決して解けない謎

非二元の気づきがやってきてからは、これまで以上に人生の全てがただの物語だということになってしまいました。

それまでも、人生物語という言葉は使ってはいたのですが、その頃使っていた「物語」というのとは今はわけが違います。

以前は、物理的に我々は生存していて、その中であらゆる悲喜こもごもの事がやってきて、それはまるで誰かが書いた筋書きのような、ということだったのですね。

ところが、今感じている物語という意味は、丸々なにもないし何も起きていないにも関らず、あたかも物語が起き続けているように感じているということ。

この両者の違いは決定的なのです。今でも不思議でたまらないのですが、何もない世界でなぜこのような直接的な体験だけがあるのか?

物語の中では、様々なルールがあったり因果の法則などがあって、それを元にしてセラピーをしてきたわけです。

だから仮想的な物語内の法則が変化した途端に、私が行ってきたセラピーは何の役にも立たないものになってしまうはずなのです。

もっと破茶滅茶で全く捉えどころのないことの連続として、この世界の見かけが起きたとしても不思議ではないのです。

だから本当に不可思議で仕方ありません。こうした謎は決して解くことのできないものなのでしょうね。

「気分上々」を作り出すメソッドを探す

お酒が飲めない人には分からないかもしれませんが、身体にアルコールが回り始めると、フワッとしたいい気分になれるのです。

私の場合は、大抵が飲み始めにそれがやってきて、それ以降はその状態をキープしたくて飲み続けるという感じです。

また、内視鏡による胃腸などの検査の際に、鎮痛剤のようなものを点滴されるわけですが、その時も似たようなフワッとしたいい感じになるのです。

そのようなアルコールや薬物の力を借りなくても、あのいい気分に自力で持っていくことができたらすごくいいだろうなといつも思うのです。

瞑想してしばらくすると、やや似たような気分になれることもあるのですが、今はちょっとやる気が起きないのでそれは使えません。

それに、瞑想している状態の時だけではあまり意味がなくて、できるならごく普通の生活の中でそれを体感できたらいいのになと。

ただ実は、何の脈絡もなくそんないい気分になることもあるのですが、それを意図的に引き寄せることができないのです。

せっかく非二元の気づきによって、どうせ何もないし誰もいないし、空間も時間も幻だと分かったのですから、これをどうにか有効利用できないかなと。

今年はそんなことを少し真面目に実践して行ってみようかなと思っています。実際に効果のでる具体的な方法が見つかったら、当然皆さんにお伝えしますね。 

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二元に非らず、で軽やかに生きる

サラリーマン生活にピリオドを打ったのがちょうど西暦2,000年なので、今年で25年、四半世紀の最後の年に入ろうとしています。

セラピストになってからは24年経ったわけで、本当にあっという間の毎日だったような感じがしています。

言ってみれば、世捨て人のような日々を送ってきた24年間だったなあと。それでも何も目標がないのは辛いので、覚醒することだけを唯一の目標として生きてきたのですね。

そのたった一つの望みが昨年断たれてしまって、何だかなあという毎日。その元となった二元に非ずの現実の本質を見ることになって。

毎度のことながら、何のイベントごともないお正月を淡々と過ごしつつ、今年は一体どんなことがやってきてくれることやら。

流石にもう、非二元を超えるようなとんでもないものが、次に来るとは考えにくいし、何もないし、宇宙もないを超えるものはありえないですね。

どうせ物語はこれからも続いていくわけだから、できることならなるべく快適に過ごせたらいいなと。

そして何がやってこようとも、いいも悪いもないし、ただあることがあるだけなので、気楽と言えば気楽にやっていけそうな気がしますね。

気づく前の自分が懐かしい

今日は特別に書きたいと思うことがないなあと思って、これまで書き綴ってきたこのブログの過去記事をちょっとだけ見返していたのです。

すると、ちょっと感慨深い気持ちになったのですね。というのも、ほんの数ヶ月前までの自分と今の自分があまりにも違うことに気づいたから。

15年に渡るブログの歴史の中で、少しずつ何らかの変化があったとしても、概ね一貫した内容のことを書いていたのです。

ところが、非二元のちょっとした気づきを境に、足元から根こそぎ覆されたような感じになってしまったのです。

今となっては、これまでの自分が妙に懐かしく感じるのです。それと同時に、もう二度とあそこには戻れないのかなあと。

あの頃は無邪気に覚醒したいと思っていたなあと。それ以外には、何の望みもなかったのに、今はそれさえも取り上げられてしまった感じで。

誰とどんな話をしても、その全てが物語でしかないということを深く感じてしまうので、会話の腰を折らないようにと。

ふと思い出されるのは、今年の春頃、新居が完成する前の数ヶ月間、近所のアパートの一室でやたらと毎日瞑想ばかりしていたこと。

今更ですが、なんで実体がないことなんかに気づいちゃったんだろう??

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主観も客観もない

事実というのは、今すでにある「これ」のことです。イメージによって仮想的に作られた空想の世界とは違うものです。

そして事実には、主観的事実というものがあります。私にとっての事実であって、他人にとっては定かではないようなもの。

宗教というのは、この主観的事実に基づいているということが言えると思います。またその逆に客観的事実というのもありますね。

要するに、普遍的で誰にとっても共通する事実のことです。科学というのは、当然の事これをベースに成立するものです。

ただし、よくよく見てみると客観的事実というのは個人にとっては、やはりイメージなんですね。なぜなら、直接体験ではないからです。

地球は太陽の周りを回っているという事実を、私たちは直接的に体験することはできないからです。

つまり、突き詰めれば個人としての我々にとっての事実というのは、主観的な物だけになるということです。

その上で、非二元では主観も客観もどちらもありません。なぜなら、主観を持つ当事者が不在だからですね。

何だか分かりにくい話かもしれませんが、本当はすごくシンプルなんです。何もないし誰もいないので、ただあることだけがあるのですね。

「見えたまま」は難しい

「見えたままをそのままには見ていない」ということを表現しようとして、このブログの最後に以前撮影した動画を添付しました。

この動画のサムネイル画像を見て欲しいのですが、多分誰もがこの画像を見て、「ああ、バイクに乗っている人の視線だね」と思うはずです。

これがもうすでに、見えたままを見てはいないということなんですね。簡単に言ってしまえば、なんらかの説明をしてしまっています。

私たちは、何かを見ると必ずと言っていいぐらいに無意識的にそれについての説明を始めてしまうのです。

ただ眺めるということが、ほぼできなくなってしまっているんですね。この画像であれば、走っている場所を想像したりもしますね。

他に誰も写っていないので、空いてていい道だなとか、きっと男性がバイクを運転していて、こんなヘルメットをかぶって等々。

勝手にドンドン妄想が膨らんでいくわけです。けれども、本当は誰もバイクを運転してるわけでもないし、バイクもありません。

びっくりするかもしれませんが、そのようなものが見えているという感覚だけがあるというのが、本当のところです。

バイクの一部が見えているとか、乗っている人の手首から先が見えていると決めてかかっていることにも気づかないのです。

何も知らない赤ちゃんの目は、きっとそんなふうには見えていないはずですね。 

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直接体験だけがある

昨日のブログでは、直接体験だけを頼りに生活している、アマゾンの少数民族ピダハンにまつわることを書きました。

なぜ彼らが世界一幸せな民族と言われているかというと、きっと驚くほどシンプルな生き方をしているからなのだろうなと。

彼らにとっては過去も未来もないし、見えている世界だけが彼らの住む世界なのですね。だから、ストレスとか気を揉むといったことがほぼないのですね。

彼らが特別な世界に暮らしているわけではなく、私たちと全く同じ世界にいるのですが、その違いは歴然としています。

私たちは、これまでの過去の体験を全部背負って生きているし、未来という不安要素も捨て去ることができずにいるのです。

そしてもっともっとという生き方から離れることができなくなってしまったのですね。人生は単純だねと感じている人は少ないのではないかと。

「複雑な人生=苦悩」というわけではないと思うのですが、少しでもピダハンたちを見習うことで、もっと穏やかで楽しい人生に持っていけたらなと思うのです。

そしてもっと究極的なレベルまで現実を単純化したのが、非二元ということになるのですが、それに気づいているだけではピダハンのようには到底なれませんね。

「イビピーオ」を思い出す

以前このブログでご紹介した、アマゾンの少数民族「ピダハン」の生き方が、やはりとても興味深いのですね。

忘れてしまった人のために、以下が過去の記事です。ちなみに、このブログの検索窓に、ピダハンと入力して検索していただくことも可能です。

ひねくれ頭 – ヒーリング オフィス ルシッド

世界で一番幸せな民族 – ヒーリング オフィス ルシッド

彼らの生き方というのは非常に単純で、目の前にある、あるいは目の前で起きていることだけを信じているのです。

だからこそ、隣村から誰かがやってきた時には、みんなで「イビピーオ」と叫んで、その人の出現を見守るわけです。

それまで隣村の人のことなど全く頭に浮かばないということでしょうね。そして、その人が帰っていく時にも同様にして「イビピーオ」と叫んで、その消滅を表現するのです。

つまり、世界一幸せと言われている彼らにとって、直接体験していることだけが「世界のすべて」だと気づいているということです。

それに比べて、私たちの生活のほとんどは直接体験以外の仮想的なことに、多くのエネルギーを費やして生きているのですね。

そして最近さらに気づいたのは、直接体験の中でさえ、私たちはたくさんの概念やら観念やら思い込みなどで創作してしまっているということです。

そこに気づくことができると、非二元のことが薄々分かってくるはずですね。

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自我どころか、この身体も世界もなかった!?

この仕事をするようになって、自我という虚構がどのようにして作り上げられたのかにとても興味を持つようになったのですね。

私の勝手な想像でしかないのですが、乳幼児の時代からずっと、自我として生活している親などの存在を真似ることで、無自覚のまま次第に自我を作り上げるのだろうなと。

わかりやすく言えば、自我というのは他の自我の目線で自分自身を見ているのです。他人の視点を用いて、自分を見ているということ。

あるいは、他人はその身体の中に本人がいるように見えているために、自分もその身体の中にいるように妄想するわけです。

そしてこうした思い込みが強い信念となって、それを疑うことなく生活するようになってしまうということです。

自分以外の誰か(の自我)がなければ、自分という自我も決してでっち上げることはできなかったということです。

身体の中に自分がいるという思い込みがなくなることってあるのでしょうか?不可能ではないかもしれませんが、相当に難しいことでしょうね。

そうした強い思い込み、信念から解放されたくてずっと瞑想を続けてきたのですが、今度は自我どころか身体も外側にあるはずの世界も、その全てに実体がなかったとなって…。

何もかもお手上げ状態で生きていくしかない。そうして本当に諦め尽くした時に、何かがフッと明確になるのかもしれませんね。

全く意味のない奇跡的な体験

中学生か高校生の頃だったと記憶しているのですが、確か夕方一人で家にいる時に電話がかかってきたのです。

昔懐かしいあのプッシュホンの電話機ですね。受話器を取ると、いきなり「ピーポーパー♪」っていう大きい音がしたのです。

えっと思って、「もしもし、もしもし」と言うと、まだまともに喋ることができないくらいの幼い子の声で「ハフハフ、ホニョホニョ」と言っているのです。

これ、ひょっとして赤ちゃんじゃない?と。誰かがイタズラで自分の子供に喋らせて、後で実はといって出てくるのかなと。

でも、いつまで経ってもずっとわけのわからない幼い子の声が、耳元で囁くように聞こえてくるのです。

これはもう仕方ないなと思って、こちらから電話を切ったのです。後で、何が起きたのかを反芻していて驚いたのです。

というのも、親が電話をかけるのをマネをして、赤ちゃんがランダムに電話機のプッシュボタンを押してるわけです。

その押す順番が、奇跡的に我が家の電話番号になっていたということで。これは、相当に驚くべきことではないかと。

その確率をざっくりと計算すると、もしも都内のどこかからの電話であれば、当時は7桁だったので、プッシュボタンの個数が3×4=12なので、12の7乗は約3600万分の1です。

もしも、東京以外の場所からであれば、03を追加するので、12の9乗なので、なんと約52億分の1になるのです。

日本以外のどこかの国からであったなら、81をつけて、03の0を取るので、10桁の番号になるので12の10乗ですから、その確率は約620億分の1となるのです。

これはもう天文学的な数字ですので、宝くじが当たる一生分の運を使ってしまったかなあと思ったり。

というわけで、全くなんの意味もないヨタ話でしたが、不思議なことってあるものですね。

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