしまうのです。そう言うときの母親の決まり文句は、「あなたのことが心配だから」とか、「あなたの幸せを願うからこそ」のようなものであることが多いのです。娘が好きになったどんな彼を連れてきても、母親は何となく気に入らないのです。それは幸せそうな娘の態度に腹を立てたインナーチャイルドが娘の幸せを壊そうとするからです。そして、母親はなんだかんだとその彼の悪口を言うことになります。母親のインナーチャイルドは、娘が幸せな結婚をすることを否定しているため、娘が好きとは思えないような相手を自ら探し出して娘に押し付けようとするかもしれません。

 こうしてみると、とてもあり得ないことのように思われがちですが、程度の差こそあれこういったことはいくらでも現実に起きていることなのです。娘の幸せを願うはずの母親が、実はその心の裏側ではライバルである娘の不幸を望んでいるのです。勿論やんわりとカモフラージュされるために、子どもはその事実にはっきりとは気づかないで成長していきますし、親自身も全く気づくことはありません。子どもの側からすると、自分が幸せそうになると母親から否定され、不幸になるとやさしくされるということを何度も繰り返されることで、知らぬ間に幸せ恐怖症になってしまうのです。そして自分が成長して大人になってからも、自分の人生がうまく行きそうになると、どういうわけか自らその道をはずそうとしてしまうということが起きてきます。そしてなんとなく、辛い状態でいることが自分の定位置なのだと錯覚してしまうのです。

 母親のインナーチャイルドが異常なほどの怒りや憎しみを抱えているような場合には、親は子どもに対して明らかな否定や無視、あるいは物理的な虐待などをしてしまいます。そういった場合には、子どもは親への反発などを通して自分がどのような感情を溜め込んで成長してきたかをはっきりと理解することができるので、癒しの作業ではその感情に目を向ければいいという事が分かります。しかし、上述のような場合には、子どもは親に対して自分がどれだけマイナスの感情を蓄積してきたかという自覚が持てない場合が多くなるのです。そのために癒しの作業が難しくなってしまったりするのです。自分の心に何らかの問題を感じて、癒していくことが必要だと思うときには、親にどのように育てられたのかを注意深く見つめてみることです。特に何も問題らしいものは見当たらないとして、簡単にあきらめないことです。そこには、思っても見なかった落とし穴があるかもしれません。そしてそのことに気づけば、必ず癒しの糸口が見つかるのです。