何事も信じてはいけない

「信じる者こそ救われる」と言った言葉があるように、疑い深い人よりも信じやすい人の方が一見良い人のような印象がありますね。

けれども幼い頃ならともかく、自分自身で物事を捉えるようになっていく時に、誰かの言葉をそのまま信じてしまうなら、そこには成長を見込むことができないのです。

信じてしまえば、そこでストップしてしまうからです。自ら検証しようとしなくなるのです。それは、信じないという態度と全く同じなのです。

信じても信じなくても、探究をしなくなるのです。それだけでなく、信じるということは自分にとって都合のいい場合に限るのです。

そして一度信じてしまうと、人間はそれを大切なものだと思うようになるし、それが正しいことだとも思うようになるのです。

つまり、信じたことに執着することになるわけです。すると、それを否定された時に、正しくないと言われた感じになってしまい、自分を否定されたと勘違いするかもしれません。

信じることには、どんな意味もないし、どんな力にもならないのです。そればかりか、強く信じ込めばそれは信念となって、生涯自分を縛ることになるのです。

なぜなら、信念を信念と見抜く代わりに、それが真実だと感じるようになってしまうからです。それはでっちあげられた世界を信じて生きるようなものです。

これが私たちが暮らしているこの二元の世界なのです。非二元の探求を通して、そうしたウソを鋭く見抜くことができるようになるのですね。

非二元の探求が二元の世界での生き方を変える

非二元の話をすると、あまりにも非常識過ぎる内容なのでほとんどの人々からは、そっぽを向かれてしまうでしょうね。

それはそれで当たり前のことですが、でも非二元に興味や好奇心を持つ人もいるわけで、そういう人にとってはちょうどいい探求のターゲットなわけです。

ところが最近は、それだけではないかもしれないなと思うようになりました。というのも、非二元そのものではなくて、非二元に気づこうとする時の方法が大事なのです。

二元の世界が本物ではないというのは、イメージを使って我々が生活してしまっているからなのです。リアルなものは、この世界にはほとんどありません。

その全ては作り物、でっち上げられたものばかりに囲まれて、私たちは生きているのですが、そのことに気づいていないのです。

そのことを見抜くことができれば、自然と非二元が本当の現実というものの本質なんだと気づくことになるのです。

だから、非二元がこうだああだということに興味がなくても、イメージをイメージとして見抜くことができると、この二元の世界でも生き方が大きく変わってしまうはずなのです。

それはきっと、過去や未来に捉われずに、今この瞬間に在るというシンプルな生き方になっていくはずなのですね。 

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ダグラス・ハーディングと非二元

今から14年前にハーディングさんの本と出会って、初めてその実験をしてみた時に、びっくりする体験をしたのですね。

このことはもう何度となくこのブログでもお伝えしているのですが、自分の顔と頭が消えてしまうという体験だったわけです。

自分の身体というのは、こうなっているという一つの明確な自己イメージを誰もが強く持ってしまっているので、実はそれがその実験の邪魔をするのです。

その自己イメージを瞬間でもいいので脇に置くことができさえすれば、誰もが無努力で頭が消える体験ができるのです。

最初の1秒で誰もが真実を見てしまうということが可能なのだと。どんな修練も修行も全くいらないのです。

ただし、人は強い信念と習慣の中で生きているので、それと反することは何度も繰り返してじっくりと熟成していく必要はあるのです。

日頃お伝えしている非二元と最も違うところは、被験者の体感ベースだということ。それ以外にはああだこうだということを主張しないのです。

そこがスマートですよね。モノの実体がないとか、時空もないとか、誰もいないと言ったことは一切言わないのです。

そういうことは人から聞いて理解するようなことではないよと。実験を通して、自分で気づけるはずだからと。

ハーディングさんが非二元のカテゴリーに含まれるかどうかなんて、ホントどうでもいいことだと気づきます。

私自身は、最近まずハーディングさんの実験から入って、明らかに自分は人間としてはいないと分かって、更にコレだけがあるということに気づく流れかもしれません。

自己イメージの崩壊

できる限り正直になって見つめてみると、肉体的な自己イメージであれ精神的な自己イメージであれ、全部リアルなものではないなということに気づきます。

そもそも自己イメージと言ってしまっているのですから、単なるイメージでしかなく、リアルなものではありません。

なぜ自分のことをトータルに表現するのに自己イメージという言葉を使ってしまうかというと、それは過去の集大成からやってくるからです。

今この瞬間には自己イメージはありません。特に幼い頃に作り上げてしまった自己像を後生大事に持ち続けてきたのです。

あくまでも過去のものなので、イメージでしかないのです。非二元では、リアルではないイメージは全て排除するのです。

そうすると、たった今あるコレのことが明確に分かるようになるのです。そこには、本当に知っているものは何もありません。

どんな自己イメージも、個人である私も、私の身体も何もないということに気づけます。ただコレがあるだけ。

見ることも聞くことも触れることもイメージであって、実際にあるのはただのコレだけ。

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いつもあるコレに気づくこと

いつか覚醒することを夢見て、それを目指して日々瞑想をしていた時のことを思い出すと、かなり自我だったなあと思うのです。

瞑想状態に入っていくと、それなりにいい気持ちになれるわけです。一体感のようなものがやってきてくれたり、身体が拡大して全体になった感じになれたり。

あれって実は身体がメインとなった気持ちよさなのですね。なんならちょっとした恍惚感のようなモノを感じることができたり。

覚醒すると、そういう気持ちよさがより強くなった状態がずっと続くのだろうと勝手に想定をしていたのが分かります。

そんな都合のいい状態だけを求めていたわけで、それは本当に自我そのものだなあと。そしてそんなことにはならないのです。

どんな素晴らしい状態がやってきたとしても、それは必ず一時的なもの、一過性のものであっていずれは消えていくのです。

そうしたものを求めていると、今ある単純なコレに気づくことができなくなってしまうのかもしれません。

コレしかないのに、コレ以外の何かを求めているわけですから、これが絶えることのない苦しみを生み出すことになるのですね。

ネタなしで撮影を始めた結果出てきたこと

事務所にいて時間がある時には、なるべく動画を撮影するようにしています。もちろん、それなりにネタがあればですが。

ところが、今日は全く話したいネタが見たらない状態にも関わらず、ちょっとしたチャレンジ精神で撮影を始めてみたのです。

そうすると、普段やっぱり気になっている事柄が出てくるのですね。それは、他人からしたらそんなこと?って思われてしまうようなレベルだろうなと。

けれども、自分ではすごく気持ちのいい状態を妨害されてしまう嫌な出来事があるのです。それは、運転中の他人の行動。

どうやればあんな運転ができるのだろうとか、なぜあんな自転車の乗り方をして怪我せずにいられるんだろう等々。

一つひとつの出来事はほんの些細なことだと重々分かってはいるのですが、他にトピック的なことがない毎日なので、それを利用しているのかもしれません。

自分自身と比較して他人の言動を評価するという、それをずっとやめられずにいるということですね。

期待値と現実との落差で惨めな気持ちになり、それを感じなくさせるための怒りが出るのだと。そういうカラクリは熟知しているのですけどね。

非二元でいくらコレだけしかないと言っていても、その期待値を未来に向けて生活しているということなんです。

根っ子にあるのは、やはり自分という存在が力をなくさずに生き残っている証拠ですね。コレの中には自分など存在していないのは明らかなんですけどね。

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小学生でも分かる非二元

昨日のブログでも書いたように、非二元のお話というのはどのように感じたとしても、決して何かの教えのようなものではないということ。

だから、言ってみれば小学生でも分かるようなことしか言ってないのです。知的な解釈など全く使わないのです。

ちょっと本気で、小学生を相手に話をするというつもりで、言葉を選びながら試してみたいなと思ったりしています。

きっと、概念とか観念、信念、この辺りの言葉を使わずにいれば、きっと伝えることができるのだろうと。

代わりに、強い思い込みが邪魔をして、今あるものを今ある通りに見ることを難しくしていると言えばいいのかなと。

ただ単に見るということがどれほど難しいことになってしまっているのか、ここに気づくことができればいいわけです。

種々の思い込みを使わないようにして、感覚的な知覚だけにとどめていられるようにするということに尽きますね。

例えば、ものすごく素晴らしい絶景を前にすると、人は言葉を失うというような状態になったりしますね。

あれです。言葉を失うというのは、思考が動かなくなったということ。どんな思い込みも飛び越えて、ただ見たものに対する衝撃の中にいるということ。

あれを意図的に起こすことができれば、もう非二元はすぐそこにありますね。 

どんな前提知識もいらない

最近、世の中で名のある宗教や哲学などに、非二元と近いものがあるのではないかと思って、表層ではあるのですが調べてみたりしたのです。

ほんの少し調べてみただけですが、それでもこの世界は幻想だと言ったような教えというものは、普通にあるということが分かりました。

ところが、そう言った宗教や哲学(学問)というのは、難しそうな分厚い書物がたくさんあって、それらを理解しなければならないわけです。

そうなると、一般人がおいそれとその中に入って勉強するというわけにもいかないのです。それなりの決意が必要です。

一方の非二元に関しては、そうした書物も何もないし、逆にあらゆる知識を排除することが必要なことなのです。

そういう意味では、とても稀有なモノなのかもしれないですね。読み物を読んで一つ一つ学んでいくというのが苦手な私のような者には適しているなと。

ダグラス・ハーディングの実験にも似たような感覚があります。とにかく正直に実践することだけを促されるわけですから。

誰かが書いた教義のようなものを読み解くには、理解力が必要となるだろうし、勉強が苦手な人には向かないのです。

というわけで、非二元によって驚愕の事実を垣間見ることができるのに、どんな前提知識もいらないのですから、そこは素晴らしいなと。

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選挙カーはマナー違反

また人迷惑な選挙の街宣車が横行する時期がやってきましたね。選挙には毎回、期日前投票に行くことに決めているのです。

だから、しっかり選挙には参加しているのですが、どうしてもあの選挙カーだけは好きになれないのです。

特に、自分の名前だけを連呼するような愚行をいつまで続けるつもりなのだろうかと。ただただやかましいだけ。

事務所の前も大通りがあるので、そこを選挙カーが通ると催眠療法の誘導を邪魔されるし、YouTubeの動画撮影も邪魔されます。

ひどいのになると、静かな住宅地の狭い路地の方まで入ってきて、赤ちゃんの昼寝を邪魔するわけです。

もしも自分が立候補したとしたら、あれをやっぱりやることになるのかなあと思った時に、流石にそれは無理だなと。

国会議員の選挙だろうと、地方の選挙だろうと、立候補者がネットで情報を発信するだけにして、街でがなることを辞める時代に早くなればいいなと。

余談ですが、「私を男にしてください!」だとか、「どうか、私を助けてください!」のようなことを訴える立候補者がたまにいますが、全く意味不明ですね。

唯識論のこと

以前にも確か一度ブログに書いたことがあったと思うのですが、仏教哲学の思想の中に唯識論というのがあります。

到底誰かに説明できるような知識は持ち合わせていないので、内容については深く触れることはできませんが、その唯識のなかに「阿頼耶識」というのがあるのです。

この阿頼耶識という言葉を聴いた時に、不思議に初めて聴いた感じがまったくしなくて、変だなあと思ったことがあったのです。

言葉の既視感(デジャヴ)なんて実際あるのかなあと。学生の時か何かにどこかで聞き齧ったことがあったのかも知れません。

今回少し調べてみたら、唯識論というのは非二元と近いようなことを言っていて、この世は幻想だと。

世界のあらゆる現象は、究極的には意識の表れに過ぎないのだと。非二元と異なるのは、阿頼耶識にある情報が瞬間瞬間に表出するのだと。

そしてそこから得たフィードバックが阿頼耶識に返されて、瞬間ごとに阿頼耶識の内容がアップデートされるらしいです。

非二元はとことん正直な態度をとるので、そういった阿頼耶識のような普通に認識することのできないものはイメージとして却下するのです。

そして、表れについてはまったく理解不能としておくわけです。そこを何とか解決しようとして、阿頼耶識なるものを考え出した人々がいたということかも知れませんね。

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