自分を引き受けるということ

 スーパーに買い物に行った時のことですが、店内にお母さんと一緒に来ていた小学校低学年くらいの男の子がいました。手には子どもがよく欲しがるような簡単なプラモデルが入ったお菓子の箱を持っています。箱を見つめながら、『これ、僕に作れるかなあ?』と少し不安そうにしていたかと思ったら、何やら腰をくねらせながら踊り出して、『僕、喜びが止まらないよ~、早くうちに帰ろうよ~』とお母さんを促していたのです。きっと、買ってもらえることが嬉しくて、どうしようもなくなって感情を身体で表現していたのでしょう。

 それにしても、何とストレートな自己表現のできる子なんだろうと、そばで見ていてこちらまで嬉しくなるようなとても暖かい気持ちになりました。太古の昔から、人間は喜びなどの感情を身体を使って踊ることで表現してきたのだということが少し分かったような気がしました。このように、喜びなどのプラスの感情でも大き過ぎると、身体を使うなどしないといられないのですから、悲しみなどのマイナスの感情にしても同じように、本人にとって大きい感情になると身体を使って涙を流して泣くのが人間なのです。

 しかし、もっともっと大きくてとても持ちこたえることができないような感情が発生した場合にはどうなるのでしょうか?特に幼い子どもの場合には、まだ心が未発達であるために、感情の受け皿が小さく耐性もできてないため、無意識のうちに人間が本能として持っている防衛機制というものが働いて、手に余る感情を味わわないで済むようにしてしまうのです。その方法にはいろいろなものがあるのですが、基本的には自分以外の誰かにその感情を振ってしまうというものです。自分以外の誰かといっても、他人である必要は必ずしもなく、自分の心の中に別の存在を作って、その意識に感情を押し付けるのです。

 その意識が人格を持つような大きな存在となってしまう場合もあれば、人格とまではいかないまでも小さな意識の塊のような存在である場合もあり、それは本人の気質や体質、あるいは経験などによって多種多様になるのです。感情だけではなく、その感情が発生する原因となった実体験の記憶も一緒に別の意識に追いやってしまうような場合には、その意識が人格化する場合が多くなるのかもしれません。たとえば、親に激しい虐待などを継続的に受けてしまうようなケースでは、主人格である自分はとても現実を受け止めることができないために人格が解離することが起きる場合もあります。

 また感情だけを別の意識に任せてしまう場合には、副人格、あるいは意識の塊となる可能性があります。たとえば、親に理解してもらえない悲しみや、学校などでのイジメによる孤独感や怒りなどは、その体験の記憶はあるものの、感情だけを委ねてしまうことになるのかもしれません。そして一般的には、そのような意識は潜在意識の中に押し込まれて存在しているために、本人にもその存在が気づかれずにいる場合が多いのです。これがいわゆる感情の抑圧というものなのです。このコラムに何度も登場しているインナーチャイルドというのもそういった意識の一種と考えることができます。

 このような無意識的な感情の抑圧は何も幼い子どもばかりが行うものではなく、れっきとした大人でも充分に起こす可能性があります。そういう人は、大人になるまでの成長過程で、ずっとこの防衛機制を使って生きてきてしまったために、心の耐性が養われずに大人になってしまったのかもしれません。例えば大切な家族を失ったなどの場合には、湧き上がってくる感情があまりにも大きいために、長い間その事実を認めることができないままでいるといったことが起きることがあります。現実を否定することによって、その感情も受け取らずに済むという防衛機制が働くのです。

 また、心の中の意識ではなく、現実に周りにいる自分以外の他人に感情を振ってしまうことでの防衛機制というものもあります。例えば、自分に何らかの危害を与えたと感じる相手に対して、執拗なまでの復讐心を持ってしまい、そのことだけに全エネルギーを傾けることによって本当の自分の感情を引き受けないようにするのです。別れを告げられた恋人をいつまでも追い回して、見捨てられ恐怖を味わわないようにするのがストーカーなのかもしれません。自分の中にある激しい怒りなどの感情を引き受けることができずに成長してしまうと、周囲の人たちに絶えずいわれのない怒りを向けることによって、その感情を処理しようとすることが起こります。

 このように、自分の心の中にある感情を相手の中に投げ込む(投影)ことによって、本当の感情を回避しようとするのも代表的な防衛機制と言えます。このような状態が続くと、他人や自分を赦すということができなくなってしまいます。逆の言い方をすれば、赦すという心の状態というのは、マイナスの感情を自分の中でしっかりと引き受けて、消化できた状態のことを言うのかもしれません。人間である以上、マイナスの感情、もっと簡単に言ってしまえば苦痛や苦悩といったものはなくなることはないのです。

 癒しを進めていけば、勿論徐々に少なくしていくことはできますが、いつかはそういうものから完全に脱却していつもプラスの感情だけで生きていけるようになると思っている人がいらっしゃるかもしれませんが、そうはならないのです。それは、前回のコラムの『白か黒かについて』で触れた両極端な考え方と言えるかもしれません。人生は、苦か楽かではなく、その両方が同時に常にあるものなのです。癒しを進めていくというのは、自分の中に発生したあらゆる感情、特に苦痛や苦悩などをしっかりと引き受けて、味わうことができるようになっていくということなのです。

それには、日頃から小さな感情からでもしっかりと自分のものとして味わうという癖をつけることが大切かもしれません。そうすることによって、苦痛や苦悩を抑圧や投影によって回避することなく、少しずつ自分のものとして引き受けていくことができるようになるはずです。インナーチャイルドが隠し持っている苦しい感情を、大人の自分が引き受けるという気持ちになってあげることが必要なのです。そして、受け取ったその感情を大人の自分の肉体を使って充分に味わって、消化することによって大きな癒しを得ることができるのです。