自分がいるから宇宙がある

 小学生の頃、朝学校に登校するとき、妙な考えが浮かんだことがありました。それは、学校の校舎が昨日と同じようにあの場所に建っているかどうかは、行ってみるまでは分からないのではないかというものでした。分からないという意味をもっと正確に表現すると、自分がそこに行かない限り、校舎が建っているかどうかということに意味がないということです。勿論、いつもどおりに校舎はそこに建っているはずだという期待は、一度も裏切られたことはなかったのですが、この考えかたが気に入って、他のどんなものにでも当てはめて考えたりしていたのです。

 例えば、夜プロ野球の実況中継をテレビで見ていると、大抵は時間切れで試合の最後まで見ることができずにイライラしたものでした。そんな時、もう当然試合の結果が出ていると思われるような遅い時間になっても、自分がなんらかの方法で結果を知るまでは、試合の結果は不定なのだろうと考えたりしたのです。今見ているお月様は、きっと明日の夜空にもぽっかりと浮かんでいるだろうけれど、それまでの間にお月様があるかどうかは不定だと考えるのです。

 つまり、自分が何らかの方法で確認しない限り、対象となる物事の状態は確定しないという発想なのです。逆に言えば、自分が知りえた瞬間に物事の状態が確定するということです。数日前にやったテストの点数は、先生が採点した時点で確定すると考えるのが普通ですが、学校に行って実際にそのテストを返してもらった時に点数が確定するという考え方なのです。この考え方が気に入った理由の一つとして、この考え方が間違っているという証明ができないのではないかと思ったからというのがあります。馬鹿馬鹿しいと一笑に付してしまうのは簡単ですが、厳密にその考え方が正しくないということを証明することはできないはずです。

 正しいとか正しくないとかの問題ではなく、要するに合理的に物事を捉えるか、あるいは極端に非合理的に捉えるかの違いなのではないかと思うのです。昨日会った友人は今日も生きてる、あるいは生きているか死んでいるかのどちらかだと考えるほうが合理的であり、次に会うまで生きてるかどうかは不定と考えるのは極端に非合理的だということです。コラム『常識という非常識』の中でもお話したように、地球が宇宙の中心であるとする天動説よりも、地球が太陽の周りを回っているとする地動説の方が単に合理的だということに過ぎないということなのです。勿論常識的には、地動説が正しい理論で、天動説は間違っているとするのですが…。

 大人になってから、世界の理論物理学者たちがこのような考え方を「コペンハーゲン解釈」と呼んで、様々な論争をしていることを知って、びっくりしたことを覚えています。実際、素粒子などの極微の世界では、観測者によって観測された時点で素粒子の状態が確定するということが今では科学の常識として分かっています。つまり、人の意識が素粒子の状態を確定させることと密接に関係しているということです。難しい物理学のことは分からないですが、はっきり分かっていることは自分が心の中で物事をどのように解釈しようと自由だということです。

 この考え方を拡大していくと、自分が物事を認識するということ、つまり自分の意識というものが身の回りの事象と大きく関係しているということに発展していきます。自分が認識しない限り、物事はすべて不定の状態である、もっと拡大すれば、すべての存在自体も不定ということにもなっていきます。結局、この宇宙の存在そのものも、自分の認識というものなしには認めることができなくなるということなのです。こうして考えてみると、自分の意識というものがこの宇宙で唯一絶対的なものであると思えてきます。

 だとすると、自分がいるから宇宙があると思ってもいいかもしれません。このように表現すると、とても傲慢な考え方のように受け取られてしまうかもしれませんが、自分がこの宇宙の支配者であると言っているのではなく、人間とは所詮、自分の存在なしでは夜も日も明けないのだということを腹の底から分かる必要があるということなのです。クライアントさんの中には、自分という存在など取るに足らない本当にちっぽけな存在なのだと感じてる人が意外に多くいらっしゃるのです。自分などどうせ誰からも認めてもらえないような駄目な存在なのだと心の奥底で思っているのです。

 このような自己否定感、セルフエスティームの欠如からくる無価値感などを持ったまま生きていくことは相当に辛いことです。でも自分がいるから宇宙があるのだと考えてみれば、自分の存在をそう簡単には否定できなくなってくるはずです。なぜなら自分を否定してしまえば、宇宙そのものを否定してしまうことになってしまうからです。自分の存在がこの世のすべてなのだと分かれば、自分のことをもう価値がないとか嫌いとか言っているような範疇ではないと気づくはずです。宇宙がどんなに気が遠くなるほど広大であっても、自分がいなければその広大さにさえも意味がなくなってしまうのです。自分がいて、自分が認識するからこそ地球も存在することになるということなのです。

 そしてもう一つ、この考え方が気に入っている大きな理由があるのですが、それは自分が認識するまですべての事象が不定であるということは、もしかしたら認識する瞬間の自分の意識が、周囲の事象が白と出るか黒とでるかということに影響を及ぼす余地があるかもしれないということなのです。自分の知らないところで、先生がテストを採点した時に点数が決まってしまうのであればもうどうしようもないですが、自分が結果を知るまでは確定していないのだとすれば、自分が認識した瞬間に何らかの力で望むようなテストの結果を出すことができる可能性があるのかもしれません。

 いや、もっと言えば、不定の状態から確定の状態に遷移するときに、ただ偶然にその状態になると考える方が無理があるのではないでしょうか?それよりも、自分の意識がその状態に確定させる要因を作っていると考えるほうが自然なのではないかと考えられます。意識といっても、自覚できる表面意識のことではなく、潜在意識なども含めたトータルな自分の意識が影響を与えるということです。この場合の自分の意識というのは、自分のエネルギーと言い換えてもいいかもしれません。

 コラム『エネルギーは友を呼ぶ』の中で、自分のエネルギーに見合った現実が自分の身の回りに起きてくるということをお話しましたが、これは上の考え方を利用して表現し直すと次のようになります。身の回りの不定であったすべてのことが、自分が認識した瞬間に自分のエネルギーに見合った状態に確定する。自分のその時のエネルギーが自分の意識を作っているとも表現できるので、結局自分の意識が自分の現実を作るということになるのです。これは、コラム『人生は自作自演』の中でお話した内容と一致するのです。

 今までお話してきたことは、一般的な考え方からすると、あまりにも唐突過ぎると感じられるかもしれません。私自身もこういった考え方に凝り固まって生活しているというわけでは勿論ないのです。ただ、人の心は自由だし、いろいろな発想が巡ってきても構わないし、常識とかけ離れているとしてもそれで少しでも自分が生きやすくなるのであれば、こんなにすばらしいことはないと思うのです。是非みなさんも枠にはまらない自分なりの独特の考え方を積極的に使って、より味わい深い人生へと変えて行っていただきたいと思います。