惨めな自分

 時々垣間見る自分のインナーチャイルドのことを、もっとも端的に言い表した言葉は惨めさだということに気づいたことがありました。それまでは、彼はいかにも可愛そうで、辛そうで、全く元気がなく、意気消沈して場合によってはうつぶせに倒れているというようなイメージがあったのですが、ただ惨めなんだということがはっきりと分かったのです。

 惨めさというのは、自分が意識的にも無意識的にも期待しているある状態に対して、その結果がその期待値からどれだけ下方へずれるかということから起こるといえます。例えば、普段50点を採ってる人が50点を採っても何とも感じないですが、自分は間違いなく100点を採れると期待してる人が50点を採ったら惨めな思いをしてしまうということです。

 このように期待値と結果の落差によって、それが大きければ大きいほど、そしてその事柄が自分にとって重大なことであればあるほど、惨めさは激しいものになってしまうということですね。幼い頃の自分にとって重大なことといえば、親にどれだけ愛されているかということです。どれだけというと曖昧になってしまうので、もっと分かり易い尺度を無意識に求めるはずです。

 つまり、自分は親から一番愛されていると思いたいのです。男の子である幼い自分は生まれて初めて好きになる異性は母親です。ここにあの有名なエディプスコンプレックスというのが発生するのですが、同姓である父親を母親に対する恋敵とするのです。そして、私の場合は、自分が母親にとってNo.1の存在なんだという思い込みをしたのです。

 生まれて初めての恋愛は相手にパートナーがある三角関係、つまり不倫なんですね。しかも競争相手は父親ですからこれは絶対にハッピーエンドになるはずがありません。当然の結果として、No.1の座は脆くも崩れ去ってしまうのです。No.1だと信じていたのに、そうじゃなかったという落差はきっと自分の中では耐え難いものだったのだろうと思います。これが私の惨めさの原点なのです。

 大人の自分から見れば単なる微笑ましいと思えるような出来事ですが、その当時の自分にとっては死活問題だったのでしょう。ただ惨めさに甘んじているわけにはいかないはずです。納得できないその状態に対して、内心両親への激しい怒りが発生してもおかしくはありません。実際、惨めさと激怒は常に一つのものと言ってもいいと思います。

 こうして初めての惨め体験(これを私は原体験と呼んでいます)を経験した3,4歳の自分は、その後似たような惨め体験を繰り返すことになります。一方、そんな惨めな自分などいないとして、頑張る自分が発生するのですが、これがエゴの始まりです。エゴは何としても自分を惨めじゃない立派な自分に仕立て上げようとして頑張るのです。

 そのエゴの下に隠されてた惨めな自分は親に対する怒りを開放するチャンスを作るために、自ら惨めになる台本を書き出すのです。自分を惨めな状態に保つことでいつでも親にたいして抗議できる立場でいようとするのでしょうね。自分が昔からどこかで感じていた、他人に対する怒りの元はここにあったのだと気づいたのです。

日頃自分が感じる、不平不満や文句など、すべてがこの幼い惨めな自分の親への抗議活動から来ているのだとはっきりと気づいたのです。何と馬鹿馬鹿しい話しなのでしょうか。幼い頃の惨めな原体験をいつまでも文句をつけるための拠り所として、いい大人になってまでも繰り返し訴える人生をしてきたということです。

 このことを深く理解できたときに、どんなことが自分の身に起こったとしても、不平不満、文句を言わない自分というものがやっと生まれて出てきた感じがしました。遅すぎる誕生かもしれませんが、それでもそのおかげで周りで起きる様々なことに反応せずに平安な気持ちでいられることがとても増えてきたという自覚があります。