私たちの本性自体が至福そのもの

次のoshoの言葉ですが、これを信じてしまうなら取り逃すことになります。これはどうしても自分自身で検証する以外ないのですね。

『至福は人間に内在している本性だ。それを獲得する必要はない。それは再発見すればいいだけだ。私たちはすでにそれをもっている。私たちはそれだ。それをどこか他の場所に探し求めたら、確実に取り逃がすことになる。探すのをやめ、内側を見るがいい。そこではあなたの人生で最大の驚きが待ち受けている。』

私たちは概念として、至福というものがいわゆる幸福感のようなものとは異なるということを知っています。

言葉で説明するなら、幸福感はなんらかの理由があってやってくるものですが、至福感はどんな理由もなくやってきます。

理由があるものは、一過性であってそれはいずれは過ぎ去っていく運命にあるのですが、理由のないものは永続します。

理由なくやってくるということは、正確に表現すればそれはどこかからやってくるというよりも、我々自体に由来するものだろうと。

上のoshoの言葉にもそうあります。「私たちはそれだ。」と言っているのですから。私たち自身が至福だということ。

それなら普段それに気づかないで生活しているのには、理由があるはずですね。その理由とは、自分の本性を忘れてしまっているということ。

思考優位となって、自我として生きている以上は、幸福を外側に探し求めることをやめられないのです。

一方で、独り静かにしているだけで、そこはかとない「大丈夫感」のようなものを感じますが、それも至福感の一面なのかも知れませんね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

珍しい体験二つ

新居の2階に設置するテーブルとソファが配送される日だったのですが、階段上がってすぐに直角に曲がる通路なので、狭くて荷物が通るかなと心配になったのです。

それで少なくとも、階段の手すりくらいは事前に外しておくことにしたのです。外したのはいいものの、どこにも置いておく場所がない。

というのも、長〜い一本の木製のポールで出来ているので、家の中のどこへも持っていきようがないと分かったのです。

こんな長い棒を一体どこから入れたのか?いろいろ試して分かったのですが、脱衣所に半分入れたりして、本当にギリで玄関から外へ出せることに気づいたのです。

ということは、これを発注した人はこの家の設計図から、ギリギリこの手すりの棒を家の中へ入れることができると知っていたのですね。

私としては、奇跡としか言いようがありません。そして不思議体験がもう一つ。配送のトラックが到着したので、外へ出て行ったのです。

そうしたら、トラックから出てきたお子さんが挨拶してくれたのですが、え?子連れで仕事をしてるんですかと。

彼は、まだ声変わりをしていないので、小学生高学年からよくて中1〜中2が限度。ところが、どう待っても、おじさんとその子供の二人なのです。

結局ごく普通の配送業者のおじさんとその子供の二人で、荷物を運ぶわけです。おじさんは、ひたすらその子供を叱るのです。

その手の持ち方では力が入らないだろうとか、全てが命令口調だし、あれ、家の中でパワハラを見させられてる?

彼らの仕事ぶりを見ないようにして、時が経つのを待ったのですが、最後は何事もなかったかのように彼らは所定の仕事を終えて、戻って行ったのです。

今日1日で立て続けに珍しい体験をさせてもらったなと。それにしても、あのお子さんが今日のあんなことで働くことに拒絶感を持たなければいいなと思うのですね。

二種類の自己イメージ

この仕事を始めた頃のことなので、もうかれこれ20数年も昔のことですが、隠された自己イメージはないだろうかと思って、それを見に行こうとしたのです。

やり方はいたって簡単なのですが、貧相なイメージ力を駆使して自分のマインドを戸建ての家のように見立てるのです。

そして、地下室へと降りて行った先にある、ちょっとした開かずの扉のようなものを開けて、中へと入って行ったのです。

するとそこは、ゴミの山のような空間だったのです。それで、ああ自分はこんなに見たくないものを全部ここに放り込んで生きてきたのだなと。

自己イメージそのものというよりは、これまでの生き方がバレた感じがしたのです。心の深いところにはゴミが溜まっていると。

そんなことを思い出して、今もちょっと似たようなことをやってみたのですが、ゴミが綺麗になくなっているというのではないのですが、少なくはなったかなと。

そして地下から戻って一階と二階に行ってみると、まあまあそれなりの家が出来ている感じがしました。

見栄えはいいのですが、それほど完全に気に入っている家になっているかというと、そうでもないのですね。

この自己イメージとは全く異なるもう一つの自己イメージもあるのですが、それは自分は空間だという感覚です。

自己イメージが空間のようだというのは、これまで一度も言ったことはないかもしれませんが、実はそうなのです。

全く異なる二つの自己イメージがあるのも、面白いものですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

改めて「色即是空」を見直す

般若心経というお経の中に、誰でも聞いたことがある超有名な言葉がありますが、それが「色即是空 空即是色」ですね。

悟りの境地に達したような人が書いたお経なので、私のような素人にはどの程度理解できるのかは分かりません。

ただ何となく、この世界、この宇宙にあるものは全てが空だ、と言っているのだろうなという予想はつきます。

自分が生きているこの世界を見渡してみて、あまりにもリアルなものですから、それらが全て空だと言われてもね。

という正直な自分もいますが、もう一方ではそれはその通りだと勝手に理解できている奴もいるような気がします。

リアルの反対はフィクションということになるのですが、どうしたら全てがフィクションであることを見抜けるのか?

それには、絶えず働き続けている思考(言葉)によって、フィクションを見せつけられていることに気づかねばなりません。

例えば、目の前にテーブルと椅子があるとして、そもそもテーブルとか椅子というのは概念でありフィクションです。

その概念という色眼鏡をかけて、目の前にある物体を見ているのでそれがテーブルや椅子だと判断しているということです。

これと同じことがあらゆることに言えるわけです。自分自身を見る時にも同じことが言えて、何者でもなさに気づけば、自分はフィクションつまり空であると分かるのですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

理想の人生って?

先ほど、とある本を読み始めたのですが、その冒頭で次のような質問がありました。「あなたの理想の人生というのは、どのようなものですか?」

読み進めようと思う前に、ここで立ち止まって考えてしまいました。はて、自分が思う理想の人生ってどんなものかなあと。

そんなふうに単刀直入に聞かれたことがかつてあったかなと。とにかく、答えを出さなければと思うのですが、すぐには浮かんでこない。

例えば、辛そうな人を見たくないので、誰もが楽しそうに明るく笑って過ごしているような世界に生きること。

あるいは、人生が夢であることを見抜いて、自分の本質にはっきりと目覚めること。心身ともに健康で清々しく生きること。

自分で書いていて思うのは、なんとも漠然としていて具体性が何もないのですから、引き寄せるのも難しい感じがします。

一つはっきり分かっているのは、欲望が叶ったところで満ち足りることはないということです。

だから結局は、その欲望の元となる自我から解放されるしかないといったようなことになってしまうわけです。

面倒臭い自我だなあとつくづく気付いた次第です。

人間のDNAが素粒子に影響を与える!?

「この現実を起こしているのは自分だ」というような話しは言葉を変えてあちこちで聞いたことがあると思います。

「人生は自作自演」は、私の創作だし、「思考が現実を作る」というのもあるし、あなたがあなたの世界を作っている等々。

こうした内容の話しはいくらでもあるのです。あるいは、引き寄せの法則だとか、「エネルギーは友を呼ぶ」これは私が作った言葉ですが。

なんとなく胡散くらい感じがする一方で、そういう感覚があるのもウソじゃないし、きっと何かがあるのだろうなと。

こういうことは決して科学では証明されないのだろうと思っていたのですが、それがそうでもないかもしれません。

ある動画で知ったのですが、非常に特殊な実験をした人がいて、かなり信憑性の高いデータが取れたらしいのです。

それは、真空のガラスの容器の中に光子(フォトン)を入れて、その状態を見るのですが、当然各光子はランダムに存在しているのです。

ところが、そこに人間のDNAを入れてみると、何と光子が波のような動きをするようになるのだとか。

そして一旦そうなってから、そのDNAを抜き取っても光子の動きは変わらないのだそうです。これが何を意味するのか?

つまり、人間のDNAが素粒子の動きに影響を及ぼすことができるということ。それもそのDNAの波動に見合った波として光子が動くということ。

これって、私たちの波動が外界に直接的に影響を与えることができるということを物語っているわけです。科学もすごいところに迫ってきたのですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

自己イメージがあなたを決定する

私たちは、普段自分自身に対してどのようなイメージを持っているかと言うことについて、あまり頓着することがありません。

つまり、自己イメージが一体どれほど大切なものかと言うことに気づかずに生きているとも言えるわけです。

ところが、実際にはこの自己イメージこそがあなたの人生を決定づけていると言っても過言ではないのです。

そんな大切な自己イメージですが、どのように作られていくかというと、乳幼児の頃から親などの身近にいる人の反射として知らず知らずのうちにできてきてしまうのです。

だから本人が気がついた時には、もうすでに何らかの自己イメージが形成されてしまっているわけです。

そこからが本格的な人生がスターするとしたら、随分と理不尽な感じがしますね。でもそれが現実なのです。

たまたま、あなたが自分は出来がいいなと言う自己イメージを持っているなら、周囲からもそうした扱いを受けるようになります。

あるいは、自分はダメダメだなという自己イメージを持ってしまったなら、やはりそうした判断を下されるのです。

それはあなた自身があなたに下した判断なので、周囲の人々もそれを感じるのでそのような目で見ることになるのです。

こんな理不尽なことはありません。なぜなら、あなたの自己イメージがどれほど否定的なものであろうと、それは本当のあなたという存在とは無縁のものだから。

この理解が本当に降りてくるなら、自己イメージを変えていくことは可能です。そしてそれ無くして、満足のいく人生を得ることはできないでしょうね。

偽物の「自己肯定感」を見抜く

「自己肯定感」という言葉がありますが、文字通り自分自身のことをどのくらい肯定的に捉えることができるかということです。

自己肯定感が100点満点だとするなら、自分は80点くらいとか、自分は60点くらいかななどのように、人によって違うわけですね。

あるいは、一人の人の自己肯定感が低くなったり高くなったりするということもあるのかもしれません。

人生がすごく順調で、前向きな気持ちで生きている時には自己肯定感が高くなり、反対に病気をしたり、何かの失敗などをしてそれが下がってしまうということがあるのだと。

そしてできる限りは自己肯定感を高い状態で保ちたいのだろうなと。けれども、私の感覚では本物の自己肯定感は揺るがないのではないかなと。

ちょっとした嬉しいことや悲しいことなどに連動して、自己肯定感が上下するようであれば、その自己肯定感は偽物だということです。

それは勝手に本人が作り上げているまがいものの自己肯定感なのです。そして、そのような自己肯定感を生み出す原因は、本物の自己肯定感が低いからなのです。

何かの能力が上がったら、人から必要とされたら、どんどん望みが叶う人生になったら、自己肯定感が高くなるだろうと思っているなら、それは間違いです。

その反対に、どんな自分であれ自分にOKが出せるようになるなら、その時点で自己肯定感が高いとか低いといったようなことを考えなくなるはずです。

瑣末なことにとらわれることなく、自分という存在を丸ごと認めることができれば、自己肯定感という言葉に興味すら持たなくなるはずですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

新しい瞑想の空間ができた

昨年の7月8日に初めて近くの住宅展示場という場所に行って、数ある中のとあるハウスメーカーさんのところへ赴いたのです。

それから一年の歳月が過ぎ、7月5日にめでたく新居の引き渡しの日を迎えました。ちょうど丸一年経ったわけです。

これから引っ越しして実際に住み始めるまでには、まだまだ色々な面倒なことが待っているのですが、それにしてもようやく終わりが見えてきました。

この一年、自分自身は特別何をするでもなく、それぞれのプロの方々が淡々と仕事をこなすことでここまで進んできたのです。

それなのに、何となく自分も一緒になんらかの仕事をしてきたという感慨があるのが不思議なのですね。

今日初めて家の中に入って、部屋などの様子を見てきたのですが、まだ家具も何もないガランとした空間の中で、あれここに住むのかなあと。

今年一番の暑さの中で、エアコンも使わずに冷んやりしているのが奇跡的ですが、空調の音がやや気になるのです。

ハイテクで固められた家の住み心地はいいのかもしれませんが、その一方で瞑想に向いているのかどうかは、まだ分かりませんね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

「必要とされる」って醜悪

貨幣経済、対価経済の最も醜悪なところとは、「自分を必要としてもらわねばならない」という点なのです。

そりゃそうですよね。対価を求め合うわけですから、対価を要求するためには相手から自分にまつわる何らかのものを必要としてもらわねばなりません。

自分も相手に対価を支払うのは、相手の能力や成果物などを入手できた時なのです。これは取引なのですから。

他人から必要とされることの何が悪いの?と思うかもしれませんが、それは非常に醜悪なことなのです。

なぜなら、必要とするということの中には一ミリも純粋な愛が含まれていないからです。愛は与えるものだからです。

必要とするということは、「ちょうだい」と言うことです。「ちょうだい」という形式の愛はまがいものです。

互いに「ちょうだい」をやり合えば、それは当然のこと争いが起きて、それが拡大して民族間や国家間での戦争へと進んでいくのです。

だから、戦争をやめさせたいのであれば、「人は必要とされてなんぼ」という信念をドブに捨てるしかありません。

そのことに私たち一人ひとりが深く気づくことでしか、戦争は無くならないのです。そして、その気づきが私たちの集合意識レベルとなったら、対価経済も消えていくことになるはずです。

そうなったら、人に必要とされているかどうかなどはどうでも良くなり、本当に楽しく清々しい気持ちで生きていけるようになると思いますね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。