対立していた自分

 あるとき瞑想しているときに、心の扉を開いて奥まで入っていくと、そこにうつぶせに倒れているインナーチャイルドを見つけました。といっても、自分でそのようなイメージを作っているという感覚でしかありません。彼を抱き上げて、できるだけ彼の気持ちを受け止めて寄り添うようにしていたその時に、ある言葉が口をついて出てきました。それは、『僕は怒ってないよ』というものでした。

 何だろうと思いながらも、その言葉を繰り返しているうちに訳の分からない感情がこみ上げて来て、その言葉を言いながら泣いていました。泣くというより嗚咽に近い感じです。それも何度も何度も繰り返して誰かに訴えるように言っているのです。何もイメージが出てこないのではっきりは分からないのですが、何となく母親に訴えているように感じました。

 その後、しばらくして今度は別の言葉が口をついて出てきました。それは、『お母さん、怒らないで』というものでした。ここでもイメージは全く出てこないので漠然としているのですが、多分何をしても怒らない優しいお母さんにある時怒られたのでしょう。それは怖い体験でもあったし、それ以上にびっくりしてしまったのではないかと思います。

 絶対に怒らないと信じていた母親に怒られて、悲しかったのだろうと思うのです。その時の気持ちが上記の言葉として出てきたように感じています。これらたった二つの言葉に過ぎませんが、その言葉の裏にはかなりの感情が溜まっていたようです。瞑想を終えるときには疲れてぐったりしてしまいました。その夜、長いこと感じることがなかった寂しいという感情が出てきました。

 あくる日、自分の心の中でふと、『僕を助けて下さい』という言葉が浮かんできました。意味も分からず繰り返していると、何だかとてもすがすがしい気持ちになると同時に、素直になった自分を感じることができたのです。そして、ああ、自分の心の辞書からこの言葉はかき消されていたんだなということを実感したのです。

 本当は助けて欲しいのに、助けてなんかいらないという、うその気持ちを作って本音にふたをして生きてきたのでしょう。そのことが理解できたとき、この言葉を心の中で何度も唱えながら、いかに自分は人との間に対立を作って生きてきたのかを実感したのです。助けを求めてもいいんだと思えるようになって、初めて作ってきた対立が少しずつほぐれてきたのです。

 助けなどいらないとして生きてきたのですから、実際にお世話になっても、助けてもらってもそれを認められずにいたんですね。だから、人に心から感謝することができなかったのです。また、助けて欲しくなどないと思っている人たちに興味がないのは当たり前です。だから、人の名前が覚えられなかったのです。いろいろなことが一度に合点がいくようになったのです。

 ようやく、助けてもらってもいいんだと実感できてきたときに、人との一体感が少しずつ芽生えてきてる気がしたのです。対立関係が少しずつ消えていくような感じ。すると、不思議なことに人を助けてもいいんだという感覚が沸き起こってきました。それまで、全力でセラピーをやっても、人助けという感覚は全くなかったのです。すべては自分の学びのためとしてやってきたのです。

 ところが、対立が薄らいできたおかげで、「助けてください」の反対に「助けたい」という純粋な愛の気持ちが持ち上がってきたらしいのです。そればかりではなく、普段の生活に変化が出てきました。人と対立してる状態というのは、孤独で寂しいものなのでしょうね。それを紛らしたくて、お酒を飲んだり、テレビを見続けたり、いろいろな気晴らしを続けてきたのです。

 そういった気晴らしをする時間が次第に減ってきたのです。癒しをすると人は変わるものですね。そればかりか、急に自分が分かっていることを人と分かち合って、少しでも人が幸せに近づくことを助けたいと思えるようになってきたのです。助けたいのは純粋な気持ちで、そこには他に何の目的もありません。勿論自己犠牲もなければ、取引もないのです。とてもすがすがしい気持ちなのです。