記憶を使わずにいる練習が役に立つ

認知症になった母親が時々、自分はどうしたらいいか分からない、と訴えてきます。本当に困っているのが伝わってきます。

通常はもっと具体的な心配事、例えば明日の朝食のことや何時に起きればいいのかなどを訴えてくるのですが、どうしたらいい?という訴えにはこちらも言葉に詰まってしまいます。

母の内面がどのような状態になっているのか察しがつくのですが、それをどう説明すればいいのかが分からないのです。

自分は誰で一体どこにいるのか、そうした最も根本的なことを忘れてしまった時に、そのような訴えがやってくるのですね。

このような状態というのは、意識的に作り出すことができるのですが、ただいきなりは難しいはずです。

日頃から練習をしておく必要があります。瞑想によって思考を止めるか、あるいは記憶を使わずにいる練習をすれば同じような状態になれるのです。

母親が心底困ってしまうのは、認知症になるまでこのような体験をしたことがなかったからなのだろうと思うのです。

高齢になる前から、記憶を使わずにいることで自分が何者でどこにいるのかが全く分からなくなる経験をしておくことです。

そうすれば将来自分が認知症になったとしても、困ることがないのではないかと踏んでいます。

邪魔がなくなるとき

久しぶりにosho の言葉↓を引用したくなりました。

『世間は素晴らしい学校だ。実験し、瞑想し、絶え間なくあなたを邪魔するものに触れていなさい。ある日何もあなたを邪魔しなくなるとき、それが素晴らしい祝福の日だ。』

人生が実験であるということは間違いのないことです。とにかく初めはやってみなければ結果は分からないのですから。

そして結果がどうあれ、結果を手に入れることができた時点で実験は成功裡に終わったことになるのです。

だから実験には失敗というものがないのです。つまり人生に失敗はないということ。あるとすると、結果から学ぶことをせずに何度も同じ実験を繰り返してしまうこと。

逆に言えば、結果から学ぶことができるなら、どんな実験であれ有意義だということです。生きている間にできるだけ多くの実験をする方が得ですね。

そしてあなたの人生には、それを邪魔をするものが必ず立ちはだかると言っているのです。それから逃げずに触れていなさいとも。

それがいつかは邪魔されなくなるとのこと。素晴らしい祝福の日が待っていてくれるのですね。それは私たちの受容力にかかっているのです。

受容するということは欲望が落ちるということであり、その結果はいかなるものもあなたの邪魔ができなくなるということです。

その時には、欲望と共に自我も落ちていくことになるのですね。

人生ドラマの途中で我に帰る

映画やドラマなどを観るとき、あるいはスポーツの試合を観戦するときなど、その中にのめり込んでしまえばそれだけ楽しめることを知っていますね。

夢中になってドラマの主人公と同化したり、お気に入りの選手に肩入れして無我夢中で応援したりして楽しむわけです。

要するに、「我を忘れて」没入するということ。その中に飛び込んで完全に自分のことを忘れてしまうのです。

観終わった時にようやく、ああ面白かったと自分自身に戻ることになるのです。それと同じことを、私たちはこの人生でやっているのではないかと。

とある誰かとしてその人の人生を生きるのですが、完全に我を忘れた状態のままでいるということです。

ただドラマを見たりスポーツ観戦と違うのは、人生では100%完全に我を忘れてしまうため、自分の力で自分を思い出すことができなくなってしまうのです。

場合によっては、一つの人生が終わりを遂げても我に戻ることをせずに、また次の人生へと続いていってしまうのです。

人類の歴史上ほんの一握りの人たちだけが、人生の途中で我に帰ることができたのです。それを覚醒と呼んだりするのですね。

認知症の予防にもなる

認知症が少しづつ進行しつつある母親が時々言うセリフがあるのですが、それは「私はこれからどうしたらいいのだろうか?」というもの。

明日どこへいけばいいのか分からない、何時に起きればいいのか分からない、そうしたことを不安に感じているのです。

1日の記憶のほとんどを失くしてしまうので、そうした不安を訴えてくるのも当然と言えば当然ですね。

その言葉をよくよく吟味すると、いつも未来のことを心配しているのが一つ、そして何をすればいいかを心配しているのがもう一つ。

この二つが特徴だと分かります。要するに、今自分はどうなのか?というところに意識が向くことがほとんどないということです。

今自分はお腹が空いているのかどうか、あるいは何処か身体の具合が悪いところはないのか?こういった現在の自分の状況を見ることをしないのです。

これは認知症だからということではなく、元々の自我の特徴でもあるのです。自我は過去と未来にばかりに目がいくのです。

今どうあるのか、の代わりに明日どうすべきか?を考え続けて、その結果案の定不安をせっせと製造し続けるのです。

現在認知症ではないとしても、こうした生き方を続けているなら、いずれは認知症になる傾向が高くなるのではないかと疑っています。

認知症予防の一つとしては、いつもこのブログでお伝えしているようなこと、常に意識的であるようにして、今ある自分を見守る練習をすることですね。

誰もが人造人間

自我がどのように造られていくのかを知ることは、自我のことを理解する上でとても大きな助けになるのです。

元々は何もないところから自我が造られるわけですから、そういう意味からして自分で自分を造るというわけではないと分かります。

つまり、自我は何らかの外的要因によって造られていくということです。その要因とは、周囲にいる親を代表とする自我のことです。

自我は他の自我によって、それとの関係性の中で造られていくのです。かつてオオカミに育てられた少年少女が発見されたことがありますが、彼らには自我がありませんでした。

それはオオカミには自我がないからです。自我は、自我によってしか造られることはないということです。

つまりあなたという存在は、肉体とDNAを親からもらい、その上で親の自我によって造り出された自我だということ。

あなたがこれが自分だと思っているものとは、何から何まで他人任せで造られたものに過ぎないということです。

あなたの努力がそれに加担したことなどないのです。自分はロボットではなく人間だと思っているかもしれませんが、実は人造人間そのものなのです。

誰もが人造人間でしかないということ。あなたという自我はそういうものです。そのことを深く理解できると、少し生きることが楽になっていくはずです。

自我は特別でありたいと常に願っているのですが、どう気負ったところで仕方がないと分かるからですね。

内側では野生でいる

小学生の頃に「道徳」という授業があったのを何となく覚えているのですが、その授業で何を学習したのかは皆目覚えていません。

要するに、その時の先生には申し訳ないのですが、本当にどうでもいいことを教えられていたのだろうと思います。

そしていまだに、道徳とか倫理といったものには興味を持つことができません。なぜなら、自然界にはそんなものはないからです。

確かに、人間だけが自我を持つことで社会というものを作り、その中で共同生活を営んでいるので、一定のルールは必要なのです。

だから必要最低限度のルール、道徳や倫理というものを守るのは当然のことです。小学生でも分かることですね。

けれども、ここからが本題なのですが、その道徳や倫理を自分自身の中に持ち込んでしまったら、生きづらい人生になってしまうのです。

道徳、倫理は社会の中で他人との関わりの中でのみ意味を持つのであって、自分との関わりにそれを使ってはいけません。

あなたの内側では、常に自然で自由であり続けることです。そしてそのことを意識的に継続することです。

社会ではルールを守る一方で、内側では常に野生であり続けること。そのバランス感覚が大切なのだろうなと思うのです。

自己否定のバカバカしさに気づく

自己否定というのは、誰のマインドの中にも大なり小なりあるものですね。自分がダメなんだとか、自分が悪いというもの。

自分のなんらかの言動に対して、自分が間違っていたと思うのは自己否定ではありません。その間違いを正せばいいだけなので。

あるいは、自分がバカだったというのも自己否定ではありませんね。そのバカさ加減は成長と共に、変化していくようにすればいいだけなので。

けれども、こうした間違いを犯すことやバカさ加減、あるいは未熟さといったものと自己否定を混同してしまう人が多いのです。

例えば、あの時自分がもっとこうすればよかったのに、自分が悪いな。もしくは、自分はなんてバカなことをしてしまったのだろう、明らかに自分が悪い等々。

どういうわけか、自分が悪いということを付け加える習慣が身についてしまっているとしか言いようがないのです。

自分がいるとみんなに迷惑がかかる、だから自分が悪い。自分は努力が足りない、配慮が足りない、優しくできない、だから自分は悪い。

なんだか呪文のように、必ず最後には必ず必須アイテムのように「自分が悪い」を使うのです。心当たりがある人いませんか?

それを当たり前のようにやっているとしたら、自己否定症候群を患っています。これは、元々自分に対する存在否定からやってくるのです。

だからその否定には本当はどんな理由もありはしません。幼い頃に作り上げてしまった存在否定に過ぎないのです。

ここをよくよく理解することができれば、しつこい自己否定症候群から解放されるでしょう。自己否定のバカバカしさに気付けば、それはあっという間に消えていくはずですね。

潜在意識は不眠不休

昨日の朝5時ごろ、何かの物音がして目が覚めたのですが、すぐに母親が転んだのではないかと思って見にいくと、案の定リビングで仰向けに倒れていました。

最近学習した方法で、焦ることなく起き上がらせて室内用の車椅子に座らせてあげることができました。

大きな音がしたというわけでもないのに、我ながらよく目が覚めてくれたなと、不幸中の幸いだったと胸をなでおろしたのです。

最近の母親はいつ転んでもおかしくない状態で夜間に部屋の中を歩くので、心のどこかでそれを気にかけていたおかげで目が覚めたのだろうと。

けれども、眠ってしまっているのになぜ起きることができたのか?それは、潜在意識の一部は眠ってしまってはいなかったからですね。

眠っているからと言って、脳の活動が全停止するようなことはないので、ずっと聞き耳を立てていてくれる部分があるのですね。

寝ている時に夢を見るのも同じことです。夢を創作しているのは潜在意識なので、そこは起きて物語を作っているということです。

とはいえ、睡眠中ずっと脳が活性状態であったりすると睡眠の質が悪化して、脳内に溜まったものを解毒できなくなってしまうのです。

そうなると、それこそ認知症になるリスクが高くなるらしいので、質の良い睡眠を心がけたいものですね。

自我は欲望の運び屋

昨日のブログ「欲望が生まれ変わる」を書いていて、思ったことがあるのですが、今日は続きとしてそれについて書いてみようと思います。

以前ウイルスについての本を読んだことがあって、その中で地球上で最強の生物はウイルスではないかという仮説を立てていたのです。

なぜなら、彼らは自分の肉体を持たないので、肉体を持っている生物の中で繁殖して、種を存続するという戦法を取っているからです。

つまり、ウイルスからしたら他のあらゆる生物は単なる乗り物として使っているということになるのですね。

それと同じようにして、欲望というのは私たち人間を乗り物として存続し続けているという見方ができるのです。

そういう意味では、私たちは単なる欲望の運び屋でしかないのです。それが私たちの役目なのだと考えると、かなりバカバカしい気持ちになりますね。

ニワトリが先か卵が先か?という議論がありますが、それと同様にして人間が先か欲望が先か?という見方もできるのです。

もしも人間が自我を持っていなかったなら、欲望は存続することはできなくなります。要するに、自我と欲望の絶妙の組み合わせで、その永久ループは成り立っているのです。

だから先ほどの議論は、自我が先か欲望が先か?に言い換える必要がありますね。そしてごくごく稀に、そのループを断ち切る人が出てくるのです。

それが覚醒した人ですね。覚醒するということは、自我が消滅してしまうので、それと共に欲望も跡形もなく消え去ってしまうわけです。

自我は欲望を餌に生き、欲望は自我を乗り物として使う。こんな素敵な取り合わせを一体誰が考案したのでしょうね?

欲望が生まれ変わる

今年も最後の月に入りましたね。この月の最初の日は、自分にとってはなかなか忌々しい日でもあるのです。

なぜかというと、誰かの欲望を背負って自分が生まれてきてしまった日だからです。もう生まれて来なくて良かったのに。

もちろん生まれてきたことで、沢山の大切な人と出会うことができたのは感謝しているのですが、それでも生まれて来ないことに越したことはありません。

前の人生を生きていた人も同じような考えだったと想像しているのですが、その人が欲望を残したまま息を引き取ったのでしょう。

だからその欲望のエネルギーが次の人生を求めて新しい肉体を持つことになったのですが、それを引き継いだのが自分だったということ。

こうした説明がまわりくどいので、自分が生まれ変わったと言ってしまえば簡単ですが、正確に表現すればそういうことです。

今回の人生でも、残念なことに欲望が消えることはないように思えるので、私の肉体の死後次の人生へと進んでいきそうです。

次の人にお任せするしかありません。私が残してしまった欲望を、その人がどう料理するのか、天国で見守ってあげたいものですね。