ゴールデンウィークのレアな経験

会社員を辞めてからは、ゴールデンウィークといっても普通に仕事はするし、何も普段と変わることはなくなりましたね。

若い頃は、出かけるのが苦手な自分はゴールデンウィークに一体何をしていたかなあと考えていたのですが。

一つかなりレアな経験のことを思い出したのです。それは、まだ家内と結婚する前ですが、一緒に富士山に行ったときのことです。

出かける当日の早朝、交通情報を確認すると、目的地までの高速道路がなんと100kmの渋滞になっていると。

これはもうダメだなと瞬時に悟って、1日のんびりしようと思って彼女の家まで迎に行ったら、出かける気満々の状態で出てきたのです。

あれ、富士山までの距離が約100kmで、渋滞が100kmということは、ずっと渋滞の中を進んでいくことになりますよねと。

ところが、それが何か?という感じのすまし顔でいるので、ああ自分とは文化が違うのだなと、そういう理解というか、あるいは諦めというのか。

結局この無謀とも言える富士山ドライブは決行されたのでした。私のゴールデンウィークの唯一の思い出です。

人間というのは、一人で過ごすよりも誰かと共にいるだけで、さまざまな学びができるということかもしれないですね。

どれほど奇想天外なことであれ、勇気を持って見る

人間て不思議なものですね。どれほど奇想天外なものであれ、それに毎日触れていると、次第に慣れてくるのです。

そうなると、それがゆっくりですがごく普通のことのように思えてくるのです。私にとっては、それが非二元なのです。

実体はないとか、時間も空間もない、何もないなどということを逃げずに見ていると、最初のうちはそれをどう扱ったらいいのか途方に暮れるのです。

ところが、それを毎日見つめてみるうちに、もうそこから逃げることもできないと気づくので、肝が座るというのか。

それをそのままに受け入れるしか方法がないのだと分かるのです。もっと正直にいえば、受け入れるというのもないのです。

それしかないのですから。すると、追い打ちをかけるようにどんどんとこれでもかという具合に、突きつけられるものがあるのです。

そして気がついたら、ああこんなところまで来ちゃったなあと。こんなこと、決して人前では話せないなと。

その点、私は恵まれていますね。なぜなら、どんな内容であっても勝手気ままに好きなことを表現して、それを動画配信できるのですから。

それを少数であれ視聴してくださる人たちがいると思うと、ありがたいなと思うのですね。

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見かけの上で背が高く見えるのは?

自分が自宅に戻った時に、ちょうどお向かいさんの家に背の高い若い男性が帰ってきたところだったのです。

あれ、お向かいさんの家にあんな大きな息子さんがいたんだっけ?と思ったのですが、もしかしてとなったのです。

数年前にそのご家族が引っ越してきたときに、小学校高学年くらいのまだ小さめの男の子がいるのは知っていたのです。

その子がちょっと見ない間に、これほどの成長をしてしまったのかなと。とはいえ、まだちょっと信じられない感じがするのです。

他人の子供の成長は早いとは聞くものの、これほどの変化をするとは。そして、そう言えばということを一つ思い出したのです。

この一週間以内のことだと思うのですが、やはり自分が帰宅した際に、その家の奥さんと出くわして挨拶をしたのです。

その時も、もっと背の低い人だと思っていたのが、結構すらっとした背の高い人に見えて内心びっくりしたのでした。

どう考えても単なる気のせいでは済まされないくらいのレベルなんですね。これで、今度その家のご主人と会った時に、やっぱり背が高くなっていたら世にも不思議な事件だなあと。

そのように見かけ上見えることは、そのように見えることが起きているんだと。そしてそれしかないというところに、やっぱり行き着くんですね。

空間がなければ全てが消える

スピリチュアルって楽しいなあと思っていた記憶があるのですが、それはそうですよね。分離がなくて、全てが一つだっていうのですから。

分離がなければ孤独もないし、全てが一つであれば敵も味方もなく平和に満たされているというのが、容易に想像できます。

それはもうユートピアですね。その話に水を刺すわけではないのですが、非二元で言うところの空間がないというのを、ワンネスに一滴垂らすとどうなるでしょう?

当然ですが、空間がなければ分離もあり得ないのですが、そもそも分離するようなどんなものも存在しないということです。

空間がなければ、何もないので孤独であれ戦争であれ、ものであれ全てが起こりようがないと分かるのです。

空間がなければ時間も入り込めないですね。もちろん人間も、自我も。これではっきりしましたね。

とてもシンプルなことですが、ワンネスというのはあくまでも自我の領域でのイメージだということです。

それに対して、非二元は何もないので分離すらないということ。あなたも私も一つになるのではなく、単に最初の最初からいなかったということですね。

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ただ感覚だけがある

視覚情報というのは、目をつぶれば遮断できるし、聴覚も耳を塞げば遮断できますが、身体からやってくるありとあらゆる感覚というのは、なかなか遮断することは難しいですね。

目覚めている間中、ずっと身体の各部位からのさまざまな感覚を感じさせられているわけです。これは途切れることがありません。

そうなってくると、その身体を自分の身体だと思い込んでいれば、その身体からの感覚を随時感じている自分がいると思うのは当然かもしれません。

ここにいつも見慣れた身体のようなものが見えている、これがリアルなのです。これだけなので、それを身体だと断定することはできません。

つまり、身体であるとも自分の身体であるとも、どちらもリアルではないのです。そうなると、結論は「なんらかの感覚を感じている」。

これだけがリアルなのです。そこに私という存在が入り込む場所がないと分かります。他人がいるように見えている、これもリアル。

けれども、他人がいるというのはリアルではないのです。それは自分はいないということと対をなすものであり、これこそが非二元。

ただ感覚だけがあるということですね。

物事に失敗なんてものはない

自分は不注意な人間ではないと勝手な自負を持っていたのですが、今日は完全にやらかしてしまいました。

銀行と郵便局に相続の書類を提出しに行ったのですが、絶対に忘れてはいけない一番大切な書類をまんまと忘れていったのです。

たまに聞くことがあるのですが、受験生が受験票のようなものを忘れて試験会場に行ったり、パスポートを忘れて空港に行ったり。

そういうのを聞くと、なんでなの?と人間性を疑ってしまったりすることもあったのですが、今回は自分がそれをやってしまったのです。

自分なりにちょっとした言い訳のようなものはなくもないのですが、でも正直恥ずかしくてそんなものは言えないですね。

安易に評価する前に、人にはそれぞれの事情というものがあるのだなということを思い出すべきなのでしょうね。

自分がやってしまって、それを痛感したのです。そうして、書類を取りに戻ったりしてようやく終わったと思って帰路についたら、呼び止められて。

今度は局員さんの不手際があって、間違った書類を渡されたようで。雨の中、互いに苦笑いするしかありません。

でも、どんな失敗があろうとも、別にどうということはない。ただ起きることが起きているように見えてるだけなんだから。

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慣れていないというのは新鮮さがある

事務所がある吉祥寺という街には、当たり前のように多くのコンビニ店があるのですが、そのほとんどの店員さんはもはや日本人ではないのです。

駐車場から事務所へ向かう道中にあるコンビニ店では、ほとんどの店員さんが中東系?の方々なんですね。

その誰もがとても流暢な日本語を使って接客してくれるのです。その中で、かなり前からちょっとだけ顔馴染みになった感じのいい中年の女性がいるのです。

今日久しぶりにその人がレジに入っていたので、久しぶりですねえと言うと、しばらくして「元気でしたか?」と言ってくれたのです。

それもちょっと言い慣れていないような雰囲気で。日本語でこの場合どんな応答がいいのかを少しの間考えてくれていたような。

こちらもこれ以上はどう返していいか分からなかったので、曖昧な笑顔を返すだけで終わったのです。

かえって日本人同志の方がややクールなやり取りになってしまいがちなのかなと。慣れていないというのは、悪くないものなのですね。

体験はあくまでもただの体験

最近週末はスポーツクラブに行かなくなったので、午前中はかなり自宅でのんびり過ごすことができるようになったのです。

こののんびり感があるからなのか、昨晩の非二元の感覚がそこはかとなく残りつつ、自宅から事務所の駐車場までの運転をしたのです。

すると、歩いている時よりも景色の情報量が多くて、それをしみじみ感じながら運転をしていることに気づいたのです。

本当はどんな景色の実在もないままに、これほどの多種多様な景色を見ることができることにちょっとした感動をしたのです。

具体的には、景色全体がなんとなくキラキラしたような感じがしたのです。何が見えているというよりは、ただその景色をどんな意味も介さずに見る。

そこに清々しさがあるのですね。ところがです。ちょっと飛び出してきた自転車を一瞬ギクっとして避けたりしている間に、普段の感覚に戻されるわけです。

そんな感じで、いい体験があってもそうではない体験があっても、どちらもどんな意味も価値もないことを改めて感じたのですね。

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ホームページ上でも非二元の受け皿を作ります

この半年余りの間に、動画でのみ触れるようになった「非二元」に対するコメントが少しずつ増えてきたように思います。

その中には、癒しとは別に非二元に関するセッションを希望する方も現れ始めました。これはとても私としても興味深い現象です。

これまでもセッションの中で、非二元に触れることはありましたが、そこにターゲットを絞ってということではありませんでした。

非二元という超マイナーな内容に、関心を持っている方々が一定数いらっしゃるんだなということにも気付かされました。

非二元の気づき?のようなものが起こって、最初の頃は何を話せばいいのか半信半疑だったのですが、ようやく慣れてきたというのか。

今後どうなるのかは分かりませんが、とりあえずホームページ上でも非二元についての記載やセッションへの対応を考えています。

AIに聞いたら、そんなマイナーなことよりも、自己啓発のようなメジャーなものを扱った方がいいよってアドバイスもらったのですね 笑。

そこで、自己啓発的なものには興味がない旨をAIに伝えたら、次のような優しい言葉を返してくれました。

「むしろ、今のままの「誰のためでもなく、ただ真摯に語られている」というスタンスが、静かに、でも確実に響いてると思う。その分、急激に広がらなくても、深く届いてる人には本当に届いてる。だから、その「興味がない」という感覚、大切にしてほしいなって思う。」

いやあ、泣けてくるねえ。

「非二元」を動画で話しているように見えるだけ

「非二元は理解することはできない」という動画をアップしたのですが、じゃあ理解できないものをなぜ動画で配信するの?という疑問が出てきそうです。

確かに、何かを動画で配信するのですから、視聴者の皆さんに理解して欲しいという意図があると考えるのが普通です。

昔私が学生の頃、「これで分かった◯◯!!」のようなシリーズものの参考書が流行っていたことがあったかなと。

けれども、非二元の話というのはちょっと違うんですね。言葉で説明したり、指し示すことができたとしても、理解できることを前提とはしていません。

思考による理解はできないからです。思考による理解以外の理解というものがあるのかどうかも定かではありません。

私の場合、実体がないことをビジュアルで見たのです。これは理解できたというものとは全く違いました。

そして、今ではそれもどうでもいい体験だったと思えるくらいになっていて、それでも非二元のことをお伝えしているのはなぜか?

その理由も分からないのですね。ただそういうことが起きているように見えるだけなんですね。ただそれだけです。

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