安心を求めるか幸せを求めるか

 人は誰でも波風の立たない、安らかな心でいつもいられたらとそう願っているものですね。いつどんな危険に遭遇するのか、怯えてビクビクしながら生きるよりも、穏やかな気持ちでのびのびと生きて行きたいと思っています。それは危機的状態から自分を守る生物としての本能的な反応であると考えてもいいかもしれません。そして、安らかな心、つまり安心できたその先に幸せがあると信じているのです。

 しかし、本当にそうでしょうか?大好きなあの人と結婚できたら絶対に幸せになれると思っていませんか?二人で素敵なマイホームを建てることができたら幸せになれる、あの学校に入学できたら、あの会社に勤めることで安定した収入を得られることができたら、子供を産んでお母さんになれたら、幸せになれると思っているのです。しかし、そんな保証はどこにあるのでしょうか?実はそういったことはすべて安心を手に入れようとする行為や気持ちに違いないのです。

 びっくりするかもしれませんが、安心を求める生き方と幸せを求める生き方では、ちょうど綱引きのように180度違う正反対の生き方なのです。つまり、安心を求めた後その先に幸せがあると思うのは大きな間違いだということです。多くの人は、何となく安心を得ることと幸せは似たものだという認識があるのです。それが間違っているということではなく、安心を求める生き方では本当の安心感や幸せを得ることはできないということなのです。

 安心を求める生き方を続けてしまうとなぜ幸せから遠ざかってしまうのか、順を追って説明していくことにします。まず安心を求めてしまう心の原動力は何かといえば、それは心の中に巣食っている大きな不安感であるといえます。つまり、不安な気持ちがいっぱいある人ほど、強く安心を求めてしまうということです。自分自身の中にある不安な気持ちを見ずに、外にある不安や心配事を安心に変えようとしてしまうのです。では、その大きな不安感は一体どこからやってくるのでしょうか?

 2、3歳の幼い子供の心を想像してみて下さい。お腹が空いたと思っても一人でコンビニに行ってお弁当を買って食べることもできないし、喉が渇いたとしても自動販売機でジュースを買うこともできません。つまり、ありとあらゆることを親や周りの大人に依存して生きているのです。今仮に大人の自分がそんな状態に突然戻ってしまったとしたらどうでしょうか?怖くて不安で毎日どうしたらいいか分からなくなってしまうはずです。

 完璧に自分のことを分かってくれる理想的な親に育てられている場合ならともかく、幼い子供は親に嫌われたら一日たりとも独りでは生きていけないと思っているのです。これが不安な心の大元なのです。子供は生き延びるために、親に愛されようと必死になるのです。親から捨てられたら生きてはいけないと知っているので、気に入られようと頑張るのです。それが安心を求める心の原型だと言ってもいいと思います。

 育っていくあいだに、自分は親に愛されてる、気持ちを分かってもらっているという自覚をもてると、つまり親の心と自分の心がしっかりと繋がっているという感覚があると、心の中の不安は減っていくので特別に安心を求める必要がなくなります。しかし不幸なことに親に愛されてるという自覚がないままに大人になっていくと、大きな不安を抱えながら生きていくことになるのです。そうすると、その本当の自分の不安を払拭するために安心を求めて生きるようになってしまうのです。

 幼い子供が本音を抑えて親に気に入られるようにして安心を求めてしまうのと全く同じようにして、大人になっても自分が安心することを最優先して生きていくことになるのです。そうして多くの自己犠牲を払ってでも安心を得ようとしてしまうのです。例えば、自己表現を控える、「ノー」を言うことができずに、人の言いなりになってしまう。頼まれるといやと言えない。自分のことよりも、人の気持ちを優先してしまう。何事につけても、丸く収まるようにして自分が我慢してしまう。

 人の役に立つ自分になりたい、親切な人になりたい、道徳的な人になりたい、人望のある人になりたい、心がけのいい人になるように勤める。このように考えている人は、大抵安心を目指して生きているのですが、そのことに気づいていません。自分は世のため人のためにいい人物になろうとしているのだから、こんなにすばらしいことはないと思っているのです。しかし実際は、他人からの自分の評価を高くすることで安心しようとする生き方そのものなのだということに、はっきり気づく必要があるのです。

 そして更に残念なことに、手に入れた安心の多くが一過性のものであって、その安らかな心の状態がいつまでも続くわけではないのです。今日頑張って100点を取って褒められて安心できたとしても、明日は0点を取ってしまうかもしれません。だから、明日もまた頑張らなければならないのです。職場での今月の成績がトップでほっと胸をなでおろしても、また来月の過酷な戦いで勝利しなければ安心はできないのです。

 大好きな彼の誕生日に奮発をしてプレゼントをして、今は好きと言われて安心していても、明日は本当のところは何と言われるか分からないのです。もしかしたら、急に別れ話を持ちかけられるかもしれないのです。仮に、好きな人と結婚したり、お金持ちになったりして得られた安心が一過性のものでない場合でも、それによって幸せになることはできません。なぜなら、安心を求めてしまう不安な心は依然として自分の胸の奥に手付かずの状態で残っているからです。

 その場合、人はまた別の不安を自分の外側に見つけて、それを安心に変えようとすることを続けてしまうのです。つまり安心を求める心は常に不安や心配の材料を求めて、あるいは作り出してそれを安心に変える生活を繰り返すのです。自分の身の回りに不安や心配の種がなくなってしまったら、それこそ本当の心の奥の不安に気づいてしまうからです。それだけは絶対に避けたいのです。だからこそ不安な心は不安な出来事を起こしているとも言えるのです。

 一方、安心を殊更求めずに生きていくとどうなるでしょうか?つまり、不安や怖れを感じてもそこから逃げないように生きていくようにするのです。例えば、自分がやりたいことがあった時に、親からそんな危ないことはダメ、親を心配させるようなことはしないでくれ、そんなみっともないことはするな、絶対失敗するに決まってる、などなど言われたときに、そこまで反対されるならとあきらめるのは安心を求める心です。

 安心を求めなければ、どんな反対も跳ね除けて、自分がやりたいことをやっていこうとするはずなのです。その結果、自分が望む自分の人生を生きていくことができるようになります。親を心配させてしまう、親を悲しませてしまう、という不安に負けずに生きるということです。そうやって、自分の自由な人生を勝ち取ることができるのです。だからこそ、安心を求めるのと真反対の行き方こそ、本当の幸せに近づいていく行き方であると言えるのです。

 そんな生き方はわがままで身勝手な生き方ではないかと感じるかもしれません。しかし、それこそが自分を安心させようとする心の働きなのです。自分を安心させようとして、自分の本当の気持ちを押さえ込んでおいて、それでよかったんだと自分の行動を正当化しようとするのです。そのため、自分以外の他人がその意思を貫いて自由に生きようとすると、それを親不孝者のように感じて否定したくなるのです。

 不安を外に投影して、不安や心配のネタをさがし、それを安心に変えることを繰り返すことで安心を得ようとすればするほど、人はとても大事なものを失っていくことに気がつきません。それほど大切なものであるのに、安心とトレードしてしまうものとは一体何だと思いますか?それは自分の人生の自由です。上記の例でも明らかなように、安心を求める生き方は自分をがんじがらめに縛りつけて、身動きできないようにしてしまうのです。自分は生きていて不自由だと感じていたら、安心を目指してきたと気づくことです。

 安心を求める生き方は、自分の人生の自由を奪い、台無しにしてしまうだけではなく、大切な家族、特に子供の人生にも多大な悪影響を与えることになります。こういう人達が親になった場合には、大抵その不安を自分たちの子供に投影することで、心配性、過干渉の親になって子供を縛り付けることになるのです。そして、気づかずに自分の安心を最優先するため、子供の気持ちを受け止める心の余裕がなくなってしまうのです。

 では何事も怖れずにチャレンジすればいいのかというと、そうでもありません。世の中には何でも挑戦する行動的でチャレンジャーな人がいます。そういう人は、幸せを求める生き方が出来てるように見えるかもしれません。しかし、安心を求めるチャレンジャーもいるのです。つまり、見た目の行動が何かにチャレンジしてるように見えても、チャレンジする目的が、ただそれをしたいからというのではなく、それをすることで安心できるとしたら、それはやはり安心を求める生き方であるということができるのです。

 また安心を求める人は、過程を大切にするのではなく、結果を重要視する傾向にあります。それは結果を出して、人からも自分からも認められることが安心に繋がるからです。人の評価というのは、当然目に見える部分に左右されがちです。どんなに激しい練習をしても、金メダルをとれなければ評価は上がりません。逆に漁夫の利のようなことでも金メダルがとれたら、ゴールドメダリストとして一躍脚光を浴びることになるのです。

 しかし本人にとって一番大切なことは人からの評価によって安心することではなく、自分の正直な気持ちに従って進んでいくその過程が重要なのです。幸せを求める生き方の人は、そのことが分かっているだけでなく、日々の生活の中でそういう生き方ができる人なのです。大切な自分の人生の方向がどちらに向かっているのか、じっくり考えてみて下さい。今まで自分が生きてきた人生を振り返ってみて、安心を求めようとした言動は何か?幸せを求める行動は何だったか?それぞれに分けて考えてみて下さい。

 そして、安心を求める行動が多いということが分かったら、できるところから幸せを求める行動に変えていく努力をすることです。これはとても勇気のいることです。なぜなら、自分の心の不安感を感じて、かつそれを感じるに任せるだけでその不安をなくそうとしない生き方だからです。不安や怖れから目を背けることなく、それを感じつつ生きていけるように変えていくことが結局自由で快適な人生への道に繋がっていくのです。