死について その2

昨日のつづきです。

「奇跡のコース」を学ぶことで、死によって何も解決することはないということがはっきり分かったのです。死は生きること以上に幻想でしかあり得ないと感じるようになりました。

しかし、ここで言っている死は幻想だというのは、死んでも魂は残りまた転生してこの世に生まれてくるということを示唆したいのではありません。

実際、催眠療法のセッションにおいて、ごく自然にクライアントさんご自身の過去世と思えるような記憶のところへ戻ってしまうことが時々あります。

ご本人も知らないような昔の家の造りを鮮明に見てしまったり、その時の自分の気持ちや感情が溢れてきてどうしようもなくなったりすることはよくあります。

つまり、この現実を生きている時に負けないくらいにはっきりとした感覚が出てきたりします。勿論、催眠療法のセッションでなくても、普段の生活のふとした時にそういった記憶と思えるようなものが蘇ってくることもあります。

私自身も何度かそのような経験があります。そういった経験によって本人の心が少しでも楽になるのであれば、それはそれでいいのです。

つまり、輪廻転生、過去世や前世などの真偽を議論したりする必要はないということです。それは私に言わせれば、自分の夢の中でどんなことが起きていたかということを議論するようなことだからです。

夢の中で何が起きようと構わないのです。起きているか起きていないかには夢ですから意味はないということです。

大切なことは、夢とはいえ自分がどれだけ聖霊の愛に従って生きる経験をしたかどうかというその一点だけなのです。それは、この現世でも、過去世でも全く同じことなのです。

死について

私はずっと長い間、死んだら目が覚めるのではないかと思っていました。

幼い頃に高熱を出して、夜布団の中でうなされて、そして朝目が覚めたら母や父がそばで自分を見ててくれて、「よく寝てたね、熱も下がったからもう大丈夫だよ。」って言ってくれた、その時のイメージとすごくダブるのです。

寝てる間に何だかひどい目に遭っていたようにも感じるんだけど、でも目が覚めたら自分はしっかりと見守られていて、愛を感じ、いやな夢から抜けられて気分もよくなっていて、何て嬉しいんだろう。そんなイメージです。

だから心のどこかで早くこの面倒くさい人生が終わらないかなあと思っていました。だって終わったら夢から覚めてとても心地いい場所に戻れると思っていたからです。

ところが、「奇跡のコース」と出会ってから、全くそうは思わなくなってしまいました。コースでは、死んでもこの現実という夢から覚めるわけではないと説いています。

我々は生きていても、死んだ後も全く同じ一つの夢の中にいるということです。自分が夢から覚めるためには、聖霊と共に生きてできるだけ純粋な愛の心を取り戻すことがどうしても必要なのです。

なので、早くこの人生が終わらないかなあという気持ちはなくなり、その代わりに今生きている間に出来る限り、愛を取り戻したいと思うようになったのです。

それまでは明確な生きる目的というものもなかったですし、この世界での自分の役割などというものはないと思っていました。だから死がすべてを解決するものと思っていたのです。

今では死によって何も解決することはないということがはっきり分かったのです。死は生きること以上に幻想でしかあり得ないと感じるようになりました。

自分の本当の姿はスピリットなんだということを思い出せば、人間として生きたり、死んだりすることはあまりにも物質的な錯覚でしかないということです。

みなさんはどう思われますか?

英語嫌い

22年間の会社員生活のうち、約16年くらいを外資系の会社にいました。そのおかげで、技術的な資料やマニュアルも英語、本社の人とのミーティングも英語、ということで随分と苦労をしました。

それなりに、英語学校へ通ったりもしたのですが才能がないのか結局ものにならずに、そのまま会社員を辞めて今の仕事に転職してしまいました。

この仕事になってから、もうこれで英語とはおさらばだ、ああよかったと思って8年くらいたった去年、「A Course In Miracles(奇跡のコース)」と出会ってしまいました。

残念なことに、日本語への翻訳がされていないこの本をどうしても読みたいと思ってネットで調べてる時に、個人で翻訳された方がいらっしゃることを知りました。

これぞ神の助け!と思ってさっそく情報をゲットして読み始めたのですが、元々の内容がそんなに簡単ではない上に、言い回しも少し特殊な面があったりして、結局日本語で分からないところは英語の原文をつき合わせて見る必要が出てきてしまいました。

翻訳された方がかなり有能な方なのでしょう、場所によってはかなり意訳されているようで、原文を読んでみると日本語で読んだ時に自分が受け取っていたニュアンスとは違うと思うことが結構あることに気がつきました。

これは英文を読まないわけにはいかないと思うようになって、何だ結局また英語に苦しむ人生に戻ってしまったのかと、最近つくづく思うようになりました。

思い返せば中学1年生の時から英語を勉強してきたはずなのに、全く進歩をしないでいるというのも、考えてみれば驚異的なことです。

その理由を自分なりに分析してみたのですが、どうも人との対立が上達を妨害しているのではないかと感じるのです。

エゴは自分を守るために、人との間に分離を発生させて、それを維持するために対立状態を形成しています。右手で相手と握手しながら、後ろに回した左手でナイフを握り締めているのが私たちです。

その対立が強すぎると、相手の言語を覚えようと言う意欲が少なくなるのではないかと思うのです。母国語の場合は、まだエゴが成長する以前に言葉を習得してしまうので、問題がないのでしょうね。

だとすると、癒しを進めていくことで、人との対立をもっともっと手放していくことによって英語への拒絶感が少なくなってくれば、今後英語の上達が望めるのかもしれないとも感じています。

ただ、コースでは言葉には意味がないということも言われているため、微妙なところですね。

感情は選択できる その2

私たちは感情そのものをコントロールすることはできませんが、感情の発生をコントロール、あるいは選択することはできるのです。

例えば、人に何かいやな事を言われて、ムカッとすることはよくあることですが、それも実はムカッとこないような選択をすることが可能なのです。

勿論どんな場合でも可能かと言われると、とても難しい場面も多々あるかもしれませんね。でも完全なものを求めずに、できる範囲でも実現したら相当に心を平穏に保つことができるようになります。

それには、まず怒りの発生する心理的メカニズムを簡単に理解しておく必要があります。怒りは恐怖と同じように、自分が危険に晒されていると知覚したときに発生する感情です。

危険を知覚したあと、自分の身を守ろうとする自己防衛が働き、その際に逃げることで身を守ろうとする時に使う感情が恐怖であり、自分の力で相手を攻撃することで防衛しようとする時に使う感情が怒りですね。

つまり怒りの感情が発生するためには、まず危険を知覚する、次に防衛するために必要となる感情の中から怒りを選択する、という二つの工程があるわけです。

このどちらか、あるいは両方をカットしてしまうことによって、怒りを発生させないという選択をすることができるのです。

まず、第一工程である、危険を知覚する部分ですが、ここではどんな種類の危険なのかを調べてみます。そうすると、肉体的な危険と心理的な危険とがあることが分かります。ライオンに襲われそうになったら明らかに肉体的な危機ですね。

ただ、こういった場合には怒りよりも怖れが発生する可能性の方が大きいでしょう。一方の心理的な危険ですが、これは以前もお話ししたように、身体と心を混同していることから起きるものです。

いわゆる、心を傷つけられると感じる危険ですね。もしも、ここで自分の心が傷つけられるということはないのだということがはっきり分かれば、第二工程へ進むことがなくなります。

そして、仮に第一工程ではどうしても知覚したことを危険だという解釈をしてしまった場合には、その結果が第二工程に持っていかれます。ここでも選択が可能です。

この工程で放っておくと、必ず防衛のための何らかの感情が選択されてしまいます。
怒りだけの場合もあるし、恐怖だけの場合もあるでしょうし、両方が選択されてしまうこともあります。そうなると、怒りは恐怖によって抑えられて、心の奥に蓄積されます。

しかし、危険は危険だと決定したのだけれど、本当に防衛することが必要なレベルなのかどうか、もし防衛せずともやっていけるという選択をすれば、怒りを発生させないで済むのです。

こういった心の選択ができるということをいつでも忘れずにいることが大切ですし、もしもリアルタイムでうまく危険ではないという解釈、そして防衛するまでもないという選択をすることができれば、怒りの発生は未然に防げるのです。

それと、もう一つ怒りを発生させない方法があります。これは、先日のブログでも書きました、我々は自分が望む知覚を作り出しているということを思い出して下さい。

端的に言ってしまうと、自覚はないものの、自分が怒りたいので危険を感じるような知覚を自分で作り出しているということです。

ですから本当の危険というものは実はないということですね。ある理由のために、自分が相手を怒りによって攻撃する目的で、それに見合った危険を感知するような知覚を発生させているわけですから。

このことを充分に味わって心の底から納得できれば、ばかばかしくて怒りを発生させるようなことはなくなってしまうということです。

怒りを選択しないという生き方は人生を大きく変化させます。どんな怒りも正当なものは一つもないということを覚えておいて下さい。

そして、怒りを選ばずに平安な心で生きていくための心の訓練を今日からでも実践していきましょう。

感情は選択できる

普段私たちは、毎日様々な感情の渦の中で暮らしています。一人でいて寂しい思いをしてみたり、悲しくなってみたり、人の言動に腹を立てたり、嫉妬をしてみたり、不安や恐怖に押し潰されそうに感じてみたり。

そういうことがなくなって、波が少しもないきれいな鏡のような湖面を思わせる心でいつもいられたら随分といいですね。人によっては、ちょっとのことですぐに怒り出す人がいるかと思えば、いつも穏やかで怒ったところを見た事がないというような人もいますね。

このような辛い感情を感じたいと思っている人は誰もいないわけで、できれば愛に満ちた平安な心で毎日過ごしたいわけです。

それにもかかわらず、何かにつけて我々は不安を抱いたり、ちょっとしたことからイライラして攻撃的になったりと忙しいわけです。

もしも、辛く苦しい感情を発生する代わりに、いい感情、気持ちいい感情が出てくるようにできたら人生はとても生き易くなりますね。というより、それが本当に可能になったらこの世界はユートピアになるはずです。

でも感情というのは放っておいても胸の上につきあげて来てしまう、ある種の情動であるわけですから、意識的にそれを変えることはできないのではないかと一般的には思われています。

しかし、工夫次第でかなりのレベルまで、自分の感情を選択することが可能なのです。感情を選択するというよりも、感情に飲み込まれないようにすることができると言ったほうが適切かもしれません。

気をつけなければいけないのは、発生してしまった感情を抑えるという意味に解釈しないようにして下さい。それはただの我慢になってしまいます。これは最悪ですから。

そうではなくて、感情が発生する前に、何らかの手を打つ方法を考えるということです。感情そのものを発生させなければ、無理したり我慢するようなことをせずに心の底から穏やかな平安な気持ちでいられるのですから。

例えば、怒りに焦点を当てて考えて行きたいと思います。

つづく

自分の本当の姿 その5

更に続きです。

錯覚の中で分離して個別の存在となった自分は、自分は悪くないという表面的な安心感を得ることと引き換えに、大変な重荷を背負うことになってしまったのです。

外側にいると思われる危険な相手から自分の身を守り続けなければならないという重荷です。形は戦国時代とは違うように見えるものの、心理的にはまったく同じだと言ってもいいのです。

身体の危険よりも心理的な危険が自分の周囲には沢山あるからです。身体があると錯覚することによって、心も傷つくと思うようになってしまったのが原因です。

だからこそ、この世界はいつまでたってもどこかで戦争があり、平和のように見えるところでも実は単なる休戦状態でしかないのです。

いつもどこかで誰かが互いに怒りによって攻撃しあっているこの世界に幸せがあるとはとても思えません。あるのは、ほんのひとときの安堵だけです。そしてそれもいつまでも続くわけではないのです。

自分が分離したいという目的を、幻想の中で知覚を作り出すことで実現してしまったばっかりに、今度はここが地獄だからといって簡単に逃げ出すことができなくなってしまいました。

元々のスピリットである本当の自分を思い出すためには、どうしたらいいのでしょうか?それは初めの願望であった分離を手放して一体化の方へ向かうしかありません。

そのためには、自分と相手の間にある時間的空間的な隔たりを埋めていく必要があるのです。その隔たりには実は、罪という想念が使われています。罪深い相手を自分から離しておきたいからですね。

従って、この罪をなきものにすることで、互いの隔たりは消滅していくことになります。罪をなかったものにするのには、赦しを実践することが必要なのです。それも初めから罪などなかったとする赦しの方法です。

それを進めていくことで、次第に相手を攻撃することができなくなってきます。攻撃することは錯覚の中だけで可能だったのだと気づくからです。そうして、相手との距離が近づいていくにつれて、心の平安が増えてくるでしょう。

そうして、相手に全く罪のない姿を見ることができたら、二人の間の隔たりはなくなるはずなのです。そうすると、分離を維持するために使われていた知覚そのものが必要なくなってくるはずですね。

そのあとは、それこそ神のみぞ知るです。神の領域はさておいても、自分ができることをただ進めていくことで、きっとこの世界は地獄ではなくて、愛に満ちた穏やかな平安な世界に変貌していくのでしょうね。

自分の本当の姿 その4

またまたまた続きです。

知覚するとは願望を満たすことなので、私たちは自分の見ようとするものを知覚しているということになります。しかしそれは、自分の想念が作り上げたものですから、ホンモノではありません。

その願望の中心となっているものは、自分がその他のものと分離しているということです。実際私たちは個別の身体を持って、それぞれが別々のことを考えながら生きていると思えるように知覚しているのです。

これこそが私たちの願いそのものです。 それが願いなのだと言われてもきっとピンと来ないかもしれませんね。それなら、これを想像してみてください。世の中で自分が一番忌み嫌うような人をイメージして、その人と自分が一心同体だとしたら…。

絶対いやだと思うはずです。つまり、それが自分は自分として、他の人と違うものでいたいとする心の働きなのです。私はあんな人とは全く違う、似ても似つかない。

極悪非道な殺人鬼ともしも一心同体だとしたら?冗談じゃないと思いますね。それこそが、分離を願う原動力になっています。

もっと一般的な表現をすれば、自分の中の認めたくない闇のような部分を、自分から切り離して、それを自分の外側にある存在として分けたのです。そうすることで、自分はそんな酷いやつとは違うのだと思えることで安心しようとするのです。

その外側にいる酷いやつとは、自分がでっち上げた想念による知覚が作った幻想なのですが、でもその知覚を信用してホンモノとしてみることができるために、あいつは自分ではないとすることが可能になるのです。

でも実は、外側にいると思い込んでたあいつは、自分の内部にいる自分にとっては都合の悪い闇の部分だったということです。

さて、まとめましょう。自分の本当の姿というのは、実はスピリットであり、きっと愛の想念であるのですが、理由はともかくとして、何か自分の内部に良からぬ部分があると思い込んでしまったのです。

でもそれはとても都合の悪いことなので、その部分だけを心の中で隔離して見えないようにするとともに、知覚を使ってその都合の悪い部分を自分とは分離された外側の存在とするような錯覚を起こしたのです。

身体もこの世界もその悪い奴もみんながバラバラに存在しているという錯覚を作り上げて、安心することにしたというわけですね。

分離しているという錯覚によってひと安心はできたものの、自分とは身体を持っていずれ死ぬ運命にある個体としての人間だと惑わされているわけですから、心から満たされるということはあり得ません。

それに身体を持ってしまったという錯覚によって、様々な不幸が訪れるようになってしまいました。それは、病気であり、怪我であり、本当に愛する人とはどんなにくっついてみても一つにはなりようがないという絶望的な悲しみです。

身体を死から守らねばならないという幻想を持ったことで、自己防衛を続けなければならなくなってしまい、そうやってエゴの活躍が続くのです。本当の自分であるスピリットであれば、全く無防備でいられるはずなのですが。

自分の本当の姿 その3

またまた続きです。

私たちは、自分の外側の世界というものがあって、そこに物体があるとして、それに光が当たって、その反射した光が肉体の目の網膜に入り、視覚情報としてそれが脳に伝わって、そこに物体があると認識するというように考えています。

その知覚についての常識を一旦白紙に戻しましょう。そして、次のように考えてみるのです。肉体も、その肉体の一部である知覚も、すべて自分の想念が作り出したものであって、その知覚を使って自分の外側に自分とは違う何かがあると思わされてるだけだと。

つまり知覚(五感)による感覚そのものも自分が作り出しているものであって、それを我々は信じてしまっているということです。自分の心の奥の想念が見たいもの、聞きたいもの、触れたいもの、そういったものを身体を使った知覚として発生させて、それによって、身体の外部にこの世界があたかもあるように見せかけているということです。

これが、実はこのブログで何回も出てきた投影というものです。投影というのはその言葉どおり、心の奥の思いを知覚を使ってあたかも外側に存在するかのように、まるで映写機のように投影しているということです。

常識では、この宇宙の中に地球があって、それは自分がここにいてもいなくてもずっと存在していて、そこに赤ちゃんとして生まれてきて、生きて、そして死んでいくのが自分の姿です。

しかし、この新たな想定ではそういったことがすべて否定されてしまいます。深刻に考える必要はまったくないのですが、この想定を科学的に否定することはできないはずです。

そうすると、こういう想定をしたとすると、自分という存在は一体何者なんだろう、という疑問が果てしなく浮かんできます。すべてがひっくり返ってしまい、今までの常識は全く使えなくなりますね。

一つの結論としては、自分とは思い、想念そのものであるということが言えると思います。つまり、それがスピリットということです。肉体は作り物だし、この世界も同じように自分の想念による作り物であるということになります。

この結論が自分の幸せとどう関連するかを考える必要があります。

自分の本当の姿 その2

昨日のつづきです。

子供の時にふと思っていた、自分とは何なのだろう?という疑問について、それを真剣に紐解いていくことで人生をより幸せな方向へと向かわせるという、その理由について考えて行きたいと思います。

私たちは6歳くらいからの義務教育のスタートと共に正規の教育が始まりますね。勿論その前から英才教育と称して幼稚園その他でも教育する場は沢山あります。

いずれにしても、『あなたは、こういう存在で、こういった目的のために今ここに居るのです。』といった、教育というのはされることはありません。

それはそうですね、学習過程を作る人にとっても先生や親にとっても、誰にも分からないようなことを子供に教えることはできませんから。

日本の常識では、そういった種類のことは宗教などの教えとして、あるいは個人的に興味があればそれなりの年齢になって書物などを頼りにして勉強すればいいことという捉え方をしていると思います。

そして、誰に教わるでもなく、気がつくと自分は当然のように人間として生まれて、この世界でしばらく生きて、そして死んでいくのだと結論付けてしまいます。それが自分というものなのだと信じてしまうのです。

一度信じてしまったことは、よほどのことでもない限り、それ以降疑うこともしなくなるし、その信じていることを覆すことは非常に難しくなりますね。

しかしなぜ、誰にも明確に教えてもらったわけでもないのに、このような一つのことを誰もが信じてしまうのでしょうか?

それは、人は自分の知覚(五感)を信じているからです。すべてはそこから始まっていると思います。自分が見るもの、聞くもの、触るもの、そういったものは実在としてあるという認識をします。

なぜなら、自分の知覚を信用しているから、感覚から入ってきた情報を鵜呑みにして、それをベースにしてこの世界を認識してしまうのです。

そして、普段はそんなことも忘れて生活しています。もし、自分の知覚を疑うとしたらどうでしょうか?自分の存在も、この世界である自分の周りの実在もすべてが怪しくなってきますね。

幻覚、幻聴というのはありますが、そうではなくて、普段の自分の視覚、聴覚を疑ってしまうのですから、それこそこの世界がひっくり返るくらい大変なことになっても不思議ではありません。

実は疑う価値があるのです。もし、自分の本当の姿を隠して、ニセモノの自分として生きていたら、満たされた幸せな状態になるでしょうか?私は自分が何をやっても完全には満たされることが無いのはなぜかと真剣に考えたのです。

そして出た結論は、満たされない真の理由は、本当の自分とは何ものかに気づかずに生きているからなのではないかと思ったのです。自分の本当の姿を自分は心の奥で実は知っている。

でもそれを思い出したくないなんらかの理由があるために、気づかないようにされている。だから、何かがしっくりこないような、何とも言えない感覚を抱きつつ生きているのだろうと思ったのです。

本当の自分を探すには、今まで何の疑いも無く信じていたものを全部一度白紙に戻して、見つめなおす必要があるのです。それ以外に方法はありません。

だから私は幼い頃の自分の感覚を信じて、つまり自分の知覚に違和感があるなという気持ちを思い出して、再度、この五感はホンモノなのかを疑うことを始めました。

そうしたら、そこに思いも寄らない世界が広がってきました。ものすごく強力な後押しをしてくれたのが、他でもない、「奇跡のコース」でした。

皆さんも自分の正体を知りたくはないですか?これはただの興味ではなく、本当に満たされた平安な心で生きていくうえで欠くことのできないことだと思うのです。

目的はとにかく単純です。いかに幸せになるかということですから。このことを一度心静かに見つめてみてはいかがでしょうか。

自分の本当の姿

子供の頃、自分て何ものだろう?何で自分は今ここにいるんだろう?何で宇宙があるのだろう、死んだらどうなるのだろう?というようなことを考えたことがあります。こういったことは、多かれ少なかれ誰にでも経験があると思います。

ところが、成長するにつれて、このようなことが頭をかすめることは次第に少なくなっていきますね。それは、こんなことをいくら考えたって答えが出るわけでもないし、毎日の実生活には何の足しにもならないと思うからです。

それどころか、大人になるにつれて日々の生活に追われて、辛いこと苦しいことを何とか乗り越えて生きていかなければならないので、子供の頃の純粋な疑問などすっかり忘れてしまうようになってしまいます。

しかし、子供の頃の純粋な探究心は後に大きな成果を生む場合もあることを我々は知っています。例えば、ニュートンがりんごが木から落ちるのをみて、万有引力を発見したなどは有名ですね。ただ、この話しは実話ではないらしいですが。

ですが、きっと最初は素朴な疑問からのスタートだったのだろうと思います。そして、ニュートンが発見したニュートン力学がなければ、人類は月に行くこともできませんでしたし、それどころか、あらゆる乗り物などの発明もなく、今の近代文明の発達はあり得なかったはずです。

それと同じようなことが自分自身についても言えるのです。つまり、自分が子供の時にふと思っていた、自分とは何なのだろう?という疑問について、それを真剣に紐解いていくことは実は人生を大きく変えるチャンスとなるのです。

勿論、より幸せな人生へと向かわせるチャンスであると同時に、実際に幸せへと向かわせることになるのです。なぜそんなことが言えるのかと、それこそ疑問に感じられるはずですね。

それについては、このつづきでお話ししたいと思います。