正しいこと正しくないこと

 いやな事件が起きるたびに、凶悪な犯罪の低年齢化についてメディアで取り上げられることが増えてきているように思います。そういうこともあって、小学校の先生がホームルームの時間などに子どもたちに対して、事件の悲惨さや人の命の大切さなどを教えることも増えてきているのかもしれません。もし、危機感を持った先生が「殺人は悪だ。」と子どもに教えたとして、その子どもがあなたに「どうして殺人は悪なの?」って聞いてきたら、良識ある大人のあなただったら何と答えてあげるでしょうか?

 人が人の命を奪うことは悪いことに決まってると言って終わりにしてしまうでしょうか?それなら戦争で敵国の人命を奪ったり、死刑によって人を死に至らしめることはどうでしょうか?条件付きで殺人を悪とするのでしょうか?こういった議論をいくら進めていっても、その子どもの質問に明確に答えることはできないと思います。それはなぜかというと、殺人は悪と決められないからなんです。

 子どもの質問を厳密な表現で言い換えるとすると、「殺人はこの世界の絶対的真理として悪か?」ということになります。私が答えるとすると以下のようになると思います。「殺人は悪とは決められないよ。なぜなら絶対的な正しさや真理というものはないからだよ。殺人に限らず、物事の善悪、正不正、真偽などは人から決めてもらうことではなく、あなた自身が決めることだよ。あなたが悪だと決めれば悪になるし、善と決めればそうなる。そして大切なことは、そんなことを決めることではなく、あなた自身が殺人をしたいと感じるか、したくないと感じるかということだよ。そして、もっと大切なことは、自分が決めた物事の善悪、正不正、真偽などを自分以外の他人に押し付けないということだよ。」

 100年ほど前にアインシュタインが特殊相対性理論を発表しました。専門家でなければ詳しい内容については分からないですが、誰しも一度は耳にしたことがあるはずです。仮にAさんが真っ直ぐな道路をクルマで走っているとします。そしてBさんがその道路の脇に立って、通り過ぎるAさんのクルマの長さを測定するものとします。Aさんのクルマは全長5.0mで製造されており、Bさんの前を通り過ぎる時にも勿論5.0mのままだったとAさんは言うはずです。しかし、BさんがAさんのクルマを測定したところ、4.9mだったとします。常識的には、Bさんの測定結果が間違っているとするはずですが、相対性理論によると、クルマのスピードが充分に速ければ、そういうことが起きるということが導き出されるのです。

 結果として、ある物体を5mと測定する人もいれば、4.9mと測定する人もいて、どちらも同時に正しいということをこの理論は言っているのです。矛盾を感じるかもしれませんが、これが宇宙なのです。つまり、測定する人ごとに正しさがあって、それぞれの測定結果が一致するとは限らないということです。これはとても大切な事だと思います。どんなに物理を勉強して大学の教授になって、学生に相対性理論を教える立場になったとしても、このことが腹の底で分からないなら、相対性理論を理解したことにはならないと思うのです。

 相対性理論を知らなくても人は幸せになれますが、人の心の数だけその人にとっての正しさや真理があるということが分からないと、人生は楽しくないかもしれません。なぜなら、生きている間ずっと他人の意見を拒絶し続けなければならないからです。本人が楽しくないだけならまだしも、そういう親に育てられると、人は概ね何らかの精神的痛手を負うことになります。例えば、自分の考え方が絶対に正しいとする頑固親父のような、自分の考え以外を受け入れないような親に育てられると、親の尺度や基準、ひどくなると好みなども押し付けられ、刷り込まれてしまうために、子供自身の感覚が成長することを妨げられてしまいます。

 このように育てられた人がある程度の年齢になると、自分の考えが持てなくなったり、人に許可を求めないと何も決められなくなっていることに気づいたりします。何をするにも自信がもてず、世間体を重視する生き方をするようにもなります。そして、そういう人が親になると、結局自分が親にやられたのと同じように、自分の中に固まってしまった正しさで子供を洗脳するように育ててしまうのです。そうやって世代間のチェーンが生まれます。

 正しさや真実は一つしかないと思っている人は、自分が正しいと信じていることは地球の裏側にいっても、過去現在未来に渡って正しいに違いないと思っているのです。そして更に、自分の中での正しさと自分の好みを混同している場合も多いのです。例えば結婚の形態として、現在一夫一婦制が世界の大勢を占めていますし、それが正しいとされています。しかし人類の歴史を振り返ってみると、一夫多妻制の方が優勢なのです。高校球児たちはスポーツ刈りか坊主にすべきで、それ以外は認めないという方も多いかもしれません。しかし、どんな髪型であっても野球をやる上で支障がないのはプロ野球の選手を見れば明らかです。

 人はみな悪意がない限りは、他人に対して「よかれ」と思って何かをしてあげます。ところがこのよかれという気持ちがかなりのクセモノなのです。余程注意していないと、自分の中の正しさの尺度を使って他人を見ている場合が多いからです。このことに気づかないでいると、コラムの『境界の分からない人たち』の中に出てくる「侵略者」のようになってしまう場合があるかもしれません。

 ではこの自分の中の正しさや真理が絶対だとする心の働きはどこから起こるのでしょうか?それは誰の心の中にもある不安感や恐怖感から発生するのではないかと思うのです。自分の心が不安でいると、人は絶対的なものをどこかで必要とするものです。その安定した絶対的な対象が神であったり、真理であったりするのだと思います。自分の存在がちっぽけでつまらないものだという感覚が強ければ強いほど、絶対的な正しさという鎧で弱い自分を守ろうとするのでしょう。

 自分の中にある正しさや真理、あるいは基準や価値尺度をもう一度よく見つめてみて、自分がそういったものにどれだけ頼って生活しているのか確認してみてください。そして、もし知らず知らずのうちに、他人も自分と同じ正しさや真理を持っていると勝手に思い込んでいるとしたら、自分の人生を狭いものにしてしまっていることに気づいて下さい。そしてできるだけ、人は人、自分は自分ということを改めて確認する必要があります。