自分はいない

 以前、『自分がいるから宇宙がある』というコラムを書いたことがあります。自分という確かな存在がいて、その自分が認識をすることで、周囲の事物は確定(存在)するという考え方について記述したものでした。これを書いた目的の一つは、自分の存在価値に気づけないでいる人々、無価値感が強く自分に対して否定的な見方しかできなくなっている人々にそれを払拭していただきたかったからなのです。

 人間一人の大きさは宇宙から見たら本当にちっぽけなのですが、そのちっぽけな自分の存在がなければ、この壮大な宇宙の存在も不定になり意味が失せてしまうということ、あなたがいるからあなたの周りの人がいるのだし、あなたがいるからこそ地球があるということ。だからもっともっと自分の存在というものに対して、自信と限りない価値を与えてもらいたいという願いがありました。

 そのように書いた目的はともかくとして、この自分がいるから宇宙があるとする考え方の底辺には、実は自分の存在は自分にとって特別なのだという感覚があるのです。この自分を特別視する感覚というのは、誰にとっても当然のものといっていいと思います。なぜなら、私たちは生まれた時からずっと自分の意識として生活しているし、自分の身体とだけ付き合ってきているわけですから。

 自分が他人になってしまったり、その逆ということもありえません。人の苦しい気持ちを感じ取ることはできたとしても、絶対に自分と同一視することは不可能です。だからこそ、自分は特別なわけです。しかし特別視するということは、そこには執着がうまれてきます。そして実は自分の無価値感や自己否定感なども皮肉なことにこの自分への特別視から来ているのです。

 人がしでかした失敗や間違いは赦せるんだけど、自分の場合に限ってはなかなか赦せないんだということはないでしょうか?他の人の場合だと、その人の存在価値があるなとはっきり分かるのに、自分のこととなるとどうしても価値があるようには思えないと感じてしまったりするのは、自分を特別視しているからに違いないのです。

 逆に自分は何か人と違うんだと思ってみたり、自分をヒーローやヒロインにして、密かに自分はすごいと思うような場合にも、自分を特別視することがベースにあるのです。このように否定的であろうと、肯定的であろうと根っこにある自分は特別だという感覚は同じであり、これがある限り分離からくる苦悩は決してなくならないのです。

 自分を特別と思うことは自分を孤立させるエゴの作戦なのです。SMAPの曲の中の歌詞に、「No1にならくてもいい もともと特別な Only one」というのがありますね。好きな曲ではあるのですが、敢えて付け加えるとすると、勿論No1になる必要などないし、一人ひとりは特別な存在なんかじゃない、すべては一つの中に溶けて一体となるべきと言いたいのです。

 一般的な社会通念として、自分の人格(パーソナリティ)、あるいはアイデンティティを確立して、社会で活躍することが立派な大人としての姿だというのがあると思います。しかし、この人格やアイデンティティというのは、一方では自分を特別だと思わせるために絶対に必要なものでもあるのです。人と自分をはっきり区別するためには、自分だけの個性や信条などをはっきりと打ち立てることがよしとされているのです。

 しかし、他の人とは違うこの私というのは、あくまでもエゴが作った個別性なのです。それは全体からの分離であり、それによって人は誰でも生きている限り本質的な苦悩から逃れることはできないのです。ただ、何かに徹底的に熱中したり、極度に集中してるような場合などに、この私という個別性が影を潜める場合があります。

 あるいは考える時間もないくらいの咄嗟の出来事の中で誰かの命を救うような場合にも、この私は一時的にいなくなるかもしれません。それが、いわゆる無私の状態というものです。無我夢中という言い方もできるかもしれません。残念ですが、この無私の状態、あるいは無我の状態というのは、長続きすることはなく、あっという間にこの私という自分に戻ってしまうのです。

 この私に戻れば、個別性からくる本質的な苦悩がまたやってくるのです。苦悩は、心の根っこに巣食っている罪悪感、恐怖、怒りなどであり、特別な私を生きている限りこの苦悩から逃れることはできないのです。ではどうしたらいいのでしょうか?勿論無私の状態を継続できればいいのですが、そのためにはまず自分の存在を特別なものとして扱わない癖をつけることです。

 「僕はキミを愛している」という場合に、この僕がキミを愛しているというニュアンスを手放し、誰がキミを愛してもいい、とにかくキミを愛してるというニュアンスを目指すことなのです。政治家の方々の演説を聞いていると、僕は…、私は…、が非常に強調されているのに気がつきます。大切なのは中身なのに、この大切な話しをしているのは僕だよっていうメッセージを感じてしまうのです。

 無私に近づくということは、決して犠牲的な要素を含むものではありません。自分に犠牲を強いる人は、やはり自分を特別視している人なのです。無私のベースは純粋な愛であるため、その状態でいることは、人に何かを期待するのではなく、与える側になるということです。この私を手放すということは、勿論自分を粗末に扱うということでもありません。

 自分のアイデンティティを重要視するのではなく、全体に溶け込んだ自分という視点で生活することです。この私は局所的な存在ですが、全体としてある本当の自分は非局所的な存在だという認識が大切なのです。全体に身を委ね、次第に個としての自分を手放していくことでエゴで生きる時間が減り、この自分はいない、無私の状態へと進んでいけるのです。