常識という非常識

 アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」という言葉を残しているそうです。なかなか考えさせられる言葉だと思います。きっと彼にとっては、自分が研究・探求している道で成功を収めるのにどうしても必要なことは常識を捨てることだったのではないかと思われます。確かに、時間はいつも一定の速度で刻々と時を刻むという常識の上に立っていたら、いくら頭をひねったところで、あの相対性理論を導き出すことはできなかったかもしれません。

 しかしこのアインシュタインの言葉はとても奇妙に感じませんか?常識=偏見と言っているのですから。常識というのは、広く行き渡った考え方の枠組みだったり基準などのことだし、偏見というのはその真逆で偏った独りよがりの考え方やものの見方の基準のことをいうはずです。なぜこの相反する二つのものが等しいというのでしょうか?実はこう解釈するといいのかもしれません。それは、ある事柄について自分の中で広く行き渡った考え方の枠組みや基準だと信じていることは、ほんの少しだけ立場を変えてみることで独りよがりの偏見とも受け取れるのだと言っているのではないかと思います。

 子どもの頃に友達の家へ遊びに行った時、カレーライスをご馳走になったことがあったのですが、その時にその友達のご家族全員がカレーにソースをかけることにびっくりした思い出があります。実は我が家では父がカレーに醤油をかけて食べていたので、自分ではそれが常識となっていたのです。そして、ソースをかけたくないな、醤油をかけたいのにと思いながらソースをかけて黙って帰ってきたという経験があります。家に帰ってこのことを親に話したところ、逆に醤油をかけるということが、我が家の常識でしかないということを教わりました。我が家での常識は、友達の家では相当に非常識だったわけです。もしかしたら、カレーには何もかけないことを常識としている方が多いのかもしれません。

 人は家族の常識から始まって、地域の常識、学校の常識、社会の常識とそのコレクションをどんどん増やして生きて行きます。そして行き着くところは世界規模の常識だったり、宇宙規模の常識まで行くかもしれません。 『天動説』と『地動説』のお話は子どもの頃に学校で習って、みなさんもご存知だと思います。昔の人はみな、「地球は宇宙の中心にあって、太陽や月や星が、この地球の周りを回っているのだ」と信じていました。これを『天動説』といいますね。何かしら、この考え方は安心感を生むように感じられます。この常識は、プトレマイオスの天動説として、その後1400年も長い間信じられてきましたが、コペルニクス(1473~1543)は「地球やその他の惑星が太陽の周りを回っている」と考えた方が、惑星の動きなどを無理なく説明できると考え、『地動説』を唱えました。このような人類規模で長い間常識とされてきたことを根底から覆すということが、一体どれだけの勇気がいることなのか、想像を絶することなのではないかと思います。

 ついでに宇宙規模のお話をもう一つ。宇宙での地球の移動速度は、小さいほうから下記のように、並べられるらしいです。
①地球の自転:秒速460m
②地球の公転:秒速30km
③太陽系が銀河の縁を移動する速度:秒速250km
④銀河系がハッブルの膨張に関係なく宇宙を移動している速度:秒速700km

つまり、極端な言い方をしてしまえば、自分の部屋でじっとして本などを読んでいる自分は今ここに静止している、そう思っている常識というのはもろくも崩れて、科学の進歩によって秒速700kmで宇宙を移動していると知らされることになったのです。たった一秒間に東京から大阪よりももっと遠くまで移動しているという計算になります。

 常識は偏見の集まりだというアインシュタインの言葉をよくよく見つめてみると、何かに常識というレッテルを貼るということ自体に意味がないということが分かります。我々は無意識的に、これは常識、これは非常識というように絶えず区別分類しているのかもしれません。物事にはあるがままの事実、姿以外には本当は何もないのです。今ではすべての人が地動説を支持して、それが現代の常識となっています。もしも地球が宇宙の中心なのだという天動説を唱える人が現れたら何て非常識な考えを今どきしているのだろうと一笑に付してしまうでしょう。

 しかし、もう一度よく考えてみると、コペルニクスは地動説を採用した方が合理的だと言っているに過ぎません。地動説の方が、夜空に無数にある天体の軌道を合理的に計算することができると言っているのです。きっと天動説では膨大な計算をしなければならないのでしょう。ほとんど不可能かもしれません。確かに、天動説をとっていたら、人類は月に着陸することは可能だったかもしれませんが、火星に探査機を送り込むことはできなかったでしょう。でもただそれだけのことなのです。地球が宇宙の中心だと思っていても、それが非常識であるというレッテルを貼る必要はないということです。

 なぜ私たちは常識という偏見をコレクションしてきたのでしょうか?それは怖れから自分の身を守るためだったのかもしれません。常識を身にまとい、その枠の中で生きていくことで安全を手に入れられると思っているのです。これは自分自身を見つめることを妨害することになる、依存の生き方といえるかもしれません。常識としてこうする、常識としてこう考える、そうやって生きることが安全と勘違いしてきたのです。それは結局常識という偏見をベースにした生き方であり、本質的には少しも安泰な生き方ではないということに気づく必要があるのです。自分の中にコレクションしてきてしまった、沢山の常識や非常識というレッテルをできるだけはずしていくことです。そうすると、自分の中にあった偏見がどんどん減っていき、色めがねで物事を見ることから開放されて、結局は自分自身の人生が開放された気持ちのいいものに変わっていくはずです。