一般常識的な立場で見れば、人は誰でも好きこのんで被害者になろうなどとは考えないはずですね。駐車中のクルマに傷をつけられたり、自転車を盗まれたら悲しいですし、周りの騒音に悩まされて寝不足になったり、医療ミスで余計な病気を移されてしまったら腹が立つかもしれません。このようにできるだけ被害に遭わないように生きていきたいと願うのは、誰にとってもしごく当たり前のことです。
しかし、被害者という立場にも実は利点というものはあるのです。それは簡単に言ってしまえば、自分は加害者ではないという立場、つまり被害者である限り、自分は悪くないということがはっきりとしている状態とも言えるのです。勿論例外もあって、つまらない詐欺に引っかかったお前の用心の甘さが悪いんだなどと言われてしまうこともあるでしょう。しかしそんな場合でも、加害者よりも悪いなどということはないはずです。
また被害者と加害者でどちらを選ぶか?という少しいじわるな質問をされたとしたらどうでしょう?そう簡単に答えを出せなくなってしまうのではないでしょうか?絶対に被害者にはなりたくないと言っていたとしても、一方では加害者になるのだけはいやだという気持ちも出てくるかもしれません。少しじっくりとこのことを考えてみると、場合にもよりけりですが、自分は加害者になるよりは被害者の方が気が楽だと感じる人が多いかもしれません。
加害者でいるということは、自分が悪いということを認める必要があり、それは時としてそのまま受け止めるには耐え難いことであるかもしれません。その場合に、人は無意識的に何とかしてその加害者の立場からのがれようとします。そのひとつのやり方は、罪悪感を使って自分を責めることによって、責められた自分というものの立場を作るのです。つまり、責められるという被害を被ることで、少なくともその責められた自分は被害者であろうとするのです。
また被害者の意識が強い親に育てられる子どもは、被害者であることを強制させられてしまう可能性が高くなるのです。それは親の心の中に棲む被害者の意識を持ったインナーチャイルドが、その子どもが被害者でいることを強く望むからです。このような場合には、子どもは無意識的に自己嫌悪や罪悪感を使って被害者でいることで安心しようとしてしまうようになるのです。
このように、自分を被害者の立場に置いておくということは、詳しく見つめてみると意外にも様々な利点があるということに気づくことができるのです。この他にも、被害者ということで、人の同情をかい易くなるということから何らかの恩恵を得られると思うかもしれません。他人からやさしく接してもらうことができるかもしれないし、何かを大目に見てもらえることがあるかもしれません。
被害者でいると、自分の人生が思うようにいかなくてもそのことを加害者、つまり自分以外の誰かのせいにすることができます。自分の力で自分の人生を切り開いていこうとする努力をしないことも、被害者という立場を使えば人のせいにして済ましてしまうことができるのです。幼い子がいじけている状態に近いかもしれません。そこには、被害者であることにより、安心しようとする心のメカニズムがあるのです。
家の中でお母さんに育てられている幼い頃は、余程のことでもない限り加害者になることはなく、反対になんらかの被害者でいる場合がほとんどかもしれません。親に100%依存しなければ生きていけない弱者ですから当然とも言えます。この幼い頃の被害者であった自分の立場をいつまでも利用して生きている人がとても多いのです。被害者の意識と100%親に依存して生きている幼い意識とが互いに固く結合してしまうと、精神的に自立して行くことを自ら放棄してしまうようになり、大切な自分の一生を棒に振ってしまうことになるのです。
被害者の意識の怖ろしいところは、無意識的に自らを被害者たらしめようとするために、現実の世界で加害者を自分に引き寄せてしまうのです。そうやって、被害者になってしまう機会を増やすことで、断続的に他人の目からも自分自身の目からも被害者であるようにしてしまうのです。どうしても被害者でいることが難しい場合には、理不尽とも言えるような一方的な見方を使ってでも自分を被害者でいさせようと頑張ります。
また過去に被害者であった自分の経験を何度も繰り返し思い出すことによって、かつて被害者であった栄光を繰り返し利用しようとすることもあります。表面意識では、自分はなぜこんな忘れてしまいたいようないやなことばかりを何度も思い出してしまうのか分からないのですが、そうすることで現実に立ち向かおうとする代わりに被害者の立場を守ろうとするのです。こうなってしまうと、毎日の生活は大変悲惨なものになってしまいます。
ではどうやったら被害者の意識から脱出することができるのでしょうか?まず本質的には、加害者も被害者もないということを理解することが必要なのです。現実に起きることはすべて自分の学びのために自分が起こしているという考えを利用すると、害というものが世の中からなくなってしまうのです。害というものを学びと置き換えてみれば、加害者は加学者となり、被害者は被学者となるのです。
他人を変えようとするのではなく、自分を変える必要があるのだとはっきりと決意することも大切です。被害者の意識というのは元々は幼い依存心を利用しているため、自分のことを分かって欲しいの一点張りなのです。これでは人間としての成長を望むことはできなくなってしまいます。夜寝る前にその日の自分に起きた出来事を振り返ってみて、被害に遭ったと感じることがあったとしたら、自分は被害者ではないと強く自分に言い聞かせることが効果的です。
他人に対して愚痴を言わないようにすることも大切なことかもしれません。満たされない気持ちを誰かに聞いて欲しくて、そのたびに話を聞いてくれる人を探して何時間も愚痴を言うのも完全な被害者の意識に他なりません。自分がどれだけ被害を被っているかを訴えたいのです。自分の辛さを分かって欲しいと懇願している幼い意識の現われなのです。愚痴を何万回話しても自分の人生がひとつもよくならないことは本人が一番よく知っているのです。
自分の心の中にあって、被害者の意識が一つの意識として活動するためのエネルギー源となるものは、実は幼い頃に不当に溜め込んだ様々な感情たちなのです。自分の心の中にも被害者の意識があるかもしれないと感じるのでしたら、今日からでもその源となっている不安や怒りなどの感情と向き合って開放してあげることが何よりも一番大切なことだと気づくことです。そして加害者でもなく、さりとて被害者でもなく、学びがすべてだという意識を強く持って生きていくことが人生を満ち足りたものに変えて行くことに繋がるのです。